原衛土(ハラエド)9
「うわ、何これ!?」
航が声を上げ、術を解く。禍枉の体の内にあるところから、光の筋が赤く変色していた。慌てて術を解くも、一瞬を突くように光はどんどん赤く侵食されていく。
それとほとんど同時にアルバドゥが一生の腕を引いた。情けない声をあげて一生が体勢を崩し倒れる。
「【ノクォヴ】」
アルバドゥが右手を銃形にして禍枉に向ける。発射された豆粒ほどの光の弾が赤く染まった祝の筋を割り穿つ。
どこからか飛んできた小刀が禍枉の脳天に突き刺さった。
禍枉の目に宿った光が今度こそ消える。それからすぐに、巨頭も塵となって霧散し、カランと軽い音をたてて小刀が床に落ちた。
「……びっくりしたぁ」
声をあげたのは一生だった。それから、「アルちん、腕、腕」と掴まれている腕を反対の指で指す。
アルバドゥは掴んだままの腕に視線をやってから、そういえば掴んだままだったとばかりに手を離した。一生は思いの外強く握られた腕をぶんぶんと振っている。
アルバドゥが散り消える禍枉に近づき、床に転がった小刀を拾い上げた。
「ナイフ?」
「私のものだ」
扉の方へと行っていたはずのナオがアルバドゥを見下ろしていた。刃渡り20cm弱程度の小刀には、柄と刀身のそれぞれに細かな紋様がつけられている。
差し出された手にアルバドゥはそっと小刀を置く。それから、まだ残っている禍枉の体部を一瞥し、真面目な顔で呟いた。
「これがセミファイナルというものですか」
「いや、違うし。どっちかっていうとアリファイナルでしょ」
いつの間にかやってきていた一生がアルバドゥの肩口から声をかける。
「アリファイナル」
「いや、それもそれでおかしいと思うんだけど」
アルバドゥの肩に手を置いたまま、一生がそれにしても、と続ける。
「今のなーに? なんか光ってたよね。ナオちん、なんか知ってるんじゃないの?」
一生とアルバドゥがじっとナオを見つめる。その後ろで航も立ち上がり、服を払っている。
ナオは無表情のまま数秒黙っていたが、少し眉根を寄せて口を開いた。
「アリファイナル、なんじゃないのか」
「ナオちんもわかんないわけね」
一生が白い目でナオを見る。その下ではアルバドゥが「重いです」と不平を述べているが、それを気にするつもりはないらしい。
そんな3人から少し離れたところでは、航の元に麗と正親が集まっていた。
「無事ですか」
「俺は大丈夫。だけど、こいつのこと全然探れなかったな」
航が手を握ったり閉じたりしながら残った禍枉の体を仰ぎ見る。その隣で正親も同様に禍枉を見上げた。
ずんぐりと大きな躰が、少しずつ解けながら、そこに横たわっている。上から押しつぶされただけで、人なんてひとたまりもないだろう巨体。その端々から漏れ出る煙のような塵のようなそれが、空気の中に溶けて消えていく。その断片が、確かに文字のような形を持って、蛍のようにちらりと光る。
「……数字」
ぽつりと声が落ちた。
「そういえば、ここの禍枉は体が数字でできていますよね」
「数字?」
アルバドゥの言葉を一生が繰り返す。ナオも少し首を傾げて見せてから、禍枉を見上げた。アルバドゥがまだ残っている禍枉の体の傷口を指さす。そこから煙のように立ち上がる黒い霧。
「一瞬だけ0と1の形に見えませんか」
「よくあんなところ見えるね」
目の上に手を当てて、目を細めながら、一生が感心したように言った。
「0と1か」
航が3人のもとへと近寄ってくる。それに続いて麗と正親も集まる。
「0と1って言われると、思い当たるのは2進数だけなんだけど」
「にしんすう?」
アルバドゥが首を傾げる。
「なにそれ」「なんだそれは」
一生とナオも続いた。
3人揃って首をかしげ、「ニシンの何かですか」「ちょっと美味しそう」「食べ物なのか」と頓珍漢なことを話し始める。その様子に航は呆れた様子で深く息を吐き出した。
「進数って学校で習わないんだっけ?」
「学問は必須ではない」
「あ、それは同意。そんなこと知らなくても生きていけるし」
「そもそもガッコウに行ったことがありません」
小刀を仕舞ったナオが腕を組んで言う。それに一生も同意した。アルバドゥはアルバドゥで手を挙げて勝手気ままに発言している。
そんな3人の様子に航は頭が痛くなるのを感じた。
その後ろでは麗も曖昧な笑みを湛えたままで、正親だけが何の話をしようとしているのか理解しているらしい。
「詳しい話はしないでおくけど。まあ、一番使われてるのはやっぱコンピュータ分野とかなんじゃない。そういうところで言語の代わりとして使われてるものだよ」
「あまり正しくはないような……」
正親が思わず小声で呟く。航は詳しい説明をするつもりは毛頭ほどもないらしい。
我々が普段使っている数字は、0~9までの10種の文字によって数を表記する10進数である。その使用文字を0と1の2つとしたものが2進数。主にコンピュータなどの分野で使われる。
そういう説明を一切省き、航は続けた。
「あの禍枉が0と1という2つの文字によって構成されているんだとしたら、もしかしたらここは、デジタル世界なのかもしれない」
「「「デジタルせかい」」」
3人の声が一致した。
まるで理解しきれていない様子ながらも、アルバドゥが口を開く。
「禍枉が文字からできているのなら、祝と同じようなものなのでしょうか」
航はそれに肯定も否定も返さない。ただ、祝が文化や認識を術の基本とするのに対し、この冥宮のつながる世界はもう少し違う系統の力が働いているように思えた。
うーん、という唸り声をアルバドゥは耳元に聞く。
「よくわっかんないけどさ、とりあえずここにいても何も進展しないってことだけはわかるよ。オレとしてはここが安全だっていうなら別にここで留まっててもいいけど、全員でこのままここにいても飢え死ぬだけっしょ? とりあえずなんかしない?」
一生の言葉に、ナオが扉の方へと視線を送る。それから航に近づいた。
「え、なに」
「ついてこい」
戸惑う航をナオが有無を言わさず引っ張っていく。禍枉の横を通りすぎて、向こう側に消える。
アルバドゥと一生は顔を見合わせ、麗たちとも視線を合わせてから、2人を追った。