原衛土(ハラエド)1
いつか師匠が言った。
「アンタがどんな道を選んでも構わないけどね。これだけは忘れちゃだめよ。アンタの進む道はアンタが決めなさい。誰かに決めてもらった道なんて、ぬるいことやったら、アタシが殴りに行ってあげるから」
辺りに立ち込める鼻が曲がりそうな鉄の臭いも、体を支える手についたドロリとした感触も、耳が痛くなるような静寂の中に響く師匠の声も、私の頭をガシガシと撫でる大きな手も、瞼を閉じれば目の前に現れるように覚えている。
それなのに、その時の師匠の顔を私は今も思い出せないでいる。
***
降りろ、と一言、男の鋭い声がした。
小さな車の中に言葉もなく座っていた彼らは、開かれた扉から指示の通り外に出る。
窓をカーテンで塞がれていたためか、降り注ぐ日の光が眩しい。
風に吹かれて木々がざわめく。その合間から見上げた空は雲ひとつなく、晴れの日という言葉がよく似合う。
そこに集った彼らは、服装も性別も身長も体格も様々だった。案内のためについてきた男を除いて6人。共通しているのは、彼らの役割と、それを示す徽章をつけているという点だけだ。
車に乗り込む前から、彼らの間に会話はなかった。一応仲間という体であるから、諍いが起こるようなことは禁じられているが、会話まで制限されているわけではない。
それでも誰も一言も言葉を発さないのは、彼らの間に仲なんてものがないからであり、かつまた、彼らが無用な馴れ合いを必要としていないからでもある。
役割が同じだったというだけだ。そうしてここに集められた。共に生きるつもりもなければ、共に死ぬつもりもない。そもそも、一人で生き抜く覚悟がなければこんなところまで来ていないだろう。
長い黒髪を高く1つに結った青年——立花ナオは、そっと腰の刀に触れる。石畳は向こう5メートルほど続き、少しの荒地がある。そのさらに奥に幕で覆われたところがある。一見すると工事現場のようだが、誰もがあれはそんなものではないと知っている。ナオたちの向かう先は、その幕の向こう側だ。
「来たか」
ナオたちを連れてきた男が言った。男の視線の先、烏帽子に白狩衣白袴の男たちが、数人連なって歩いてくる。
男たちはアスファルトで舗装された道路からナオたちのいる石畳の小道へと入り、軽く会釈をした。その眼光は鋭い。彼らはこの地域の封守だ。
世界各地に観測されている、迷宮への入り口を管理するのが、彼らの役目である。国や地域によってその呼称はさまざまであるが、この国では、現世との境であるということから、封守と呼ばれている。
「ようこそいらっしゃいました」
先頭にいた男が、まるで歓迎していない様子で言った。ナオたちを連れてきた男が、無言で礼をして応える。
封守はその地域にもよるが、土地管理という役務上、権力者であったり、その土地に根付いた社の神主が務めている場合が多い。一機関の職員でしかない彼らとしては、向こうの方が立場が上なのだ。
対して、ナオたちは祝法士と呼ばれる。迷宮の探索者である。
付け加えて言うのなら、その中でも特に手に負えないと判断されたのが彼らだ。立場なんて知ったものではない。
「修祓の後、結門へと案内いたします」
先頭にいた男は、彼らを一瞥して、顔色ひとつ変えずに言った。後ろに控えていた男たちも会釈をして、先頭の男について、幕のある方へと足を向ける。
「ついていけ」
ナオたちを連れてきた男が、顎で浄衣の封守たちをさす。6人はそれに従った。
乾いた土の上を列になって歩いていけば、そう遠くなく、工事現場の仮囲いように区切られた幕に近づく。鉄パイプに括り付けられた灰色の幕は、風を受けて、下の方では向こう側の地面が見える。
浄衣の男のうち2人が、小走りにそれに近づいて、中央付近にあるファスナーを開いていく。人が通れるよう2箇所に真っ直ぐ開きあげ、それをくるくると巻き上げて、門を作った。
その門をくぐり、続いて中に入れば、また壁に阻まれる。元々パネルで覆われていたところに、この空間を作るために幕を設置したらしい。
狭いとはいえ、学校の教室ほどは広さのあるそこで、浄衣の男たちが向きを変えた。ナオたちと向き合うかたちだ。
幕を持ち上げていた男も、ナオたちを抜かして男たちに混ざる。
先頭の男が、6人に声をかけた。
「さて、みなさまもお察しの通り、この先が繋戸でございます」
これまた工事現場のようなパネルを横目に見て、男が言う。おおよそ中央という位置に扉が設けられ、その右側にはモニターが設置されている。左側には法令に則り、管理者の氏名などが記載されている。
「我々がご案内いたしますのは、鬼坂の手前まで。それに先立ち、ここにて修祓を受けていただきます」
言うなり、男たちが輪になり、ナオたちを囲った。
その土地ごとに、封守はそれぞれだ。探索に先立ち、場所の案内に地図を渡すだけの場合もあれば、こうして丁重に清めを行う場合もある。それらはその土地ごとの考えであったり、信仰によるものだ。
男たちが祈りの言葉を上げる。ここではそういう形をとるらしい。場合によっては有無を言わさず上から冷水をかけられることもある。
ゆったりと祝詞を読み上げるのをナオたちは黙って受ける。探索をするものは、その土地の封守に従うことが義務付けられているためだ。
男たちが唱え終えると、パネル中央の扉が開かれる。ついてこいとばかりに、また列になって歩き出した浄衣の男たちを追う。
パネルを潜り抜ければ、空気が変わったような気がした。真っ直ぐな道を誰も言葉を発することなく歩いていく。左右も道を作るようにパネルで囲まれている。あのパネルの向こう側は先ほど見えた森だろう。
しばらくそのまま進んでいけば、見上げるほどの大階段が近づいてくる。
「これが鬼坂」
先頭の男に合わせて、歩を止める。ビルでいうなら3階分ほどの階段だ。
「我らは鬼坂を超えることはできませんゆえ、ご容赦を」
浄衣の男たちは少し離れてナオたちを向き、軽く頭を下げた。
迷宮に繋がる門の周辺は繋戸と呼ばれる。その中でも、鬼坂を超えた先に結門がある。
鬼坂といっても、形はそれぞれで、本当に鬼のように険しい上り坂の場合もあれば、ほんの少しの坂であったり、下り坂、今回のように階段である場合もある。
ナオはほんの少し苦い顔をする。
必要なこととはいえ、この長い階段を登りきるのも一苦労だ。
会釈の姿勢から動かない彼らを横目に、ナオたちはその階段に足をかけた。