2-2.きみのためにできること
四人で囲む食卓はにぎやかで、新しい家族としての門出の夜は、終始あたたかく優しい空気に包まれていた。光と陽多が二人で選んだ両親への結婚祝いも喜んでもらえて、敏光と沙知佳は笑顔で中目黒の家をあとにした。
父の車が見えなくなるまで外で見送り、陽多とともに家の中に戻ると、急に部屋が広く感じられるようになった。これからこの場所で、陽多との二人暮らしが始まるのだ。
改めて考えたら、ドキドキしてきた。緊張を陽多に悟られないように、光はそそくさとキッチンに立った。食事のあと片づけは光が進んで引き受けていた。
いつもそうしているのか、陽多はリビングルームのソファに足を向けかけて、すぐに光を追いかけてキッチンに入ってきた。
「僕も手伝う」
「いいよ、おまえは。疲れてるだろ」
「でも」
「むしろ邪魔だから。水道の蛇口一つしかないから」
邪魔という言葉はさすがに響いたらしく、陽多はすごすごと引き下がった。「今のうちに風呂入ってこいよ」と光は勧めたが、陽多はダイニングの椅子を一つ持ってきて、キッチンカウンターを挟んで座り、光が洗い物をする姿にうっとりと目を細めた。
「あんまり見んなよ。恥ずかしい」
光がにらむ。それはむしろ逆効果で、陽多は嬉しそうに頬をほころばせた。
「おいしかった。光くんの作ったサラダとスープ。優しい味がした」
「そりゃどうも」
照れ隠しでぶっきらぼうにこたえると、陽多は笑みを深くした。
「また食べたいな。光くんの料理」
「食いたい?」
光はなにげない口調で尋ねる。
「俺は基本的に毎日自炊するから、食いたきゃおまえの分も作るけど」
陽多の顔つきが変わった。驚いているようで、その瞳は宝物を見つけた少年のように輝いている。
「本当に?」
「うん」
「毎日?」
「おまえが食いたいって言うなら、いいよ。作る」
毎日ではなかったが、もともと二人分を作っていたのだ。遅番の日は帰りが午後十時を回ってしまうけれど、簡単にあたためられるものを朝のうちに作っておけばいい。それほど大きな負担にはならないはずだ。
陽多は思考が一時停止したようにその場で固まり、やがてゆっくりと立ち上がると、光の背後に歩み寄った。
背中にあたたかな熱を感じる。
光が振り返るよりも早く、陽多が光の首もとに両腕を回した。
「陽多?」
黙ったまま、陽多が後ろから抱き寄せてくる。素肌が触れ合っているわけでもないのに、密着した部分に軽い痺れを覚え、胸の鼓動が速まった。
「大好き」
男の色気に満ちたささやきが、光の右耳の奥をくすぐる。
「ねぇ、どうしてそんなに優しいの? こんなの、好きになるに決まってる」
「陽多……」
回された腕の力が強まる。かすかなからだの動きに合わせて揺れる陽多の髪が男らしく香り、光の中にあるなにかに陽多の存在を強く訴えかけてくる。
スポンジを握り、泡だらけになった両手では、陽多の腕を振り払うこともできない。陽多にされるがままの状態を許していることに戸惑い、「離せ」と言えない自分に戸惑い、けれど陽多から伝わってくる熱は優しく、不快な気持ちにはならなかった。
「ごめん」
陽多の腕から力が抜ける。スッと遠のいた熱を振り返ると、陽多は屈託ない笑みを光に向けた。
「邪魔しちゃったね」
キッチンから出ていく陽多の姿は目で追わず、光は白い泡に包まれた手で蛇口を開いた。シンクをたたく水に食器をさらし、流れては消えていく泡の行方を見つめながら、リビングのソファに腰を落ちつけた陽多に尋ねた。
「好物は?」
光に背を向けるように座った陽多が、それはもう目の覚めるような色っぽい仕草で振り返った。
「好物?」
「うん。明日、なにが食べたい? レパートリーはあんまり多くないけど、おまえの好きなものを作るよ」
光なりの、陽多の気持ちへのアンサーのつもりだった。
どうこたえていいのかわからない部分は多い。けれど、拒絶するつもりはない。
陽多とはまだ出会ったばかりだ。ともに過ごした時間は短く、互いに知らないことが多すぎる。
それでも陽多は、光を求めてくれている。その気持ちを無駄にすることはできないし、なにより、素直に嬉しいと思えた。自分ではない誰かとの距離が少しずつゼロに近づいていく過程を味わうのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。
陽多は一瞬目をまんまるにしたけれど、やがてカメラマンに向かってポーズを決めるモデルのように、ソファの背に折りたたんだ両腕を載せ、その上に自らの顎をゆったりと預けた。
「カレーが食べたい。辛すぎないやつ」
辛すぎない、と光は陽多のリクエストを半笑いでくり返した。
「カレーね。いいよ」
「あぁ、ハンバーグでもいいな」
「いいね。俺も食いたい」
「あと、鶏の唐揚げ。もしくはマカロニグラタン」
「小学生かよ」
光が笑うと、陽多もつられて笑った。混ざり合う二つの笑い声が、一人で暮らすには少し広すぎるこの家いっぱいに広がっていく。
陽多のリクエストしたメニューは、すべて光の好物でもあった。酒のつまみになるようなメニューを好む父とは違う料理にチャレンジできそうで、明日からキッチンに立つのが楽しみだと、光は心が躍るのを感じた。
陽多が風呂へ行き、一人になったキッチンで、光は換気扇を回した。立川の実家では、いつもそうやって非喫煙者の父に気をつかいながらタバコを吸った。
御守りのようにジーパンのポケットにねじ込んでいる電子タバコの電源を入れかけて、光は静かにその手を止めた。
「……ダメだったよな、あいつ」
陽多の顔が頭をよぎる。はじめて顔を合わせた日、むせ返るほどタバコの煙が苦手なのだと申告していた。
やめようかな、と思った。
二十歳の誕生日を迎えた日、当時大学生だった光に誕生日プレゼントだと言ってキャメルの箱と百円ライターを買ってきたのは、所属していたフットサルサークルの先輩だった。サークルにはあまり熱心に参加していたわけではなかったが、その先輩は同じ立川出身という縁でなにかとよくしてもらっていた。
いつかやめなくちゃいけないと思って吸い始めたタバコだった。結局きっかけがつかめないまま社会人になり、電子タバコにまで手を出した。
今がタイミングなのかもしれない。いくら陽多のいない時間だからといって、一つ屋根の下で暮らせば影響が出ないとも限らない。
なにより、陽多は守られるべき人間なのだ。光がタバコの害に打ち負けてからだを壊しても誰が困ることもないが、陽多の場合はそうはいかない。
彼の存在は、彼の力は、世界レベルで待ち望まれるものだ。光の甘えで、陽多の活躍に水を差すことは許されない。
やめよう。
強く決意を固め、陽多は換気扇のスイッチを切った。
二階に新しく作ってもらった寝室へ向かうと、陽多が買ってくれた木製デスクの引き出しの奥に、電子タバコをしまい込んだ。




