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蜜月ラプソディ  作者: 貴堂水樹
第二章 始まる、一つ屋根の下
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2-1.孤独の影

 十月に入ると、陽多は映画の撮影で急に忙しくし始めた。主演ではないらしいが、この先二ヶ月は撮影と他の仕事でスケジュールがパンパンだという。

 やはり陽多が立川へ転居するという選択肢ははじめから考えなくて正解だったなと、光、敏光、沙知佳の三人は、立川の佐竹家から中目黒の志波家へと運んできた光の荷物を敏光の愛車である黒いヴォクシーから降ろしながら、陽多をさかなに家族としての会話を盛り上げていた。


 土曜であった昨日のうちに沙知佳が立川への引っ越しを終え、日曜の今日、沙知佳と入れ替わるように光が中目黒へと越してきた。家主である陽多は、映画の撮影で朝から都内のスタジオに缶詰め状態にされているためこの場にはいない。


 はじめて訪れた中目黒の志波家は、大通りから少し奥まった閑静な場所に建てられていた。建売分譲の一角を買ったのだと聞いていたが、一見したところ確かにそれほど大きくはなく、ごく一般的な二階建て住宅の外観をしている。

 しかし、一歩家の中に入った瞬間、この場所が一般人の住む家でないことを光は否応なしに悟ることになった。


 ささやかな観葉植物の鉢と一枚の絵に出迎えられた玄関から、格調高い空間は始まっていた。その先、リビングに足を踏み込むと、景色はさらにグレードが上がった。


 部屋全体にひかりをちりばめたような空間だった。

 天井からぶら下がるシャンデリア然とした照明器具は、LEDの白でも、白熱電球のオレンジでもない、独特の黄色で室内をいろどり、大理石調のタイルで敷き詰められた白い床は、太陽の光を反射する小川のような輝きに満ちている。長袖Tシャツにジーパンという休日スタイルだったが、シンデレラ城で開かれる舞踏会に招かれた気分になった。


 立川の家にある43インチのテレビより幾分大きなテレビの前には、一目で高級とわかる革張りの白いソファ。南側の窓には金糸で刺しゅうが施されたアイボリーのカーテンが両端に寄せて束ねられている。壁に備えつけられた高さ一メートルほどのリビングボードも白で、観葉植物やスノードーム、陽多と沙知佳が並んで撮られた写真などが飾られている中に、陽多の名が刻印された賞状が二枚、立派な額に収められて輝いていた。日本アカデミー賞で新人賞と話題賞を受賞した時のものだ。


 三人のコックが自由に歩き回れるくらい広く取られたオープンキッチンの背後には、こちらも白い食器棚と、最新式と思われる電気圧力鍋が置かれているのが見えた。

 キッチンと向かい合うように設置されたダイニングテーブルは、母子おやこ二人暮らしでは持て余すだろう六人掛け。こちらも安物でないことは一目瞭然だった。ニトリでは扱っていないワンランク上の質感は触らずともわかる。


 総じて、志波家のリビングダイニングキッチンは三十畳を超える広さがあった。外観からはわかりにくい奥行きのある家で、見た目に騙された自分がひどくマヌケに思え、光は自分勝手に打ちひしがれた。心のどこかで、陽多と自分とは変わらない人間だと思っていた。二人の住む世界には天と地ほどの差があるというのに。


「そわそわしちゃうでしょう」


 リビングの真ん中で立ち尽くしている光に、沙知佳が苦笑いで声をかけた。


「私も慣れるまでにずいぶん時間がかかったのよ、町田の都営住宅からここへ越してきた時。落ちつかなくてね。なにもかもがキラキラして見えるものだから」

「そうだったんですか」


 えぇ、と沙知佳はシャンデリアみたいな照明を見上げた。


「この家にあるものは、全部陽多のお世話になってる芸能事務所の方が用意してくださったの。陽多の仕事は世間に夢を与えることだから、夢のある生活をしていなくちゃダメなんだって言われてね。当時の陽多はまだ子供だったから、単純に大きくてきれいな家に住めることを喜んでいたけれど、それも最初のうちだけだったかな」


 含みのある言い方をした沙知佳に光は首を傾げたが、沙知佳はそれ以上なにも言わず、「光くんの部屋は二階よ」と廊下に出、階段を上った。


 沙知佳が使っていた寝室を譲り受ける形で、光は二階の十畳間をあてがわれた。この一週間のうちに陽多が光のための家具を用意しておいてくれたらしく、ベッドフレームは沙知佳が使っていたものだが、マットレスと布団はピカピカの新品だった。木製のデスクはシンプルかつ機能的なデザインが使いやすそうで、どこからか光が本好きとの情報を得た陽多は、壁一面に高くそびえる本棚まで準備していた。至れり尽くせりで、むしろ陽多に合わせる顔がない。財力が違いすぎる。


「すごいな」


 吐息まじりに思わずそう漏らしたら、沙知佳はやっぱり苦笑して「そういう子なのよ、陽多は」と言った。


「世話焼き、というほどではないけれど、誰かのために尽くすのが好きな子なの。求められたら断れなくて、休みがなくても気にしない。むしろ嬉しそうにしているくらいよ。まぁ、休みがあっても一日じゅう家に引きこもってるだけだから、仕事に出かけていたほうが健全なのかもしれないなって今では思っちゃうけれどね」

「誰かと遊びに行ったりしないんですか」


 沙知佳はその目にかすかな悲しみの色を映した。


「こっちには、そういうお友達がいないんじゃないかしら。そういう意味では、町田でつましく暮らしていた頃のほうが、あの子は幸せだったのかもしれない。あの頃は毎日のように、お友達と泥だらけになって遊んでいたから」


 陽多の今をうれう沙知佳の声は、光の脳裏に陽多の放ったなにげない一言を蘇えらせた。


 ――友達と遊びに行ったりしないの?

 ――僕と一緒だ。


 あの時の陽多には、光が陽多自身を映す鏡のように思えたのかもしれない。色や形は違っても、二人の中にある孤独感は、あるいは分け合うことができるものなのかもしれないと。

 陽多が光に同居しようとせがんだのには、光が想像していたよりもずっと深い理由があったのだ。彼は生来の寂しがり屋なのではなく、彼の生きる環境が、彼をそうした男に育てた。


「だから余計に嬉しいのよ、光くんがここで暮らしてくれることになって」


 南側の窓を開け放ちながら沙知佳は言った。


「兄弟といっても、血のつながりがなければ友達みたいなものでしょう。歳も近いし、そういう存在が身近にあるっていうのは、陽多にとって間違いなくプラスだから」

「そう、ですかね」

「そうよ。親と友達とでは全然違うもの、やっぱり」

「よかったじゃないか、光」


 本のぎっしり詰まった段ボールを寝室に運び入れながら、父が額の汗を首からかけたタオルで拭い、二人の会話に混ざってきた。


「おまえでも少しは陽太くんの役に立てそうで」

「どういう意味だよ」

「心配はいらないってことさ」


 父は光の肩を、大丈夫だと伝えるようにそっとたたいた。


「おまえたちなら、きっとうまくやっていける。困ったことがあれば、いつでもおれたちに相談してくれよ。おれに、というより、さっちゃんに、かな」


 沙知佳も笑顔でうなずいて、「嫌になったら、立川に逃げ帰ってきてもいいのよ」と言った。二人の態度はまるで、結婚が決まり、新居での新しい生活を始める息子を励ます親のようだった。光にとっても陽多にとっても二人が親であることは間違いないのだけれど、方向性がややおかしく、どうにも気恥ずかしくて居心地が悪い。


 昼過ぎから始めた引っ越しの作業は、光の荷物が少なかったこともあり、日が傾く頃にはひと段落がついた。この日、陽多の帰りは午後六時頃になると聞いていて、三人は軽く休憩を挟むと夕食の準備に取りかかった。三人とも料理の心得があるので、分担すればあっという間に四人分の食事ができ上がった。メインディッシュは沙知佳お手製のミートローフだ。


 陽多は予定より三十分ほど遅れて帰ってきた。「ただいま」と言ってリビングに入るなり、食卓に並んだ色とりどりの家庭料理と、帰りを待っていてくれた三人の家族それぞれから「おかえり」と言われたことにいたく感動したらしく、いつも輝いている瞳をさらにキラキラさせながら「最高」とつぶやいた。


「ほら陽多、早く手を洗ってらっしゃい」


 席を立ってキッチンに向かった沙知佳に促されるが、陽多は「ちょっと待って」と言ってまっすぐ光に歩み寄った。


「光くんの部屋、見てから」

「はぁ?」


 言うが早いか、陽多は光の腕をとってなかば無理やり立ち上がらせた。


「行こう、光くん」

「ちょ、待てって。なんで今!」


 強引に連れ出され、二人で階段を駆け上がる。陽多の部屋の真向かい、もともとは沙知佳の寝室だったその場所に足を踏み入れると、陽多はぐるりと室内を見まわし、光を部屋の中心に立たせた。


「うん、よく似合う」

「そう?」

「ねぇ、このベッド、どう? 寝てみた?」

「いや、まだ」

「セミダブルだから、大きさ的には問題ないと思うんだけど。布団のカバー、僕が勝手にデザイン決めちゃってごめんね」

「いいよ。寝られれば十分だし、俺、青は好きだから」


 掛け布団と枕カバー、カーテンからラグマットまで、陽多は室内をブルーで統一していた。ウッド調の家具と相まって、インテリアショップでディスプレイされているモデルルームのようだったが、実家では子供部屋をそのまま使い続けていた光は、これで少しは大人になれたかもと内心満足していた。


「ありがとう、陽多。こんなにいろいろ準備してもらって」


 本棚に目を向けながら光は改めて礼を述べた。持ってきた本は、棚の半分も埋まっていない。

 陽多が背後に歩み寄ってくる気配を感じて振り返ると、思いのほか近いところに陽多はいた。


「気に入ってくれた?」


 あまりに嬉しそうな顔をするので、少しいじめてやりたくなった。


「もし、気に入らないって言ったら?」

「作り直すよ。光くんに気に入ってもらえるまで」

「俺が無茶な要求をしても?」

「こたえる。それで光くんに喜んでもらえるなら」


 とんだマゾヒストだ。光は笑った。


「ごめん、冗談。すごく気に入ったよ。ありがとう」

「本当?」

「うん、本当。代わりに俺は、家事、がんばるな」

「僕も手伝う」


 陽多の目は真剣だったが、光は首を横に振った。


「お母さんに聞いたよ。おまえが動くと、家が余計にぐちゃぐちゃになるって」

「うそ! 母さん、そんなこと言ったの?」


 光は声を立てて笑って、「行こう」と陽多の肩に手を載せた。


「せっかくの夕飯が冷めちまう」

「光くん」


 まだなにか言いたげな陽多を、光は部屋の外から振り返った。


「俺たち三人で作ったんだ。心して食えよ」

「えっ、光くんの手作り?」

「メインは沙知佳さんが作った。俺は付け合わせのサラダとスープを」

「それを早く言ってよ!」


 陽多は途端に勢いづいて、光の腕を引いて階段を駆け下りた。


「おい、陽多!」

「光くんの手料理!」


 興奮した牛のように鼻息荒くドタバタと廊下を行く陽多の背に、光はあきれたように笑みをこぼした。なるほど、理由はそれか。


 かわいいヤツ。

 どこまでも素直な義弟おとうとのことが、この時にはもう、光はいとおしくてたまらなくなっていた。

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