1.兄、弟に押し負ける
『お願い、光くん』
右耳に押し当てたスマートフォンの向こうから、陽多の鬼気迫るような声が聞こえる。
『うちに来て。光くんが損をすることなんてなにもないでしょ』
「いや、そりゃあ損にはならないけどさ」
『じゃあいいじゃん。来てよ。必要なものは全部こっちで用意するから。財布とスマホだけ持って、あとはからだ一つで来て』
押しに押され、光は答えに窮した。うなり声すら発することなく、口をつぐむ。
父の不在を見計らったかのように陽多から電話がかかってきたのは、はじめて顔を合わせた翌日の昼すぎ、光が複雑な気持ちをかかえて自室のベッドに転がっていた時だった。
――光、さっちゃんがこっちに越してくるけど、いいか?
昨日の晩、沙知佳とのディナーを終えて帰宅した父から、再婚したら、光と父の住むこの家に沙知佳が住むことになると告げられた。
頭からすっぽり抜け落ちていたのか、あるいは無意識的に考えないようにしていたのか、父と沙知佳が結婚する、すなわち、二人が同居することになるという事実は光に大きな衝撃を与えた。父と同居している以上、光の今後の生活にもかかわってくる問題だった。
父によれば、沙知佳は現在、中目黒で陽多と二人暮らしをしているらしい。
もともとは町田にある都営住宅に住んでいたが、陽多の芸能活動が軌道に乗った頃、利便性とセキュリティ面を考慮し、陽多の所属する芸能事務所が主導して家を買った。建売の3LDKでそれほど大きくはないそうだが、母子二人で暮らすには少し広すぎるのだと沙知佳は話しているという。
一方、光たちの住む一軒家は二十三区外、立川市にあった。二人とも勤め先は二十三区内にあり、電車で一時間弱をかけて通勤している。
双方の事情を考慮すべく、昨夜、父と沙知佳はディナーの席であれこれ議論を重ねたらしい。中目黒の家に四人で住もうとか、純玲とともに暮らした家を離れていいのかとか、結論が出るまでに相当の時間を要したと聞いた。
最終的にまとまった意見はこうだ。
まず、陽多は中目黒の家に残る。そもそも陽多の買った家だし、朝がやたら早かったり、明け方になってから帰宅したりということが日常である陽多にとって、立川に住んでいては都合の悪いことが多い。
次に、光の父、敏光が立川の自宅に残ることが決まった。立川は純玲の出身地でもあり、自宅に仏壇もある。住み慣れた土地で落ちついていたいだろうという純玲の気持ちは、敏光が守る他にない。
すると必然的に、沙知佳が立川へ越してくることになる。敏光がかつて別のパートナーと暮らした家で生活することに抵抗がないはずもないのだが、「純玲さんの分まで、この家のために尽くすわ」と立派に覚悟を決めたそうだ。
ここまでは順調に話が進んだ。最大の問題は、光の進退だった。
立川の家に残り、父と沙知佳とともに三人で暮らしていくのか。それとも、この機に独立して生家を離れるか。沙知佳は「光くんの気持ちを尊重する」と言い、父も「一人暮らしをするなら、一緒に家を探そう。初期費用もおれが出すから」と言ってくれている。
すぐに答えの出せることではなかった。どうせ家を出るなら職場の近くへ移るのが筋だが、光の勤め先である英成大学は三軒茶屋にある。1Kの部屋、あるいはワンルームを借りるにしても、家賃はいい値段がするはずだ。
社会人二年目、給料は決して高くない。困窮の心配はないにせよ、あまりメリットは感じられなかった。
かといって、まもなく沙知佳の越してくるこの立川の家に住み続けるというのもなんだか気まずい。沙知佳が悪い人でないことは十分わかっているのだが、だからこそ沙知佳にも自分と同じような思いをさせたくなかった。邪魔者はさっさと消えるに限る。
どうしたもんかなぁと、光は自室のベッドに寝転がってぼんやりと考えを巡らせた。小一時間ほど前に昼食を摂ったあと、父は「荷造りの手伝いに行く」と中目黒の志波家へと向かった。来週末には婚姻届を提出し、沙知佳との新しい生活を始めるという。
知らず知らずのうちに、ため息をつく。
自分の意思で一人暮らしがしたいと思って動き出すのならともかく、追い出されるように一人暮らしを選択させられるとなると、途端に気が進まなくなる。職場は遠いが、立川での暮らしに不満はない。
なかなか踏ん切りがつかず、しまいには考えることを放棄してウトウトし始めたところへ、陽多から電話がかかってきた。
からだを起こして応答すると、開口一番、陽多は『光くん、うちに住みなよ』と言った。
「はぁ?」
『立川の家を出るんでしょ。だったら、うちに来てよ』
「ちょっと待て。なんでそういう話になるんだよ」
だいたい、まだ立川を離れると決めたわけじゃない。おそらく沙知佳が陽多にそう吹き込んだのだろうが、それにしたって、なぜそこで陽多が同居を提案する流れになるのか理解に苦しむ。
しかし陽多は『だって、ちょうどいいじゃん』と強引に話を前進させにかかった。
『英成大って三茶にあるんでしょ? うちからすぐだよ。車で十分ぐらい』
「そうなんだ。近いな」
『でしょ。せっかく僕の家があるのに、賃貸物件を探すなんてもったいないよ。母さんが出てくから部屋も余るし、車も二台停められるからさ』
「いや、俺車持ってない」
『そうなの? じゃあ買おう。通勤用に』
「落ちつけって。勝手に話進めんな」
性急すぎてついていけない。なにをそんなに焦る必要があるのだ。
一息ついて仕切り直そうとしたのだが、陽多はそんなひまさえ与えてくれず、『お願い、光くん』と詰め寄ってきた。
『うちに来て。光くんが損をすることなんてなにもないでしょ』
「いや、そりゃあ損にはならないけどさ」
『じゃあいいじゃん。来てよ。必要なものは全部こっちで用意するから。財布とスマホだけ持って、あとはからだ一つで来て』
……というやりとりを経て、光は今、腰かけたベッドの上で石像のごとく口を固く閉ざしているのである。
陽多の心づかいは、ありがたいものではあった。要するに、二人でルームシェアしようというわけだ。
中目黒にある志波家は陽多の持ち家だから、家賃の心配がないというのは大きかった。食費や光熱費は折半すればいいし、光には家事の心得がある。光よりもはるかに忙しく、生活リズムの整いにくい陽多にとっては、沙知佳の代わりに光が家事をこなしてくれることはメリットだろう。一人暮らしをして家事をすべて自力でやることになると考えれば、陽多との二人暮らしになったところで光の負担が圧倒的に増えるというわけでもない。具体的にどういう役割分担にするかは、その都度相談しながらうまくやっていけばいいだけだ。目立ったデメリットも思いつかないし、不都合が出た場合はその時に改めて対応を検討すればいい。
耳に押し当てたままのスマートフォンから、ピー、ピーという規則正しい音が聞こえてきた。車をバックさせる時に鳴るそれのようだった。
「おまえ、今運転中?」
思わず尋ねたら、『うん、ちょうど今ついたとこ』という答えが返ってきた。言われてみれば、通話の音質が悪かったような気がする。車にスマートフォンを接続させ、車の通話機能を使って電話をしていたようだ。
『お父さんが停めていいって言ってくれたから、駐車場、借りたよ』
「は?」
陽多の言葉を取りこぼして、光はベッドから立ち上がった。
「え、なに? おまえ、今どこにいんの?」
言い終えるなり、階下からインターホンの音が聞こえた。
まさか。弾かれたように部屋を飛び出した光は、階段を駆け下り、玄関の三和土に置きっぱなしになっているエメラルドグリーンのクロックスをひっかけ、勢いよく玄関扉を押し開けた。
「陽多……!」
軒先で待っていた秀麗な義弟は、「やぁ」とさわやかに微笑んで右手を挙げた。
「『やぁ』じゃねぇだろ! なにやってんだよ、こんなところで!」
「なにって、光くんを迎えに来たに決まってるでしょ」
大まじめな顔をして、陽多は言った。
「一緒に暮らそう、光くん」
吸い込まれそうなほど美しい漆黒の瞳は、ただまっすぐ光だけをとらえている。無数の星を映したような強い輝きにからめとられ、光は身動きが取れなくなった。
陽多は本気だった。本気で光との暮らしを望み、それ以外の未来は少しも想像していないように見える。
不安がないわけではない。ただ、陽多が純粋な気持ちで光の存在を求めてくれることは、素直に嬉しいと感じた。
それに、一つ屋根の下で暮らせば、陽多のことをもっと深く知ることができる。陽多の俳優としての活動を支えることもできるし、兄として、弟を守ることもできるかもしれない。
母を失うことを寂しいと嘆いた弟のために、ここは一つ、覚悟を決める時だと思った。
「わかったよ」
いつの間にか強張らせていた全身から力を抜き、光は陽多の瞳にこたえた。
「おまえと暮らす。中目黒で」
「ほんと? やった!」
「うわっ!」
陽多が勢いよく抱きついてきて、光はおもいきり後方へよろけた。光が手を離したせいで、玄関扉がバタンと閉まる。上背のある陽多がのしかかるように覆いかぶさるのをどうにか受け止め、二人して転ぶことは回避した。
「ありがとう、光くん!」
「わかった、わかったから離れろ!」
「やだ」
「『やだ』じゃねぇ!」
エヘヘ、という嬉しそうな笑い声が、頭の後ろから聞こえてきた。作られていない、自然とあふれ出た感情を乗せたその声に、光も思わず笑みをこぼす。
「おまえって、実はめちゃくちゃ寂しがり屋?」
抱きしめられたまま尋ねると、陽多は静かに光から離れた。
「そう見える?」
「だから俺とのルームシェアを提案してきたんじゃないの?」
陽多はなぜか不意を突かれたような顔をし、少し考えてから言った。
「ルームシェアじゃない」
「え?」
「僕たち、家族でしょ」
陽多は『家族』という言葉を強調した。
「家族だから、一緒にいるのが当たり前。光くんとは、そういう関係になりたいんだ」
「陽多」
「光くん」
腰のあたりで、陽多に左手をすくい上げられた。
「僕と、ずっと一緒にいて」
熱を帯びた陽多の手のひらの温度を感じ、心臓が大きく一つ跳ねた。
光は陽多を見つめ返す。かすかに揺れる漆黒の瞳が執拗なまでに光の存在を求めてくるのは、耐えがたい喪失感を埋めようと必死になっているからだと気づく。
想像することしかできないけれど、陽多にとって、沙知佳の待つ中目黒の家が唯一の居場所だったのだ。
どれだけつらくても、家に帰れば、たった一人の大切な家族が待っている。それが陽多にとっての救いであり、芸能界という過酷な世界で生きていくための原動力にもなっていた。
そんな心の支えを失うことを、陽多は人一倍恐れた。壊れゆく自分の未来さえ想像したかもしれない。
だから陽多は、光にすがった。沙知佳が中目黒を離れ、光の父と一緒になると決めたのなら、頼れるのはもう光しかいない。陽多にとって、光はすでに大切な家族の一員なのだ。
わずかに見下ろされる形で降り注ぐ陽多の眼差しが、飼い主の許しを得ようと必死にしっぽを振る子犬のようで、ぎゅっと抱きしめたい衝動に駆られた。
理性を働かせることはできなくて、光は陽多に一歩近づき、高い位置にある腰に腕を回して抱き寄せた。
「光くん……?」
「大丈夫」
左腕を腰に、右手は陽多の頭に添えた。
「おまえのことは、俺が守る」
そっと腕の力を緩め、光は驚いても美しい陽多の顔を見上げた。
「俺は、おまえの兄ちゃんだから」
兄ちゃん、なんて、顔から火が出そうだけれど、恥ずかしがってなどいられない。弟が頼ってくるのだから、それにこたえるのが兄の務めだ。
「ありがとう、光くん」
狭い佐竹家の玄関口で、陽多はとびきりの笑顔の花を咲かせた。
「大好き」
「バカ。そういう言葉は安易に口にしていいもんじゃねぇよ」
「どうして?」
「どうしてって……」
ピュアな瞳に射抜かれる。光は視線を泳がせ、頬を掻いた。
「そういうのは、おまえに心から大切にしたい人ができた時に伝えてやるもんだろ、普通」
陽多はわからないといった風に首を傾げ、言った。
「でも僕、今一番大切にしたいと思っているのは、光くんのことだから」
どこまでも真剣な陽多の立ち姿に、光はいよいよ息をのんだ。
大切にしたい。
そんなことを言われたのは、以前はいつだっただろう。
陽多はもう一度笑みを咲かせ、光にまっすぐ傾けた。
「大好きだよ、光くん」
「……うっせぇよ、バカ」
顔が赤らむのが自分でもわかって、光は陽多に背を向けた。