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蜜月ラプソディ  作者: 貴堂水樹
第一章 失い、そして得る
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2-2.同じ形の心の穴

 ジュエリーの並ぶフロアを離れてもなお、店内のきらびやかな雰囲気は続いていた。展示された食器やカトラリーは圧倒的なハイセンスで、まるで舞台女優のように照明を浴び、自分が主役だ、自分を手に取れとこれ見よがしに主張してくる。

 すっかり縮こまり、もはや挙動不審と言わざるを得ないほどそわそわしている光とは対照的に、陽多はここでも堂々と店内をり歩いた。女優気取りの食器たちと、その輝きを競っているようにも見える。


「やっぱり、シンプルにお皿かなぁ」


 陽多が平皿の前で立ち止まった。三分の二を白、残り三分の一をティファニーブルーでカラーブロックされた陶器と、葉っぱのような柄で縁取られたクリスタルガラス製のものを見比べている。


「母さん、あれで結構面倒くさがりでさ。どんな料理でも皿一枚で済ませたがるんだよね」

「気持ちはわかる。俺もよくやるよ、洗って干しといた皿を棚に戻さないまま使うこと」

「でも、さすがにカレーを平皿に盛ることはしないでしょ?」


 光が驚く顔をすることを予期していたようで、陽多は満足そうに笑った。


「やっちゃうんだよ、母さんは。深皿を棚から出すのが億劫で」

「食べづら」

「ね。慣れって怖いよ。今じゃ全然平気なんだから」


 慣れたのか。光も笑った。沙知佳はまじめな父とは真逆の性格をしているらしいが、だからこそ惹かれ合うものがあったのかもしれないと思う。互いに持っていないものを、互いに欲したのなら納得だ。


「でもさ、仕方なかったんだ」


 皿の向こう側を見つめるように、陽多はすぅっと目を細くした。


「母さんに僕を身ごもらせた男は、母さんの妊娠中に浮気をして、その相手を選んで結婚したらしい。僕が生まれた時から、母さんは一人だった。毎日遅くまで仕事をして、くたくたになって帰ってくる。僕は一歳にもならないうちから保育園に入れられて、お迎えはいつも僕が最後だった。そんな風だったから、少し家庭の事情が理解できるようになった頃には、カレーを盛る皿に気を配る余裕が母さんにないのは仕方がないことだって思えてた。家事のすべてを一人でやって、僕に無理やり手伝わせることもない。僕には他の子たちと同じような生活をさせたかったみたいでね。見栄を張りたかっただけかもしれないけど、それでも僕は、母さんの見栄のおかげで普通の子どもでいられた。父親がいなくても、日々の生活には満足だった」


 陽多の口調からは、深いいつくしみの情が感じられた。女手一つで自分を育ててくれたことへの感謝と、一人の人間として沙知佳を尊敬する気持ちが痛いほど伝わってくる。

 光と同じだ。陽多もまた、たった一人の愛する家族を誰よりも大切に思っている。彼女の幸せを心から願っている。


 だが、ここから先の陽多の言葉は、光のかかえている父への感情とは少し違った。


「僕が芸能の仕事を始めて、母さんより稼ぐようになってからも、母さんは仕事をやめなかったし、僕のお金に手をつけることもしなかった。僕は少しでも母さんに楽をさせてあげたかったのに、母さんはそれを許さなかった。僕に守られることを、母さんは今でも拒否し続けてる。僕、もう二十歳はたちなのに」


 陽多はひどく悲しそうな顔をするけれど、光には沙知佳の気持ちが理解できた。

 沙知佳は、光の父と同じだった。彼女は陽多の母親であり続けることを、自分自身に課していたのだ。

 息子を金稼ぎの道具にしたくない。そう思っていた部分も少なからずあるだろう。彼女自身で稼いだ金だけで二人の暮らしを支えることで、彼女は母親としての矜持きょうじを保とうとした。光の願いをできるだけ叶えようと奔走していた、光の父のように。


「そして母さんは、敏光さんを選んだ」


 どこでもない遠くを見つめたまま、陽多はそっと視線を上げた。


「僕のことは認めてくれなかったけど、敏光さんに守られる未来は受け入れた。光くんの言葉を借りれば、母さんがそうしたいって思った気持ちを僕は応援しようと思ったんだ。ずっと一人だった母さんに、寄り添ってくれる人が現れた。喜ばしいことだよね、これってさ」


 喜ばなくちゃ、と陽多は小さくくり返した。一見笑っている陽多の横顔に浮かぶ複雑な色は、光にも覚えのあるものだった。


 同じだ。

 俺と陽多は、同じ――。


 父を取られてしまうと感じた光が陽多に嫉妬したように、陽多もまた、母を敏光にくれてやることに対して悔しい気持ちをいだいていた。

 敏光と沙知佳が互いを求め合い、光と陽多は二人の選んだ未来を受け入れ、祝福した。

 けれどその未来は同時に、光と陽多から、それぞれのたった一人の大切な家族を奪った。光と陽多の心には、同じ場所に、同じ形の穴が開いた。


 なんだよ、と光は思わず笑ってしまった。

 俺には父さんと沙知佳さんの選択を喜べって怒ったくせに。おまえだって、本当は寂しいんじゃねぇか――。


「俺は、こっちがいいと思う」


 陽多の見比べていた二枚の皿のどちらでもない、白とライトグレーでカラーブロックされたデザインのものを指さして、光は言った。


「そっちの二つは、父さんには似合わない」


 陽多は大きくした目で光を見た。


「……そう、かな」

「うん。沙知佳さん一人に贈るならそれでもいいのかもしれないけど、父さんと沙知佳さんが二人でその皿を使うところを想像してみろ。笑えるぞ、父さんには不釣り合いすぎて」

「そう? 僕はいいと思うけどな、こっちの青いほうなんか特に」

「バカ、空気読めよ。こっちのグレーのほうが安いからこっちにしようっつってんだ」

「え、そこ?」

「最初に言っただろ、庶民の俺には高い買い物はできねぇんだって」


 庶民って、と陽多は苦笑する。


「僕だって庶民だよ」

「てめぇぶっ飛ばすぞ億万長者」

「暴力反対」

「うっせぇ」


 軽く肩を殴ってやったら、「痛い」と陽多はわざとらしくよろけて、ハハハと今度は楽しそうに笑った。

 その姿を見て、光は安堵あんどの笑みをこぼした。


「笑っててくれよ、そうやって」

「え?」


 黒いキャップの下から現れた瞳がかすかに揺れる。コロコロとよく変わる陽多の表情を楽しみながら、光は言った。


「俺の父さんが、おまえから大事なお母さんを奪っちまった。だから、その補填ほてんは俺がする。お母さんの代わりなんてとうてい務まらないと思うけど、寂しくなったら俺に言え。話し相手くらいにはなる」

「光くん」

「恨むなら俺を恨め。父さんと沙知佳さんの結婚を認めたのは俺だ。父さんの意思だけを尊重して、おまえの気持ちをないがしろにした。寂しい思いをさせちまった」

「違う。光くんは悪くない」

「でもな」


 陽多が口を挟むのを無視し、光は陽多の目を見て続ける。


「あの二人が結婚しても、おまえは一人ぼっちになるわけじゃない。さっぱり頼りにならないかもしれないけど、おまえには、俺がいる」


 血のつながらない兄。戸籍の上でだけの、義兄。

 それでも、いないよりマシだと思う。どうせ沖に流されるなら、一人より、だれかと一緒のほうがいい。


「少なくとも俺は、おまえがいてくれてよかった。父さんが沙知佳さんに取られるだけの再婚だったら、この寂しさを一人でかかえていなくちゃならなかったんだからな。マイナス方向の気持ちは、誰かと分かち合えたほうが絶対に楽だろ。だから」


 言い終えないうちに、陽多が距離を縮めてきた。

 正面から抱き寄せられる。背に回され、肩甲骨のあたりに触れた陽多の手のひらから、熱いくらいの体温が伝わる。


「おい、陽多……?」


 陽多はなにも言わなかった。聞こえてくる呼吸の音が震えているわけでもなく、ただじっと、少しきつく、光を抱きしめたままでいる。

 どのくらいそうしていただろう。あるいは陽多の腕の中にいた間だけ、時が止まっていたかもしれない。

 やがて陽多は、ゆっくりと光から離れた。キャップのつばに隠れて、その表情は見えない。


「優しいね、光くんは」

「え?」


 光が眉をひそめると、顔を上げた陽多が優美に微笑んだ。


「好きになっちゃいそう」


 嘘いつわりのない陽多の気持ちが、まっすぐ胸に飛び込んできた。


 好き。


 多くの意味を含み、どうとでも解釈のできる言葉だ。兄になる男として信頼できそう、という意味ならば素直に喜べばいいのだろうが、果たして。

 照れてしまう自分に腹が立ち、光は思わず舌打ちをした。


「やめろ、恥ずかしい」

「エヘヘ」

「『エヘヘ』じゃねえよ。ヘラヘラすんな」


 光ににらまれ、陽多は「ごめん」と言ったものの、まだにへらにへらと締まりのない笑みを浮かべている。

 なんだよ、みっともない。心の片隅ではそう思いながら、別の場所では、違う感情もかすかに首をもたげていた。

 陽多の笑った顔を見ていると、光も自然と笑顔になれた。うまく言えないけれど、きっとこの顔が好きなのだ。恋愛感情の『好き』ではなく、見ていてなんとなくホッとする。

 陽多にはいつでも笑っていてほしいと思った。俺といる時くらいは寂しさを忘れ、笑っていてほしい。それが光の、ささやかな願いだった。


「ねぇ、やっぱりこっちのお皿にしようよ」


 結婚祝いの話題に戻した陽多が、ティファニーブルーに彩られた皿を指さす。


「グレーもシックでかっこいいけど、こっちの青のほうがきれいだよ。食卓が華やかになりそうだし」

「いや、まぁ……それはそうかもしれないけど」


 陽多の言いたいことはわかる。しかし、金額だ。皿一枚に五桁。百円ショップの食器を喜んで買うような父にこれを贈って、果たしてどんな顔をされるだろう。

 あれこれ考え始めたら、永遠に答えが出ないような気がしてきた。ここは一つ腹をくくって、陽多のセンスにまかせてみるのもありかもしれない。言うまでもなく、陽多のほうが目の肥えた男なのだ。陽多が「いい」と言ったものは、いいに決まっている。


「わかった。じゃあ、こっちで」

「いいの?」

「うん。陽多がこっちって言うなら、そうしたほうがいいと思うから」


 すいません、と光は少し離れたショーケースの脇にひっそりと控えていた店員を呼んだ。大きな買い物はできないと陽多には言ったけれど、目的もなく貯め込んでいた貯金が実はある。父と沙知佳の幸せな門出を祝うためだ。使い道としては悪くない。

 プレゼントですか、と妙齢の女性店員から尋ねられた。「両親の結婚祝いに」と光が答えると、店員は「さようでございますか。おめでとうございます」と微笑みかけてくれた。父と沙知佳のことを「両親」とはじめて口にすると、心にこそばゆさを感じた。まだ慣れなくて、恥ずかしい。


「なんか、いいね」


 丁寧に包装してくれている店員の慣れた手つきを見つめながら、隣で陽多がささやいた。


「僕の中に複雑な気持ちがあることは変わらないけど、やっぱり、愛し合った人同士が結ばれて、幸せになって、その姿を一番近くで見られるっていうのは、いいよ。すごくいい」


 いい、というシンプルな言葉の中に、陽多の前向きであたたかな想いが十二分に込められていた。あれこれ説明するよりも、飾らない言葉のほうが伝わるものが大きくなることもある。


 改めて、陽多のことを素直な男だと感じる。

 芸能人と聞くと、傲慢で、尊大で、自分が世界の中心みたいに思っている人をつい思い浮かべてしまうけれど、少なくとも陽多はそうした人間ではなかった。俳優としては一流だが、こうして隣に並んでいると、光がいつも目にする大学生たちと全然変わらないことに気づく。

 彼は俳優である前に、今時の若者なのだ。母親の再婚を目前に控えた二十歳はたちの青年。あるいは、まだ少年の心を手放せないでいるような。それも含めて、志波陽多の魅力だった。彼の備える人間力、一人の人間としての魅力が、彼を国民的俳優に育てたのだ。


 無意識のうちに、陽多の横顔を眺めていた。普段、あまり他人には興味のない光だけれど、陽多には言葉ではうまく言い得ない、人を惹きつける力がある。


 おもしろい男だ。こいつのことを、もっと知りたい。


 気づけば陽多と同じことを考えていて、光はハッとして陽多から目を逸らした。それと同時に陽多のスマートフォンに着信が入る。画面を確認した陽多の表情が曇った。


「もしもし」


 光から離れ、陽多は着信に応答した。「え、マジで?」「いえ、大丈夫です。行きます」「銀座。ティファニーのビルの前で拾ってもらえますか」。漏れ聞こえてくる陽多の言葉から、仕事の話をしていることがわかる。

 通話を終えて戻ってきた陽多の浮かない顔を見て、光は迷ったが、なんでもない風に尋ねた。


「急用?」

「うん。今日は一日オフにしてってお願いしておいたのに」


 声まで沈んでいた陽多だったが、すぐに笑顔を作ってみせる。


「ごめん、光くん。本当はもう少し、いろいろ話したかったんだけど」

「仕事なのか、これから」

「うん。行かなきゃ」


 たくさんの人の心を癒やす陽多の笑顔の中に、光は一抹の寂しさを見た。この場を離れるのが寂しい。食事の時には神秘的な輝きを映していた漆黒の瞳も、今はその黒がかげりの色に見えてならない。


「がんばれよ」


 寄り添うように、光は陽多の背をポンとたたいた。


「応援してる」

「ありがとう。がんばるね」

「また今度、ゆっくり話そう。おまえの都合のいい時に声かけて。俺は基本、暇だから」

「休みの日も?」

「うん」

「友達と遊びに行ったりしないの?」


 陽多にとっては純粋な疑問だったのだろうけれど、光の心にはグサリときた。

 わざとらしく笑顔を作って、光は答えた。


「俺、友達いないから」


 少し大げさだが、あながち間違いでもない回答だった。

 社会人になってから、誰かと出歩く機会はめっきり減った。同じ英成大の図書館で働く人たちとの関係は良好だが、プライベートで会うほど仲のいい人はいない。学生時代にはそれなりの付き合いがあった友人とは、卒業後まもなく集まったきりで今は連絡を取っていない。

 要するに、光には親友と呼べる存在がいないのだ。なにを差し置いてでも会いたいと思える人が。

 陽多は一瞬両眉を上げて、やがて光の笑みを映したように表情を崩した。


「僕と一緒だ」


 そう言った陽多の笑顔は、やはりどこか寂しげだった。

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