2-1.僕らは互いをまだ知らない
父と沙知佳がデートに行くというので、陽多とともに、料亭の前で幸せいっぱいな二人の後ろ姿を見送った。
午後一時三十分。相変わらず、休日の銀座は人でごった返している。話し声と、車のタイヤがアスファルトをこする音で騒々しい。真夏ほどではないが、陽射しも強い。
目の前を通り過ぎていった若い男三人組の香水のにおいがどぎつくて、光は思わず右手の甲で鼻から下を覆い隠した。
目と耳がいいことは誇れたが、鼻までよく利くのは正直厄介でしかなかった。父にはなんでもないにおいでも、光には耐えがたい悪臭に感じられた経験は何度もある。今のような不意打ちを食らうことも少なくないから、余計に光は外を出歩くことを嫌うようになったのだった。
「大丈夫?」
さっきと立場が逆転し、陽多が気づかうように光のやや丸まった背中を覗き込んだ。店の外へ出た時にかぶった黒いキャップは、白いオーバーサイズのシャツにライトグレーのクロップドパンツという彼の軽やかな出で立ちをたちまちきゅっと引き締めた。
「平気」と短く答えると、光はなんでもない顔をして陽多に言った。
「じゃあまたな。気をつけて帰れよ」
「待って、光くん」
「ん?」
「このあと、時間ある?」
意外な問いかけだった。光は小首を傾げ、「あるけど」と答える。
「よかったら、母さんたちの結婚祝い、買いに行かない?」
「結婚祝い」
考えてもみなかった。そういうものか。心で想うだけでなく、形として残るものを贈り、祝福する。それが結婚という、人生でそう何度もあるものではない幸せいっぱいのイベントなのだ。
「買うのは賛成だけど、俺、こういう時になにを贈ればいいのか全然わかんねぇや」
「僕も一緒だよ。だから、調べてきた」
へぇ、と光は陽多の手際の良さに舌を巻いた。食事のあとは二人で買い物、という流れは、陽多の中の今日の予定に最初から組み込まれていたようだ。
「一緒に食卓を囲むのが楽しくなるようにっていう願いを込めて、結婚記念日には食器を贈るのが人気みたい。ちょうどこの先にティファニーの本店があるから、見に行こうよ」
ティファニー。ハイブランドな店であることは知っているが、あまりにも縁がなく、いいとも悪いとも答えられない。それに、ブランドものとなると金額の心配もあった。陽多と違い、光は決して高給取りではない。
「俺、あんまり高い買い物はできないぞ?」
「わかってる。僕が出すから心配しなくていいよ」
「それじゃあ二人で買いに行く意味がないだろ」
「あるよ」
陽多は大まじめに言い切った。しかしすぐに、「ごめん」とキャップのつばをわずかに下げて謝った。
「結婚祝いを買いに行くっていうのは、口実。本当はもう少し、光くんと一緒にいたいだけ」
つばの下から覗かせた漆黒の瞳で、陽多は光をまっすぐに見つめ、笑った。
「光くんのこと、もっと知りたい」
陽多の冴えた黒とは違い、茶色がかった色素の薄い光の瞳がかすかに揺れる。
はじめて対面した二時間前と同じくらい、心臓がバクバクと派手に音を立てて鳴った。すぐ目の前にある陽多の整った顔がうっすらと赤らんでいて、自分だけでなく、陽多も緊張していることがわかる。
たぶんこの顔は、芝居じゃない。目が違う。映画の中で見た陽多と。
初対面で、まだ彼のことは全然知らないけれど、なんとなくそんな気がした。陽多は本心から、光との距離を縮めたいと思っている。これがもしも芝居だったら、もう誰も信じられない。
「……一緒にいるのは、別にいいよ。どうせ暇だし、俺は」
照れ隠しに失敗して、声が若干裏返った。
「けど、おまえのほうは大丈夫なの? 土曜の真っ昼間に出歩いて」
この人混みだ。志波陽多だとバレたら野次馬が群がり、交通に支障が出るかもしれない。熱狂的なファンの多いアイドルなどは、いつまでもあとをつけられて大変だという話も聞く。陽多の場合も、そうしたことがあるかもしれない。
光の心配をよそに、陽多はあっけらかんとした顔で「大丈夫」と答えた。
「みんな案外、自分のことで精いっぱいだから。他人の顔をジロジロ見ながら歩いている人なんて、パパラッチ狙いのカメラマンくらいだよ」
行こう、と光は陽多の背にそっと手を触れ、一瞬にして銀座の街に溶け込んだ。
オシャレな服を着、胸を張って歩く陽多の後ろを、光は懸命に顔を上げてついていこうとした。けれど、歩き始めてすぐ、そんな努力をする必要のないことに気がついた。
街を行く人が皆、陽多のために道を譲ってくれていた。陽多の前には常に歩むべき道があり、それを塞ごうとする人は誰もいない。
実際にはそう見えるだけだ。陽多があまりにも自信たっぷりに背筋を伸ばして歩くものだから、対向してくる人が陽多を避けざるを得ないのだ。
そのからくりに気づいた時、光はちょっとした興奮を覚えた。
自分に自信を持てる人間と、そうでない人間との間に溝があることは以前からわかっていたけれど、それを実際に知覚したのははじめてだった。
自分に自信を持っているから、陽多の前には道ができる。そうでない光の前には、道はできない。
でも今の光には、自身で道を作る必要がなかった。陽多の陰に隠れるようにして歩けば、自然とまっすぐ歩くことができた。
情けない、弟の前で。そう思わなくもなかったけれど、自分が月であると考えれば、それほどしんどく感じずにいられた。
太陽の光を浴び、さも自分自身の力で輝いているように見せる月。太陽とともに昇る恒星ではなく、佐竹光は、自分では決して輝くことのできない惑星。
陽多と光の人間力の差は、そう解釈することで容易に説明することができた。劣等感をいだく余地など、はじめからなかったのだ。
まっすぐ歩けるおかげで、いつものように人波に酔うことはなかった。人を避け、くねくねと隙間を探して歩くから、足がもつれ、酔うのだ。
避けるのではなく、避けられる側に回れば、どれだけ多くの人に囲まれても酔わずに済むのだということを、光は陽多に教えられた。一人でこの街にくり出した時、陽多のように胸を張って歩ける自信は無論、まだない。
そして不思議なことに、これだけ堂々と人混みの中を行く志波陽多の姿を気に留める人は、陽多の言うとおり、誰一人としていなかった。
道行く人の目には、陽多の姿が映っていない。陽多を陽多だと認識しているのは自分だけ。
そう思ったら、途端に自分に自信が持てるようになった。志波陽多という俳優をひとり占めしているような気分になって、うまく言葉にできないが、明るい未来しか想像できなかった子どもの頃に味わった万能感みたいなものが、心の奥でむくむくと膨れ上がっていくのを感じた。
「おまえの言ったとおりだな」
陽多の背中に、光はボリュームを絞った声で話しかけた。
「誰もおまえの存在に気づかない」
「でしょ」
陽多はキャップのつばに右手でそっと触れながら、光を顔半分だけ振り返った。
「僕なんて全然、すごい人でも、特別な存在でもないってことだよ。生きていようが、死んでいようが、世間はたいして気にも留めない。所詮その程度の人間だよ、僕は。芝居をしてなきゃ、なんの魅力もない」
なにげなく紡がれた陽多の言葉に、光のからだが強張った。無意識下の反応で、光自身の力ではどうにもならない現象だった。
「僕がこの世界からいなくなっても、世の中は変わらず動き続けるんだ。僕には芝居しかないのに、僕の代わりはいくらでもいる」
「それは違う」
陽多の隣まで進み出て、光はきっぱりと否定した。
「俺が死んでもニュースにはならない。けど、おまえが死んだらマスコミがこぞって騒ぐ。おまえはそういう人間だ。おまえの死は、日本をまるごと悲しみの渦にたたき落とす」
少し速足だった陽多の歩調がふっと緩んだ。光のほうがわずかに前に出て、今度は逆に、光が陽多を顔半分だけ振り返った。
「おまえの代わりなんていねぇよ。日本が世界に誇る俳優、志波陽多は、おまえしかいないんだ」
そんな男が、やがて自分の義弟になる。平凡に平凡を塗り重ねたような、それこそ、死んでも誰一人気づかないような自分の。
自嘲気味な笑みをこぼすと、陽多はついに足を止め、真顔で光を見つめ返してきた。にぎやかで高貴な銀座の街を行く人々の流れが、光と陽多が立ち止まった分だけ停滞する。
人波の中で、二人だけが立ち止まっている。まるで映画のワンシーンみたいに、九月末の太陽が二人の姿を照らし出す。
遠くに若い女の声が聞こえた。「ねぇ、あれ志波陽多じゃない?」。
「歩け、陽多」
光は陽多の腕を引いた。ティファニーの看板が、三十メートルほど先に見えている。
せかせかと足を動かしながら、光は隣を歩く陽多に言った。
「気に障ったことを言ったなら謝る。ごめん」
「いや、違うよ。僕は……」
「俺のことを知りたい、って言ったよな?」
昼日中でもきらびやかなティファニーのビルが近づいてくる。さっき聞いた女の声がまだ後ろから聞こえていた。一緒にいるのは友達なのか、二人か三人で光たちのあとをつけてきている。
足を止めることなく、光はまっすぐ前だけを見据え、陽多に告げた。
「一つ教えてやる。俺は五歳の時、母さんと死に別れた。寂しくて、毎日泣いて、父さんやばあちゃんを困らせた。今でも寂しい。だから、人が死ぬ話は苦手だ。映画でも、小説でもそう。感情移入した、心を寄せた誰かが死ぬのは嫌なんだよ。死ぬかもしれないって考えるだけでも、きつい」
ショップの入り口をくぐる。どう考えても冷やしすぎている店内の空気が肌を刺す。
自動ドアが閉まると、ようやく女の声が途絶えた。さすがに店の中までついてくる気はないようで安心した。
掴んでいた陽多の腕を離し、光は陽多の目をまっすぐに見た。
「俺の前で、死ぬなんて話はするな。いなくなるなんて言うな。大切な家族を失うのは、もう嫌だから」
静かに伏せたまぶたの奥で、母がきれいに微笑んでいた。その笑顔が大好きだったことを、忘れるなんてできない。
時々、父の突然の死を想像してしまうことがある。そのたびに怖くなって、夜な夜な一人で泣いたこともあった。
強くならなくちゃいけない。人はいつか必ず死ぬのだ。
けれど、なかなかうまくいかなかった。大切なものが突然目の前から消えてしまうことの恐怖を、どうやっても払拭することができないでいた。母を失ってからの十八年間、ずっと。
「ごめん」
ささやくように言った陽多の顔は、かぶっているキャップのつばで見えなかった。それ以上なにも言えないのか、うつむいたまま黙っている。
「謝るなよ。おまえは悪くない。俺たちは今日が初対面だ。これから少しずつ、お互いのことを知っていけばいい」
「ごめん。本当に」
「だから謝んなっつってんだろ」
光は笑って陽多の肩をたたいた。ここでようやく店内に目を向けると、端から端まで無数の宝石で埋め尽くされた空間に、一瞬にして目が眩んだ。
「やべぇ……俺の来ていい場所じゃないわ、ここ」
さっきの女たちの気持ちが少しだけ理解できた。気分でふらっと立ち寄っていい店と、そうでない店がある。ここは後者だ。店の側が客を選ぶ。あの女たちと光は、この店の客としてふさわしくない。
まぶしさに右手で目もとを覆い隠す光のもとへ、フロア係の女性店員が「いらっしゃいませ」と声をかけてきた。逃げるように、光は陽多の背後に隠れた。
「陽多、あと頼む」
「えぇ、そんな」
まだ気持ちの切り替えがうまくできていない様子の陽多だったけれど、両親の結婚祝いを探しに来たと店員に伝え、ホームインテリアのフロアへと案内してもらった。店員は一瞬陽多のことに気づいた顔をしたが、すぐになんでもない風で職務に戻った。こういう店には著名人が数多く来店するに違いない。