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蜜月ラプソディ  作者: 貴堂水樹
第一章 失い、そして得る
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1-2.よくできた義弟

 出された皿をすべてきれいにすると、光は静かに席を立った。トイレの前を素通りし、通路を行く仲居を捕まえ、「喫煙所はありますか」といた。

 灰皿が置かれていたので、あの座敷でも吸えることはわかっていた。しかし、父は非喫煙者だ。沙知佳もきっと吸わないだろう。それくらいの気づかいは光にもできる。なにより、あの場に長くいたくなかった。


 二人の相手は陽多にまかせ、仲居に案内された店の裏手へと出た。全面ガラス張りの手狭な喫煙スペースからは、柱で見切れているものの、丁寧に整えられた枯山水の庭がわずかにおがめる。

 黒いチノパンのポケットから電子タバコを取り出し、電源を入れる。しばらく待ってからすぅっと大きく吸い込み、濁った紫煙を吐き出すと、ようやく心拍が落ち着いてきた。


 ガラスに背を預け、光は低い天井を仰いだ。

 あんなにも屈託なく、よく笑う父の姿を見たのは、たぶん、はじめてだった。

 母と死に別れたせいか、父親としての威厳を保ちたかったからなのか、父は光に対してどこまでも誠実に生きていた。仕事に精を出し、父親としての役目もきっちりと果たす。よくほめてもらい、たくさん叱ってもくれた。百点満点の親なんていないのだろうけれど、父は限りなくそれに近いと光はひそかに思っていた。自慢の父だ。


 だから、父の幸せを願ってやるのは息子として当然のことだと、わかっているつもりだった。

 今回の再婚の話も、父は相当の勇気を出して決めたのだろう。離婚ならともかく、光の母とは死別したのだ。父が母を想う気持ちが今でもちゃんとあることを光は知っているし、その上で沙知佳を愛していることを光がどう思うかと、まじめ一辺倒なあの父が考えないはずがない。


 そんな父だからこそ、沙知佳とは幸せになってほしい。母と満足に過ごせなかった分の時間を、沙知佳と存分に楽しんでほしい。父親としてではなく、佐竹敏光(としみつ)という一人の男として。

 心から光は、そう願っているはずだった。

 なのに、どうしてだろう。胸の奥がモヤモヤしてたまらない。


 沙知佳や陽多と無邪気に笑い合う父の目に、自分の姿が映っていないような気がした。このまま二度と映らなくなるのではないか。陽多だけが、彼の息子として認識されるようになるのではないか。食事中、ずっとそんなことばかりを考えていた。

 漠然とした、けれど確かに存在する不安感が、高波になって襲いかかってくるようだった。

 陽多がいれば、俺はいらない。そんな風に思ってしまうことを止められない。


 兄弟姉妹のいる友人から聞かされたことがある。出来のいい兄と比べられて大変だとか、両親とも妹ばかりかわいがるとか。

 きっと光も、近いうちにそうなるのだろう。父の目には陽多の活躍ばかりが映り、地味な図書館員である実の息子のことなんてさっぱり気に留めなくなる。太陽と同じ時間に昇る星は、どれだけ懸命に輝いても、太陽の光には勝てないのだ。


 それが父の、陽多の家族になることが父の幸せなら、受け入れるしかない。

 そうしてやることが、息子としての自分の役割ならば。

 でも――。


「あ、いた」


 喫煙所の扉が不意に開いた。陽多が「みっけ」と嬉しそうに言いながら入ってきて、光は無意識のうちにその姿をにらんだ。

 陽多が現れた途端、白濁していた狭い空間が一気に明るさを取り戻した。彼を中心にキラキラとひかりの粒が舞い、雲が切れ、空が晴れていくように、光の吐き出した紫煙を陽多は一瞬にして蹴散らしていく。


「探しちゃった。トイレかと思ったけど、いないんだもん」


 嫌味なほどまぶしい笑顔を浮かべ、陽多は言った。カノジョか、と思わずツッコみそうになった。


「もうお開きですか」


 電子タバコの電源を切り、握ったタバコに目を落としたまま光は訊いた。「うん、もうそろそろ」と陽多は答えた。


「じゃあ、戻ります」

「待って」


 ガラスから背を離した光の前に、陽多は出入り口を塞ぐように立った。こうして並ぶと、陽多のほうが五センチほど背が高いことに気づく。


「ありがとう。母さんたちの結婚、認めてくれて」


 陽多はまじめな顔をして言った。

 なぜ、礼を? 真意をとらえ損ねた光が眉間にしわを寄せると、陽多はふっと表情を柔らかくした。


「光くんに認めてもらえなかったら、母さん、敏光さんとの結婚はあきらめるつもりだったんだよ」


 なるほど、そういうことか。「そりゃあ認めますよ」と光は電子タバコを右手の中でもてあそびながらこたえた。


「沙知佳さんの気持ちはともかく、父がそうしたいって言うなら、俺は応援するだけです」

「本心では納得していなくても?」


 光の表情が険しくなる。勝手に人の心を見透かして、いかにもその気になっている陽多のことをにらまずにはいられない。


「納得してますよ」

「してないでしょ」

「してる」

「じゃあなんでそんな不機嫌なの」


 陽多が一歩、光に近づく。悲しげな視線が、上からそっと降り注いだ。

 まっすぐに目が合う。精巧に作られた人形みたいな美しい顔で、陽多は光だけを見ている。

 生唾なまつばをのみ込んだ。さすが、国民的俳優。そんなことを思って、光は静かに視線を下げた。


 陽多は目だけで訴えてくる。責め立ててくる。どうしてきみは、二人の幸せな門出を素直に祝ってあげられないのかと。


 自分がどこまでも子どもだったことを悟り、後悔の念が猛然と押し寄せてきた。

 陽多は光にも喜んでほしかったのだ。敏光と沙知佳の結婚を。自らの母が光の父と一緒になって、幸せな日々をここから歩み始めることを。

 けれど光が下ばかり向いているから、光は二人の結婚についてよく思っていないのだと陽多は感じた。光が感じさせてしまった。本当は光だって、二人の再婚を心から認め、幸せになってほしいと願っているのに。


「ごめん」


 顔を上げられないまま、光はそっと口を開いた。


「俺は別に、あの二人の結婚に反対してるわけじゃない。勘違いさせたなら謝る。ごめん」


 そう、と陽多はつぶやいて、すぐに別の言葉を紡いだ。


「じゃあ、光くんが気に入らないのは僕ってことだ」


 光がちらりと視線を上げる。ぶつかった陽多の眼差しは鋭い。


「僕と兄弟になることが納得できない。そういうこと?」


 そこにはもう、俳優としての志波陽多はいなかった。この場にいるのは、親の再婚によって、戸籍上、光の弟になる一人の青年。


「納得できないんじゃない」


 わがままでガキっぽい自分と真摯しんしに向き合ってくれる陽多に敬意をと、光は誠意をもって本心を告げた。


「少し、時間がかかるだけだ。俺は一人っ子だから、比べられることに慣れてない。きみみたいなすごい人、強い光を放つ人と一緒にいると、俺の存在は間違いなく父さんの視界から消える。俺はそれが怖いし、そうしたことがいつか日常になるんだとしても、受け入れるまでに時間がかかると思う。それだけ。別に、きみのことが気に入らないわけじゃないから。そこも勘違いしないでほしい」


 ただ、素直になれないだけのことだ。劣等感から派生した醜い嫉妬心が邪魔をして、陽多の存在をうまく受け止められないだけ。

 心にたまったおりを吐き出すように、光は慎重に言葉を選びながらも思ったままを口にした。あれほどまぶしくて見られないと思っていた陽多のことを、できるだけ目に映しながら。


「きみのことは尊敬してる。俺がだらけきった学生生活を送っている時にはもう、きみは立派に働いて、多くの人の心に残る仕事をたくさんしてきた。すごいことだと思う。俺より四つも若いのに」

「そんなことない」

「そんなことあるって。だから怖いんだよ。父さんは沙知佳さんの夫としてふさわしいかもしれないけど、俺はきみの兄としてふさわしくないから」

「そんなことない!」


 陽多がはじめて声を荒げ、はじめて視線を下げた。


「ダメだね、僕」


 左に流していた前髪がふわりとその形を崩し、陽多の端正な目もとを隠す。ガラスの壁に背を預けた陽多は、弱々しい声を絞り出した。


「いつも謙虚でいるようにって、社長からきつく言いつけられてるはずなのに。僕と兄弟になれることを、光くんはきっと喜んでくれるって思ってた。自信があったんだ。僕なら、光くんといい関係を築けるって」


 さっきまでの明るい雰囲気が嘘みたいに、陽多のまとう色がブルーやグレーに変わっていく。陽多の生み出す芝居の世界に迷い込んでしまったかのように、光は居心地の悪さを覚え、どうしていいのかわからなくなる。


「とんでもないおごりだったね。光くんに拒絶される未来は、少しも想像してなかった」

「ちょっと待てよ。俺は別に、拒絶なんか……」


 言いかけて、反省した。

 していたかもしれない。少なくとも、素直に受け入れてやることはできていなかった。最終的には落ちつくところに落ちついただろうけれど、入り口を無意味に狭くしていたのは光だ。嫉妬や羨望といった、光のかかえた負の感情がそうさせた。

 陽多は大人だ。明らかに光に非があるのに、そう思わせないように、光を悪者にしないように立ち回っている。それで光の気が治まるのなら、自分は悪者になっていい。偽善的ではなく、本気でそう思っているところがまた光の嫉妬心に火をつけるのだけれど、今はもう、無闇にいたりしない。


 これが彼の打った芝居であったなら腹が立つが、そうでないことはわかっていた。

 志波陽多とは、そういう人間なのだ。周りの人間をうやまい、大事にできる男。大切な人の幸せを心から願い、そのためになら、自分を犠牲にさえできる男。


「ごめん」


 こいつ、いいヤツだな。

 陽多のことをそんな風に思えたら、自然と謝罪の言葉が口を衝いた。


「俺が悪かった」

「違う。僕が」

「陽多」


 はじめて彼を名前で呼んだ。多くの人が知る芸名でもあり、彼が母の沙知佳から、最初にもらったプレゼントを。


「陽多」


 宝物を扱うように、もう一度、その名を大切に口にする。電子タバコをズボンのポケットにねじ込むと、顔を上げた陽多の前に、光は右手を差し出した。


「父さんのこと、よろしく頼むな」


 父のことを、陽多にも尊敬してもらいたい。こんなにも素直で優しい青年を一人で立派に育て上げた沙知佳のことを尊敬している自分のように。

 陽多みたいにきれいにはできないけれど、光は陽多に微笑みかけた。戸籍の上での話にとどまるが、これから兄弟になるその人を、あたたかく迎え入れようと思った。

 真っ黒な瞳の中に輝きを取り戻した陽多は、光の右手をそっと取った。


「僕のほうこそ、母さんのこと、よろしくお願いします」


 互いに少し力を込めて握り合う。二人して照れるように笑って、狭い喫煙スペースをあとにした。

 先を行く光の後ろで、陽多がケホケホと咳き込み出した。足を止め、「大丈夫か」と振り返ると、陽多は困ったように笑い、肩をすくめた。


「タバコ、苦手で」


 まさか。光は目をみはった。

 たいしたものだ。話を終えるまで、ずっと我慢していたのか。

 完敗だった。これが国民的俳優の実力なのだ。

 素直に負けを認め、光は「ごめん」と小さく言い、陽多の背中をそっとさすった。

 光より少し大きな義弟おとうとの背は、季節を飛び越え、花開く春のあたたかさを閉じ込めているようだった。

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