0.大好きなお兄ちゃんへ
光くんのこと、もっと知りたい。
はじめて顔を合わせた銀座の街で光にそう言った陽多の気持ちは、決して上辺だけのものではなかった。
純粋に、兄になる光の人となりを知りたかった。
どんな男なのか。どういう価値観の持ち主なのか。
近づいてもいい人か。仲よくなってもいい人か。
付き合う人間は慎重に選べ。幼い頃から、マネージャーの五十田は口を酸っぱくして陽多にそう言い聞かせてきた。陽多はその教えを忠実に守り、孤独に耐え忍んで俳優としての階段を上り続けた。
だが今、唐突に、目の前に兄になる人が現れた。
兄。すなわち、家族。立場としては母と同じ。友達とは違うのだから、五十田だって、まさか兄となる光とも距離を取れとは言わないだろう。うまく取り入ることができたら、光くんはきっと、僕の孤独を埋めてくれる――。
好奇心と小さな希望は、陽多の役者魂に火をつけた。どうしたら光の懐に入り込めるか。どのような役を演じ、どうアプローチすべきか。瞬時に頭の中でそろばんを弾き、アドリブを挟める余裕も設けた脚本を組み立てた。
弟キャラ。これまで演じる機会はなかったけれど、これでいこうとすぐに決まった。聞けば光も一人っ子だというし、一度甘えてみて、反応を見ようと思った。
手ごたえはすぐに感じることができた。仕事に疲れて弱ったフリをしてみせると、光は迷うことなく救いの手を差し伸べてくれた。彼のほうこそ、心に大きな傷をかかえて生きているというのに。
陽多の想像以上に、光は優しい男だった。
子犬のような目をして近づき、いくつものわがままを言ってみせたが、彼は戸惑いこそすれ、嫌な顔一つせず陽多の要求をのんでくれた。同居を承諾し、毎日夕飯を作り、掃除も、洗濯も、身の回りの世話はなんでもしてくれた。
好きだと言ったら、どうだろう。ちょっとした興味で距離を縮め、キスをしたが、光はそれさえも受け入れてくれた。いきなり同性から迫られるなんて、いずれ理解するとしても、はじめは驚くのが普通なのに。
光との距離が近づけば近づくほど、胸が苦しくなっていった。光の傾けてくれる無償の優しさが、陽多の心に、針でつけたような細い傷痕を刻んでいった。
自らが演じて作り出した嘘だらけの世界の中で、いつの間にか、陽多は本物の自分を見失った。
僕はただ、光くんに寂しさを埋めてほしかっただけだったのに。そして実際、光くんは僕のために力を尽くしてくれている。
それでいい。それでよかったはずなのに、どうしてこんなにも苦しいんだろう。こんなにも心が痛むんだろう。
光を騙しているという罪悪感が、少しずつ陽多を壊していった。
気がつけば光のことを考えている自分がいて、撮影現場でぼーっとしてしまうことが増えた。五十田に叱られ、必死に思考を切り替えようとするけれど、出番が終わり、集中が途切れると、また光のことを思い出してしまう。
陽多の中で、光の存在が純粋に大きくなっていた。利用して、無理やりそばにいてもらっているはずなのに、早く光の待つ家に帰りたくて仕方がなかった。
あり得ない。光くんは僕の家族。僕のお兄ちゃん。ただそれだけの人のはずだ。
なのに、どうして。
どうして僕は、こんなにも光くんのことを考えてしまうのだろう。早く光くんに会いたいと思ってしまうのだろう。
――好きだよ、光くん。
いつか伝えた甘い虚構が、陽多の胸を締めつける。
嘘なんかじゃない。
僕はもう、本当に光くんのことが好きなんだ――。
「陽多」
微睡みの中で、光の優しい声が聞こえた。
「起きろ。時間だぞ」
「……ん」
ベッドの中で寝返りを打ち、部屋の入口に立っている光を視界にとらえた。すでに光はスーツの上にコートを羽織っていて、今にも仕事へ出かけていきそうな雰囲気だった。
「起きたか」
「うん。おはよ」
上体を起こすと、光も「おはよ」と返してくれた。午前七時三十分。師走の朝は、ようやく外が明るくなってきたところだ。
「どうした?」
光が覗き込むようにして陽多を見た。
「嫌な夢でも見た?」
「え?」
「なんか、悲しそうな顔してる」
陽多は目を大きくし、自らの頬に軽く触れた。
また、昔の夢を見た。光を騙し、取り入ろうとしていた頃の夢。
光はとうの昔に許してくれているというのに、陽多はいまだに、光との出会い方を間違えたことを後悔していた。最初から素直に気持ちをぶつけ合っていても、優しい光ならきっと、陽多のそばにいてくれただろうと思う。
不意に、光がくしゃみをした。二回続けて出て、「さむ……」とぼやく。
「大丈夫?」
陽多はベッドから降り立ち、光の隣へと歩み寄った。
「風邪?」
「いや、どうかな。俺、暑いのは平気なんだけど、寒いのは苦手でさ」
そう言って、光はまたくしゃみをした。二人で南房総へ温泉旅行に出かけてから十日が経ち、寒さはいっそう厳しくなっていた。今日はあいにくの曇天で、太陽の力が借りられない分、空気は余計に冷たかった。
ぐずぐずと洟をすすりながら、光は仕事へ出かけていった。今日は早番なので、夕方には帰ってくるという。
陽多も先週から一月スタートのドラマの撮影が始まっていて、毎日朝から晩まで撮影スタジオやロケ地に詰めっぱなしの日々だった。この日も朝から五十田の車で撮影現場まで向かったのだが、十一時過ぎから降り出した雨によって、午後からの撮影が中止になるというハプニングに見舞われた。
予定がなくなり、仕方なく家に帰った。夕方になって光が帰ってくるまで、新しくもらった台本の読み込みに没頭した。それくらいしか陽多にはすることがない。基本的に無趣味なのだ。
午後五時半を過ぎた頃、光が買い物袋を提げて帰宅した。何日分の食料を買い込んできたのか、モスグリーンのエコバッグはパンパンだった。
「おかえり、光くん」
「ただいま。腹、減ってる?」
「うん。昼ごはん食べたきりだから」
そう、と返事をした光の声に覇気がなかった。時折咳払いを入れながら、鼻にかかって出しにくそうな声でしゃべる。
「待ってろ。すぐ夕飯作るから」
「光くん」
陽多は座っていたリビングのソファから腰を上げた。
「大丈夫? すごい鼻声だけど」
「平気」
一度二階の寝室に立ち寄って仕事の荷物と上着を置いてきた光は、ワイシャツにスラックスという姿のままエプロンを身に着け、買い物袋の中身を冷蔵庫にしまい始めた。陽多はしばらくその様子を見守っていたが、次第に光のからだが左右に揺れ始め、目は虚ろになっていった。
「あー。味わかんね」
味噌汁を作っていた光に「陽多」と手招きされる。呼ばれるがままキッチンに入ると、光はおたまを差し出してきた。
「悪い。ちょっと味見して」
「ねぇ、光くん」
隣に立つなり、陽多は顔色を変えた。
「なにこれ。からだ、めちゃくちゃ熱いじゃん」
「そりゃあそうだろ。火、使ってんだから」
「違うってば、そういうことじゃなくて!」
差し出されたおたまは取らず、陽多は右手を光の額に当てた。異様な熱さに、心臓が飛び跳ねた。
「ダメだ。すごい熱だよ」
「はぁ?」
「もういい。ごはん作ってる場合じゃない!」
足取りのおぼつかない光をかかえ、陽多は話のわかる知り合いの医者のもとへ駆け込んだ。幸い、インフルエンザなどの厄介な病名はつかず、疲れがたまって風邪をひいたのだと言われるにとどまった。
翌朝になっても熱が下がらず、光は仕事を休んで寝込むことになった。ベッドから降り立つこともままならない光のことが心配で、陽多はそばを離れることができなかった。
「待っててね。もうすぐ朝ごはんできるから」
「食欲ない」
「ダメだよ。少しでいいから食べないと」
「あとで食べるからその辺に置いといて」
光は頭から布団をかぶった。くぐもった咳の音が聞こえてくる。
「俺のことはいいから」
昨日よりもずっとガラガラの声で光は言った。
「さっさとこの部屋から出ていけ」
「イヤだ」
「イヤじゃねぇよ。おまえにうつったらどうすんだ。責任取れねぇぞ、俺」
「絶対にイヤだ。時間になるまでここにいる」
今日も朝から撮影の予定が入っていた。穴をあけるわけにはいかないので行くしかないが、ギリギリまで光と一緒にいるつもりだ。
自分が光に無理をさせているのだと自覚していた。陽多はただこの家で寝起きし、食事をするだけだが、光は大学図書館での仕事をした上で家事までこなしてくれている。寒さに弱いのだと昨日言っていたし、任せきりにせず、もう少し気づかうべきだった。今頃反省しても遅い。
「できたぞ、陽多」
光の寝室に、渋い声が響いた。スーツにエプロンを着けた五十田が、盆に小ぶりの片手鍋と茶椀、それから薬の入った袋とペットボトルの水を載せて入ってきた。
「ありがとう、五十田さん」
陽多は立ち上がり、載っていた物を片づけておいたナイトテーブルを自分の部屋から持ってきて、光のベッドのすぐ脇に置いた。五十田はその上に盆を置くと、鼻から上だけを布団から出している光を見下ろし、これみよがしにため息をついた。
「なんでオレがきみの面倒まで見なくちゃならないんだ。オレは陽多のマネージャーなんだが」
「俺、頼んだ覚えないっすけど」
「いいの。母さんを呼ぶより、五十田さんに頼んだほうが早いもん」
陽多は光の言葉を遮るようにして言った。「オレは便利屋か」と五十田はなお文句を垂れた。
「なに作ったの?」
陽多は五十田を見上げて問う。五十田が鍋のふたを開けると、白い湯気とともに、炊きたてのごはんの甘いにおいが広がった。
「うわぁ、おいしそう!」
「さつまいも粥だ。さつまいもに含まれるカリウムには、熱を下げやすくする働きがある」
水分を吸ってふやけた白いごはんの間に、赤紫の皮を残した輪切りのさつまいもが顔を覗かせていた。ごま塩が振ってあり、見た目から食欲をそそる。
「さすが五十田さん! 物知り~」
「おまえは少し黙ってろ」
陽多を睨んだ五十田は、茶碗に半分ほど粥をすくい、「起きられるか?」と光に尋ねた。光は黙って起き上がり、足を降ろしてベッドの端に腰かけた。
「しんどそうだな」
茶碗と箸を光に手渡すと、五十田は片膝を立ててしゃがみ、光の赤らんだ顔を覗き込んだ。
「熱は高いのか」
「さっき計った時は三十八度二分でした」
「そうか。だが、薬は少しでも食べてから飲んだほうがいい。味もよくわからないだろうが、とりあえず腹に流し込め」
「すいません、わざわざ。いただきます」
光は素直に五十田の作ったさつまいも粥をすすった。無言で口をもぐもぐと動かしている光の額に五十田は手を当て、険しい表情を浮かべている。
二人の様子を傍から見ていて、無性に腹立たしくなった。言葉にしなくても互いを分かり合っている熟年夫婦のように見えてきて、嫉妬せずにはいられない。
わかりやすくむくれて、陽多は光の隣に腰かけた。
「ねぇ五十田さん、僕の分は?」
「そう言うと思って、用意しておいた」
「やった! 僕もここで食べていい?」
「バカを言うな。おまえは元気だろう。一階のテーブルで食え」
「やだ! 光くんと一緒がいい!」
「ダメだ」
「うるさい」
光が上ずった声で静かに二人の言い合いを制した。三口ほど食べただけで茶碗に残っている粥をサイドテーブルに戻し、薬を飲むと、再び布団に潜り込んだ。
「大丈夫、光くん?」
光は陽多の声を無視した。陽多と五十田に背を向け、布団で口もとを覆って咳をしている。
「行くぞ、陽多」
食事の用意と薬を載せた盆を持って立ち上がり、五十田は陽多に声をかけた。
「少し寝かせてやれ。ただの風邪だと言われたんだ。からだが休まれば、じきに症状も落ちつくだろう」
動こうとしない陽多を置き去りにして、五十田は廊下の階段を下りていった。陽多は心配な気持ちをその目に宿し、光の額の汗を指で拭った。
「早く仕事に行け」
丸い背中を陽多に向けたまま、光はぶっきらぼうに言った。
「俺のことはいいから」
「でも」
「ムカつくんだよ、おまえら見てると」
布団から顔を出し、光は虚ろな目をして陽多をにらんだ。
「仲よさそうにしてるおまえとあの人の声聞いてると、イライラしてたまんねぇ」
ハッとした。
光くんも、僕と同じ気持ち? 五十田さんに、ヤキモチを焼いてる――?
途端に嬉しくなって、陽多は口もとをほころばせた。
「安心して。僕は光くん一筋だから」
「うっせぇよ。頭いてぇから話しかけんな」
「はぁ!?」
陽多が牙を剥きそうになると、光はゴホゴホと苦しそうに咳き込んで、頭まですっぽりと布団をかぶって逃げてしまった。かわいらしい照れ隠しに、陽多はふわりと笑みをこぼした。
お大事に、と声をかけて一階に下りると、五十田が陽多の分のさつまいも粥を準備してくれていた。
テーブルにつき、「いただきます」と手を合わせ、陽多は粥に口をつけた。ほんのりと甘い、優しい味のする粥だった。これを光のために作ったのかと思うと、嫉妬心が再びむくむくと湧き上がってくる。
「なぁ、陽多」
エプロンをはずし、いつも光が座る席に腰を下ろした五十田は、訝るような目をして陽多に尋ねた。
「何度でも訊くが、あの男のどこがいいんだ?」
「全部」
即答した。五十田には、光に対して恋愛感情をいだいていると伝えてある。そして光も、陽多の気持ちにこたえてくれていると。
五十田は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「オレにはさっぱり理解できないんだがな。見た目に華があるわけでもないし、貧弱そうだし、これといった取り柄があるわけでもなさそうで……」
「そういうところも含めて、全部!」
五十田が光をどう評価しようと知ったことではない。光のそばにいると安心できる。光が笑いかけてくれると嬉しくなる。幸せな気持ちになれる。それ以外にどんな理由が必要だろう。
過ちもすべて受け止めてくれる、優しくてあたたかい心の持ち主だからこそ、陽多は光に惹かれたのだ。その優しさは、自分だけに向けてくれればなおいい。ひとり占めしていたい。
がっつくように粥をすすっていると、五十田がかすかにため息をついた。
「……なんでオレが、あの優男に負けなくちゃならん」
「え、なに?」
ボソボソと五十田がつぶやいたが、よく聞こえなかった。聞き直すと五十田はますます不機嫌になって、「なんでもない。早く食え」と陽多を急かした。
光を一人家に残し、陽多は五十田の運転で撮影現場に向かった。昨日の悪天候から一転、今日は晴天に恵まれ、撮影の遅れを取り戻そうとキャスト・スタッフ一丸となって撮影は敢行された。
出番が来るまでにはずいぶんと待たされる時間もあって、その間に陽多の個人用スマートフォンは一件のメッセージを受信した。光からだった。
〈ティッシュなくなりそう。悪いけど帰りに買ってきて〉
光には珍しいヘルプ要請だった。納戸のストックも切れているということか。昨日から光は散々鼻をかんでいたから、そのせいだろう。
一方で、安心もできた。こんなメッセージが届くということは、ベッドを離れ、納戸までティッシュを取りに行く元気を光は取り戻したということだ。
「まったく」
よかった、と胸をなで下ろしながら、陽多は液晶の上で指をすべらせ、光宛ての返事を打ち込んだ。
「世話の焼けるお兄ちゃんだ」
優しくて頼りになると思っていたら、突然熱を出して倒れたりする。好きだとまっすぐに伝えてみたり、照れてみたり、怒ってみたり。コロコロと変わる光の表情は、どれをとっても愛おしい。
一瞬でも離れるのが惜しい。目を離してしまうのが惜しい。どんな顔をする光も、絶対に見逃したくない。
だからこれからも、光と一緒に暮らすのだ。世話が焼けても、喧嘩をしても、胸の鼓動が止むその時まで、光と同じ道を歩む。
光は陽多にとっての太陽だった。あたたかくて、優しさは時にまぶしくて、ずっと一人ぼっちだった陽多を明るい光で照らしてくれる。見上げればいつでもそばにいてくれる、なににも代えがたい大切な存在。
心から、光のことを愛していた。光の愛情を受けられることが誇りだった。
早く帰って、回復した光の胸に飛び込みたい。光がいてくれるから、しんどい時もがんばれる。がんばろうと思わせてもらえる。
家に帰れば、幸せな時間が待っている。それがなによりの力になった。
打ち込んだメッセージを読み直す。
どうかこの想いが、まっすぐ光くんに届きますように。
願いを込めて、陽多は送信ボタンを押した。
〈了解。買って帰るね。光くん、大好きだよ〉
【蜜月ラプソディー/了】




