3.再び、家族になれた日
光の勤める図書館へ乗り込んできた時から、五十田のことは根っからの悪人ではないと感じていた。仕事熱心な上に正義感も強く、一度間違っていると思い込んだら正さずにはいられない。そういう性格の人なのだろう。
そうとわかれば、誠意を見せることで解決の糸口は掴める。憂鬱だと言いながら、翌朝、陽多は五十田に誠心誠意謝罪した。
マネージャーの五十田が仕事を取ってきてくれるから自分は俳優として働けるのであり、これまでどおり、都合がつく限りすべての仕事をこなしたいと伝えた。俳優として、さらなる高みを目指したい気持ちに変わりはないと。
ただし、光との同棲を解消するつもりはない。そのこともきちんと話をした。光は兄であり、家族であり、陽多が心を許せる数少ない存在だ。精神的な支えになってくれる光と離れることは、少なくとも今の陽多にとってはマイナスにしかならない。だからどうしても、一緒に暮らしたい。陽多自身のまっすぐな言葉で、五十田に伝えた。
光の予想したとおり、五十田は話の分からない男ではなかった。これまでずっと五十田の言いなりになってきた陽多がはじめて自分の言葉でしゃべり、本気を見せたことで、自分も少し考え方を変えなければと思ったらしい。
陽多の意を汲んだ上で、仕事もプライベートも充実させてやることがマネージャーの務めだと、五十田は陽多の申し出を了承してくれた。話をしている間、陽多はずっと光と手をつないでいたのだが、五十田が終始不快そうにつながれた二人の手をにらみつけていたことだけが、光は少し気がかりだった。
かくして、光は陽多の家に戻り、これまでどおり二人で暮らしていくことになった。陽多は相変わらず忙しい毎日を過ごし、光は図書館員としてまったり仕事をしながら、こちらもまったりと二人分の家事をこなした。
陽多がたまに「ニンジンは食べたくない」などと小学生みたいなことを言うので、どうやってこっそり食べさせてやろうかと仕事中に策を練るのが日課になった。おかげで料理の腕は上がり、父と沙知佳が中目黒まで様子を見に来た時に振舞ったパエリアとコーンスープは二人をうならせるほどだった。
日々が充実すると、時間はあっという間に過ぎていく。
旅館の浴衣に身を包み、ビールのなみなみ注がれたグラスを傾けながら、光は海に面した客室内の露天風呂に浸かる陽多の引き締まった上半身を眺めていた。約束していた温泉デートに行き先は、千葉の南房総になった。陽多は海が好きらしい。
例年よりも寒い冬は、温泉のありがたみをいっそう強く感じさせてくれた。
旅館に着くなり、まずは風呂だと二人で露天風呂に飛び込んだ。光も陽多も友達と温泉旅行に出かけた経験はなく、年甲斐もなくはしゃぎ、束の間の休暇を満喫した。
光は先に上がったが、陽多は「もう少し浸かる」と言い、今もなお浴槽から夜の海を眺めている。室内の明かりが漏れているせいで空に星は見えないが、雲間から覗く淡い月光を映す水面は幻想的で、陽多はうっとりと目を細めていた。
「長風呂するとのぼせるぞ、陽多」
外の景色を見られるよう窓に向けて置かれたソファから立ち上がり、窓の外側にある風呂場へと出た光は、ちゃぷちゃぷと静かに音を立てる湯船にからだ半分をうずめる陽多の背中に声をかけた。
「もう十分だろ。上がれよ」
「えぇ、もう?」
陽多は唇を尖らせた。確かに温泉を所望したのは陽多だが、光の存在を忘れるほど没頭してもらっては困る。
恥ずかしさをどうにかこうにか押し殺し、光はからだ半分を客室内に向け、陽多に言った。
「いつまで俺を一人にしとくつもりなんだよ、バカ」
顔から火が出そうほど熱いのは、酔いが回ったせいに違いない。そう決めつけて部屋に戻り、さぁもう少し飲むぞと座敷についてビール瓶に手を伸ばしかけたところで、陽多が腰にタオルを巻いた格好で慌ただしく風呂から上がってきた。
「陽多……?」
ぎょっとした顔で見つめていると、陽多は光の腕を掴んで強引に立ち上がらせた。そのまま光を抱き寄せると、音もなく唇を奪いに来た。
火照った陽多のからだが発する熱が、光の浴衣を透過して伝わる。徐々に光のからだも、まるで温泉に浸かっていた時のようにあたたまっていった。
「ごめんね、光くん」
鼻先が触れ合ったまま、陽多はささやく。
「もう、一人ぼっちにはさせないから」
手を引かれるまま、光は畳から少し高くなっているだけのフロアベッドに寝かされた。足もとにたたんで寄せられている掛け布団を、陽多は派手に跳ねのけた。
二台あるダブルベッドの一つに、陽多は光と並んで寝転がる。全身を包み込むように腕を回され、洗い立ての髪をかき上げられた。
「好きだよ、光くん」
唇を奪われる。貪るように、陽多は大きく光を食む。
はじめての交わりは、終始陽多のペースで進んだ。いつもそうだ。陽多は光を恣にし、光は陽多が好き放題することを拒まない。
同性に弄ばれることは恥ずかしくて、だけど陽多は優しくて、このまま陽多に抱かれ続けていたいと次第に思わされていく。細く走る甘い痺れも、電撃のような強い痛みも、陽多がくれるものならすべて受け止めたいと思った。
光くん、光くん、と陽多は何度も光の名を呼んだ。お兄ちゃん、遊ぼうよ。小さな弟がそんな風に甘えてじゃれてくるような声で、陽多は光と重なったまま離れない。満足するまで、納得のいくまで、二人は何度でも果てて、そのたびに愛が深まった。
「俺と一緒なら、寂しくないか」
陽多に抱かれたまま、光は尋ねる。耐えがたい孤独の中で長く生きてきた義弟は、寂しさのあまり、正しい選択ができなかった。
陽多は答える。その目にはもう、迷いの色は少しもない。
「光くんさえいてくれたら、他になにもいらないよ」
愛してる――。
互いに気持ちを確かめ合った二人を、夜の波が深い水底へといざなった。
長い交わりを終えた途端、とてつもない疲労感に襲われた。全身がだるい。けれど、心はひどく満たされている。
軽くシャワーを浴び、二人で再び温泉に浸かった。光はシャワーだけでいいと断ったのだが、陽多がどうしてもと言うので湯船に入った。
さっきよりも、月の位置が高くなっていた。水面に映る月光の道はまっすぐで、まるで二人の行く末を明るく照らしてくれているようだった。
「最初から、そのつもりだったのか」
浴槽のふちに両腕を預け、その上に顎を載せている陽多の横顔に問いかける。陽多はふと光を見た。
「なにが?」
「セックス」
光にとっては、大いに想定外のできごとだった。だが陽多は、いつかこういう日が来ることを期待していたのだろうか。
陽多はすぅっと目を細め、穏やかな口調で語り出した。
「僕、撮影でしか寝たことないんだ」
「ベッドシーン?」
「うん。当たり前だけど、実際にするわけじゃない。してもキスまで。光くんとが、はじめてだった」
そうだったのか。それにしてはやけに手慣れた感じだったのは、やはり最初からこうなる未来を想定し、予習してきたということだろう。台本さえあれば、陽多はどんな役でも見事に演じ切ってしまう。男同士のそれでさえも、華麗に。妖艶に。
「ありがとう、光くん」
陽多はうっとりと光を見つめ、顔の横でピースサインを作った。
「志波陽多、二十歳。優しいお兄ちゃんのおかげで、無事に童貞を卒業できました」
光は声を立てて笑った。性的な成長のために存在する兄でありたいとは思わないが、少しでも役に立てたのならまぁいいか、なんて思ってしまう意志薄弱な光である。
「ねぇ、光くん」
陽多は腕に頭を預け、ゆっくりとまぶたを閉じた。
「僕、眠い」
「えぇ?」
光は怪訝な顔をする。よく見ると、陽多の顔は真っ赤だった。
「おい、陽多」
ペチペチと頬をたたいてやる。
「ここで寝るな。上がるぞ」
「ダメ。動けない」
「はぁ?」
光はザプンと湯船の中で立ち上がる。「のぼせたぁ」と陽多はふにゃふにゃの声をして言った。
「そらみろ、言わんこっちゃない……!」
半ば呆れ、光は陽多の脇に腕を入れた。「立て、陽多。早く上がらないと」と声をかけながら抱きかかえる。
ふらふらになった陽多のからだを手早く拭き、浴衣を着せ、ベッドに横たえる。光も生乾きの髪のまま浴衣をひっかけ、コップに水を入れて陽多に飲ませた。
「ったく」
ベッドの上で浅い呼吸に肩を揺らす陽多に、光は帯をきちんと締めながら冷ややかな視線を浴びせた。
「だからシャワーだけにしとけっつったのに」
「エヘヘ」
「笑いごとじゃねぇよ」
風呂場にあった桶に水を張り、タオルを浸して冷やすと、光はそれを固く絞って陽多の額に載せてやった。「気持ちいい」と陽多は笑ってつぶやいた。
「もう寝ろ」
光が立ち上がろうとすると、「待って」と陽多は光の手を掴んだ。
「一緒に寝よ?」
潤んだ目をして、陽多は添い寝を求めてきた。まったく、俺はこいつのこういうところに弱いんだよ――。
「しゃーねぇな」
一通り片づけ、部屋の照明を落とすと、光は陽多の待つベッドに入った。本当なら一人で悠々とダブルベッドの広さを堪能する予定だったのに、からだの大きな陽多と一緒じゃ普段のセミダブルと変わらない。むしろ狭い。
「ありがと、お兄ちゃん」
額にタオルをくっつけたまま、陽多は光と手をつないだ。
「大好き」
「うん。俺も」
触れ合うだけの短いキスを交わすと、陽多はすぐに静かな寝息を立て始めた。つながれていた陽多の手から力が抜ける。さっそく寝入ってしまったらしい。
「かわいいヤツ」
陽多の黒髪を指で梳く。本人に伝えるのは恥ずかしいが、本当に陽多はかわいかった。
天真爛漫で、自由奔放。スイッチが入り、役者の顔をすればかっこよく、誰よりも男前になる。
愛さずにはいられなかった。こんなにもかわいい人を、誰が手放してやるものか。
いつか陽多にも直接伝えた。俺がおまえを守ると。
その誓いに嘘はない。人生をかけて、陽多を守り抜くと決めた。
陽多が首を動かした。額に載せられていたタオルが落ちる。
拾い上げ、もう一度載せてやろうとしたが、よく考えたらどうせまた落ちるに決まっていた。
タオルを片手に、光はベッドから降り立った。軽くはたいて広げ、風呂場に干す。
あいているもう一台のベッドに入ろうと思ったが、やっぱり陽多の眠るベッドに戻った。陽多のぬくもりを、今は近くで感じていたい。
「ったく」
なにもかも陽多のせいにして、光は陽多の隣に寝転んだ。わしゃわしゃと、気持ち激しく陽多の頭をなでてやる。
「世話の焼ける弟だ」
光の嬉しそうな笑みが、客室の闇に溶け込んだ。
太陽の足音はまだ遠い。更けていく夜と、淡い月明かりの下で、光は静かに眠りについた。
誰よりも深く愛し合う二人の指先が、ベッドの中で触れ合った。
夜が明けたらなによりも先に、陽多にキスをしようと思った。




