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蜜月ラプソディ  作者: 貴堂水樹
第三章 僕は踊る、きみの描いた幻の中で

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2.もしもきみと出会わなければ

 家が職場に近くなったことで、遅番の日は午前十時半に家を出れば始業時間に十分間に合う。朝はゆっくり起き、今晩のためのエビピラフとポテトサラダを二人分作り、「十時に起こして」と頼まれていた陽多を起こし、朝食兼昼食のサンドイッチを一緒に食べた。


「三日間だけ、休ませてくれるって」


 昨日の会話の続きを始めるように、陽多は言った。昨日、ミートソースのパスタを食べながら陽多は「光くんと遊びに行きたい」と朝方のわがままをもう一度口にしたのだ。


「デート。デートしたい、光くんと」

「なに言ってんだよ」


 陽多の向かい側に座る光はあきれ顔でテーブルに頬杖をついた。


「そんなひまないだろ、今は」

「でも行きたいんだからしょうがないじゃん。この間、母さんたちの結婚祝いを買いに行ったきりでしょ、二人で出かけたの」

「あれはデートのうちに入るのか?」

「入らない。だから行きたいんだってば」


 陽多は言い切り、パスタを口に放り込んだ。本当に毎回おいしそうに食べてくれる陽多に感謝しつつ、光は承諾の返事をした。


「わかったよ。ただし、おまえが完全オフの日があればな」

「やった。五十いそさんに訊いてみるね、休みが取れるかどうか」


 五十田とは陽多の所属する芸能事務所のマネージャーで、陽多が俳優デビューした十二歳の頃から面倒を見てくれている仕事上のパートナーだ。陽多の俳優としての成功は五十田の支え無くしてはあり得ず、彼には頭が上がらないのだと陽多は話した。三十六歳と、二人に比べれば若くないが、今でも陽多とともに現場を駆けずり回る元気な人だという。


 そんな五十田に陽多が今後のスケジュールを確認した結果、映画の撮影が予定通り終了すれば、それから三日間はなんの仕事も入れないと約束してくれたそうだ。十二月最初の金・土・日。そのあとはCMの撮影や雑誌のグラビア撮影・インタビューの予定があり、さらに一月から放映される連続ドラマへの出演も決まっていて、そちらも十二月中旬から撮影に入るという。相変わらずの忙しさに、光はどんな顔をしていいのかわからなかった。


「どこか行きたいところ、ある?」


 パンの隙間からあふれ出しそうなたまごとトマトを上手に口でキャッチしながらサンドイッチを頬張る陽多に、光は尋ねた。陽多はもぐもぐと口を動かし、ごっくんと大きく喉を動かしてから答えた。


「うーん、温泉?」

「いいね。近場だと、やっぱ箱根はこね? 湯河原ゆがわら?」


 まじめに考えた光だったが、なぜか陽多はあきらめたように笑った。


「ごめん、光くん。自分で言っておいてアレだけど、僕、温泉には行けないんだ」

「どうして」

「一般のお客さんに裸の写真を撮られて、週刊誌に売られる」


 陽多はなんでもない風に言って笑うけれど、光は大きな衝撃を受けた。

 わかっているつもりだった。俳優という陽多の仕事の大変さを。

 けれど、その本質は理解できていなかった。少しでも顔が売れてしまうと、どこへ行っても、たとえプライベートな時間でも、常に誰かの視線にさらされ続け、あるいは悪意を向けられることになるのだ。


 どうにか気を取り直し、光は改めて陽多に尋ねた。


「じゃあ、どこなら行ける?」

「さぁ、どこだろう。誰も僕のことを知らない世界、かな」


 おどけた陽多ピエロの漆黒の瞳が、ひどく悲しげな藍色になった。光が胸の痛みに顔をしかめるのを見ると、陽多はようやく失敗を悟り、まじめさを取り戻した。


「ドライブデートなら、いいかも。山へ行くとか、海を見に行くとか」

「ドライブか……」


 妙案だと思ったが、光には一つ問題があった。


「俺、ペーパーなんだよな」


 十八の時に免許は取得したが、東京の暮らしに車はほとんど出番がなく、光はペーパードライバーだった。都内であればJRか地下鉄のどちらかに乗ればどこにでも行けるし、食材や日用品を買いに出かけるスーパーも駅からそれほど遠くなく、徒歩で十分こと足りたのだ。そもそも光はあまり出歩くのが好きではない。電車にも通学・通勤で乗るばかりだった。


「じゃあ、練習する?」


 陽多は席を立ち、戻ってくるなり「はい」と光に車のキーを差し出した。光は頬をひきつらせた。


「いや、ベンツ……」


 一度立川の家にも乗りつけたことのある陽多の愛車は、メルセデスの白いセダンだ。値段は恐ろしくて聞いていない。


「トヨタ車とかと違って、ウィンカーが左、ワイパーが右ね。サイドブレーキはボタンだから。慣れるまで大変だと思うけど、ペーパーならむしろすぐ慣れちゃうんじゃない?」

「いや、ありがとう……父さんの車で練習するからいいや……」


 ウィンカーの位置云々(うんぬん)という問題ではない。いきなり外国車で東京の街を走る勇気はさすがになかった。

 そのあたりが陽多は世間と思考がズレているのだ。陽多は「車ならどれでも一緒でしょ」。光は「外車なんてそんな気軽に乗れねぇよ」。やはり彼とは生きる世界が違うのだと、思いたくないのにそう思わされてしまう現実が光にはむなしくてたまらなかった。


 見る気もなく電源をつけていたテレビが流すワイドショー番組で、温泉スポットの紹介VTRが始まった。人気若手お笑いコンビが栃木県の鬼怒きぬがわ温泉を訪れ、旅館の女将おかみが客室にも露天風呂がついているのだと説明している。


「これだ」


 光の脳裏に、一筋の閃光がほとばしった。


「これだよ、陽多!」

「ふぇ、はひ?」


 サンドイッチの最後の一口分を口いっぱいに含んで首を傾げる陽多に、「だから!」と光はテレビの液晶を指さして言った。


「部屋に露天風呂のついてる温泉旅館! これならおまえも温泉に入れる!」


 陽多は口をもぐもぐさせながらテレビを見て、「あぁ」と特に表情を変えることもせず頬張ったサンドイッチを飲み下した。


「ほんとだ。すごいね、客室にも温泉があるなんて」

「感心してる場合じゃないだろ! なぁ、行こうよ」


 大浴場の露天風呂に入れないのは惜しいが、客室の風呂なら一般客に裸を見られる心配はない。まさかパパラッチが終始陽多の周りをうろついているわけでもあるまいし――かねてからなんらかのうわさがあるタレントなら別だが――、この旅行プランなら陽多もゆっくり静養できそうだ。


 すっかり乗り気で光が誘うと、陽多はなぜか悲しげな笑みを浮かべた。


「本当に優しいよね、光くんは」

「あん?」

「ちゃんと僕のことを考えてくれる。僕のわがままに付き合ってくれる」

「どうしたんだよ、陽多」


 陽多は静かに席を立ち、光の隣に座り直した。

 黙ったまま、陽多は光の髪をなでる。その右手はやがて光の頬を包み、音もなく唇を奪われた。


「光くん」

「うん」

「好き」

「うん」

「好き」

「うん」

「光くん」


 不意に陽多が、光の胸に顔をうずめた。長い両腕が光の背中に回される。


「このままずっと、光くんのそばにいたいよ」


 出かけたくない、と陽多ははじめて光の前で仕事に対する弱音を吐いた。昨日のことといい、相当参っているらしい。

 光は抱き寄せるように陽多の頭に腕を回し、静かに髪をなでてやった。


「ごめんな。俺もこれから仕事だから」

「わかってる。わかってるんだよ、そんなこと」


 言葉とは裏腹に、陽多はすがりつくように、光の腰に回した腕に力を入れた。


「行かないで」

「陽多」

「離れたくない。光くんと、ずっと一緒がいい」


 声が真に迫っていた。

 さすがにおかしい。昨日から陽多はこの調子だ。疲れているのだと思っていたが、たぶん、それだけじゃない。


「なぁ、ひょっとして、なにかあったのか」


 答えてくれないかもしれないと思いつつ、光は訊いた。対応を間違えると陽多をさらに追い込むことになるとわかっていても、尋ねずにはいられなかった。


「どうしたんだよ、陽多。おまえ、ヘンだぞ。昨日も言ったけど、俺はここを離れるつもりはないから。おまえとずっと一緒にいるよ」


 予想したとおり、陽多から返事はなかった。それが彼からの返事だった。なにかが起きたが、光には言えない。そういうことだ。

 テーブルの上で、陽多のスマートフォンが鳴った。彼は仕事用と個人用の二台を契約していて、今鳴っているのは仕事用、青いケースのほうだった。


「ごめん、迎えが来た」


 かけてきたのはマネージャーの五十田らしい。陽多は「ごちそうさま」と言い、青いスマートフォンを片手にリビングを出、荷物を取りに二階の自室へ向かった。家の外では、五十田の回した送迎車が陽多を待ち構えている。

 陽多はリビングに立ち寄らないまま出て行った。食べっぱなしの白い皿と、すっかり冷めたホットコーヒーの半分残ったマグカップを、光は黙って片づけた。


 満たされているはずだった。一緒にいられる時間は短くても、想いが通じ合っているとわかれば幸せだった。

 陽多もそうであってほしかった。離れていても、光を想えば幸せでいられるのだと。


 逆だったのかもしれないと、陽多の態度に気づかされた。

 陽多にはたぶんわかっていた。あるいは誰かに悟らされたのかもしれない。

 光との距離が縮まれば縮まるほど、苦しい気持ちが膨らんでいく。叶わない願いが増えていく。

 デートに行けない。家でのんびり過ごすこともできない。光には我慢のできることも、陽多にはつらくてたまらないのだ。昨日口走ったように、陽多は光に我慢をいているとも思っている。


 沙知佳の言葉を思い出す。俳優の仕事を始めてから、陽多は友達と遊ぶことがめっきりなくなったという。

 光と出会うまでは、きっと我慢できていたのだ。そういう仕事なのだと、孤独に耐えながら続けていくものだと割り切れていた。

 だが、光と出会い、誰かのぬくもりを感じる機会に恵まれてしまった陽多は、人恋しくてたまらなくなってしまった。

 兄弟なのだから、誰に邪魔されることもなく一緒にいられる。これまでの孤独な時間にため込んだ寂しさを、兄である光に埋めてもらえる。そう思ったから、執拗なまでに光との同居を望んだのだ。歳の近い、友達みたいな、あるいはそれ以上の存在になれる人を、陽多は求め続けていた。


 シンクに皿とマグカップを置く。蛇口から水を出す。

 バタバタと水が皿をたたき、飛沫しぶきが光のワイシャツに飛んだ。


 満たされているはずだった。

 なのに今は、胸が苦しくてたまらない。


 出会わなかったほうがよかったのかもしれない。

 光と出会ってしまったから、陽多は思い出したのだ。愛されることの喜びを。求められることの幸せを。


 そうだとしたら、悪いのは俺だ。

 俺と出会いさえしなければ、俺が優しさを見せなければ、陽多は苦しまずに済んだのに。


 守れると信じた陽多のことを、俺は全然守れていない。

 孤独なままでいたほうが、陽多は幸せだったのかもしれない。


 込み上げてくる悔しさに、光はおもいきり下唇を噛んだ。

 陽多を苦しめているのは自分かもしれないと思ったら、無意味に大声で叫びたい衝動に駆られた。

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