1-2.家族になりそびれた日
「おはよ」
寝起きでもさわやかに決まってしまう陽多にささやかな嫉妬心を覚えながら、光も「おはよ」と返してソファから腰を上げた。
「ごめん、もしかして話し声がうるさかった?」
「ううん、全然。電話が鳴った音も、光くんの足音も聞こえてた」
陽多は答えながらキッチンへ向かい、グラスに注いだミネラルウォーターを一息に飲み干した。渇いた花が潤いを取り戻したように、シャキッとした彼のまとう空気はいっそうきらびやかな色を帯びた。
「電話、お父さんから?」
光にそう尋ねてから、陽多は「ごめん、盗み聞きするつもりはなかったんだけど」とずいぶん前からリビングの前の廊下にいたことを告白した。光としては別に聞かれて困るようなことはなく、「そうだよ」と素直に答えた。
「こっちの生活が気になるみたいでさ。ちなみに向こうはうまくやってるって」
「そっか。お互いに順調でなによりだね」
陽多はグラスをキッチンカウンターに置き、長い足をスタスタと動かして光のすぐ隣に立った。
腰に手を回され、二人一緒にソファへと座る。息を吸うひまも与えてもらえないまま、陽多は光にキスをした。
光の存在を確かめるように、自分の存在を光の中に植えつけるように、陽多はのっけから濃厚な交わりを求めた。
いつもそうだ。陽多の舌は躊躇なく光の口内へと進み、隅々まで舐め回していく。
自分の舌を器用にすくい上げられ、くるくると交わらせるよう誘われるまで、光は陽多のしたいようにやらせていた。
陽多はキスがうまかった。相手が女性ではあまり経験できない、すべてを投げ出し、相手の行為に身をゆだねることの心地よさを覚えてしまった。
なにより、国民的俳優のまっすぐな愛情を受け止めているのが自分だということに、光は完全に酔っていた。誰もがうらやむ世界の中に、俺は陽多とともにいる。それを知っているのが自分たちだけだということもまた、光の心に芽生えた万能感に拍車をかけた。
唇は離れたが、鼻先は触れ合ったまま、陽多はささやくように口を開いた。
「ねぇ、光くん」
「ん?」
「母さんたちは知らないんだよね? 僕らがこんなことしてるって」
こんなこと、のニュアンスが妙に官能的で、光は頬に熱を帯びるのを感じた。
「俺は言ってない」
「言わない? これからも」
「あぁ、言わない」
光は陽多の髪をなで、そのままつややかな頬に触れた。
「こういうのは、秘密にしておいたほうが燃えるんだよ」
教師と生徒の禁断の関係。上司との社内恋愛。浮気。不倫。
バレてはいけないおこないほど、人の心には火がつきやすい。平静を装い、周りに嘘をついて生きる日常から一歩離れたところで得る快感と充足感は、一度その味を知るとやみつきになってしまう。
いつの間にか、光は陽多のものになることに他では得難い快感を覚えていた。優茉にそれとなくアピールされたことなどはすっかり忘れ、陽多のことだけを考える日々を送っている。
光から唇を重ねにいった。ほんの少し触れるだけの、優しい交わり。
「ごめん。今のは半分冗談」
「え?」
「俺はおまえが好き。それ以外のことはどうでもいいと思ってる。でも、おまえが相手じゃそういうわけにはいかない。おまえの将来を考えたら、絶対に大っぴらにはできない」
陽多は今をときめく売れっ子俳優だ。たとえ義理の兄弟になったのだとしても、二人の本当の関係が外部へ漏れれば週刊誌などでおもしろおかしく書かれてしまう可能性はゼロじゃない。陽多の足を引っ張るようなことは、光にとっても本意ではなかった。
「俺、おまえを守るって決めたから。おまえに不利になるようなことはしないよ」
「光くん」
「おまえが父さんや沙知佳さんに知ってもらいたいなら言えばいい。俺からは話さない。誰にも」
それが陽多と交わる上で最低限守るべきラインだと光は考えている。陽多の気持ちは素直に嬉しいし、光も陽多のことを愛しているけれど、それはそれ、これはこれ。公には、二人の関係はあくまで義兄弟でなくてはならないのだ。
ぐらぐらと揺れ動く陽多の漆黒の瞳を見つめ、光はそっと微笑みかけた。
「腹減ってる? パスタでも茹でようか」
ミートソースを作ったんだ、と光は陽多の隣を離れ、軽快な足取りでキッチンへと向かった。かなり遅めのランチだが、これから仕事に出ていくのだから腹ごしらえは必要だろう。
「光くん」
陽多もソファから立ち上がり、手を洗う光に言った。
「ごめん」
「ん?」
「窮屈、だよね」
「え、なに?」
意味を取り損ねて訊き直すと、「だって」と陽多は斜め下に視線を下げた。
「ここへ来てから、光くん、僕に気をつかってばっかりだから。僕のわがままはたいてい聞いてくれるし、仕事にも理解があって……」
なんだ、そんなことか。光はやや大げさに笑ってみせた。
「気にすんなって。全部俺が決めたことだ。俺がそうしたくてやってる。それだけだよ」
「でも」
「陽多」
名前を呼んでやると、陽多は光と目を合わせた。
「窮屈だなんて思ってない。むしろ自由にやらせてもらってるくらいだ。こんな広くてきれいな家に住まわせてもらって感謝してるし、俺のほうこそ、おまえにちゃんと恩返しできてるか不安だよ」
「恩返しだなんて、そんな」
「なにか不満があるのか」
一向に晴れない表情の陽多に対し、少し強く出る。
こういう時こそ、ちゃんと腹を割って話さなければならないと思った。陽多がなにを気にしているのか、吐き出させてやったほうがいい。
「俺は満たされてるよ、今の生活で。おまえはどうなの? なにか気になることがあるなら言って。直すから」
「ないよ。ない。むしろ直さなきゃいけないのは僕のほうで」
「どこを直すんだよ。俺はおまえに対して不満なんてないよ」
「でも」
「なにが『でも』なんだよ」
だんだんイライラしてきて、光は険しい表情で陽多をにらんだ。
「なぁ陽多、おまえはなにをそんなに気にしてんの? おれは今のままでいいって言ってんじゃん」
「うん、そう。そうなんだけどね」
「そんなに気に病むことがあるなら、出て行こうか、俺」
「イヤ」
陽多はキッチンまで駆けてきて、俺の左腕にしがみついた。
「ダメ。行かないで」
「陽多」
「僕は……光くんに嫌われるのが、怖くて」
陽多の声は震えていた。彼が闘っていた見えない敵は、大切なものを失うかもしれないという不安と恐怖だった。
「嫌われたくない。光くんに嫌われたくない」
「落ちつけよ、陽多」
「でも僕は、光くんにわがままばかり言って、頼りきりになってて。そんな風じゃ、いつか絶対に見放される。だから」
「わかった。もうわかったから、黙れ」
すがりつかれていた腕から陽多の手をほどき、光はその手をそっと握った。
「自覚しろって。相当疲れてるぞ、おまえ」
いたわるつもりが、少し口調がきつくなってしまったらしい。陽多はぐらりと瞳を揺らした。
「ほら、一緒に深呼吸しよう」
光は陽多と向かい合い、輪を作るように互いの両手をつなぐ。光が鼻から大きく息を吸い込むと、陽多も同じように息を吸い、二人同時に吐き出した。
同じことを三度くり返す間、光は目を閉じていた。瞑想する、とまではいかないが、心を無にしようとした。
目を開けると、陽多も目をつむっていた。きゅっと手に力を入れると、陽多はゆっくりとまぶたを上げた。
「おまえ、自分が言ったこと、忘れてるだろ」
「え?」
「俺たちは、家族だから」
陽多がなにかに気づいたような顔をした。光は大きくうなずいた。
「俺のことも、お母さんみたいに思えばいい。迷惑をかけて当たり前。受け止めてもらって当たり前。俺も、おまえにとってのそういう存在になれたらいいと思うし、そうありたい」
「光くん」
「そりゃあ沙知佳さんにはとうてい敵わないだろうけど、努力はする。おまえを不安にさせないように気をつける。だからおまえも、ここではおまえの好きなように生活しろ。わがままも言いたきゃ言え。おれもそうするし、二人にとって居心地のいい家を作れるようにがんばるから」
な? と念を押すように言うと、陽多は少しの迷いを残して首を縦に振った。
「ごめん。僕、余計なこと言った」
「気にすんな。疲れてりゃ誰でも情緒不安定になるよ」
陽多の肩をたたいてやると、陽多はめずらしくため息をついた。「ダメだね、僕」とつぶやいて、うつむく。
「顔洗ってこいよ。パスタ茹でといてやるから」
深めの鍋を取り出しながら言うと、陽多は「うん」と言ってリビングを出て行った。その背中は見送らず、光は黙って鍋に水を入れた。
陽多を不安にさせないように、なんて言いながら、不安になっているのはむしろ光のほうだった。
画面の中で輝く陽多を思い出す。陽多が家をあけている間、光はこっそり陽多の出演した映像作品を何本か見た。
かっこよかった。学園ラブコメのイケメン男子役も、女をたぶらかすホストの役も、殺人犯の息子役も。なにをやらせても、志波陽多はかっこよかった。画面の隅に佇んでいるだけで絵になった。
そんな陽多も一人の人間なのだと、一緒に暮らし始めて改めて実感した。家に帰れば、彼は世間には絶対に見せない弱い一面をさらけ出す。
それは光にしか見せない姿で、光の独占欲を刺激する。だが、このままではダメだとひどく不安にもなった。かっこいい志波陽多を作り出そうとすればするほど、陽多は少しずつ弱っていく。
鍋を火にかけ、ため息をついた。これから先、今日のような壊れかけた陽多をいったい何度目にするだろう。
父との電話で宣言したことを後悔し始めている自分がいた。
俺たちの関係は、本当にうまくいっているのだろうか。
俺たちはちゃんと、家族になれているだろうか。




