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蜜月ラプソディ  作者: 貴堂水樹
第二章 始まる、一つ屋根の下

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4.目を閉じて、抱き合って

 午後十時を回っても、陽多は帰ってこなかった。

 時計を確認してから、帰りが何時頃になるのか聞いていないことに思い至った。子どもの世話をするわけではないのだから待っていなくてもいいのだが、なんとなく、顔を見てから寝たいと思った。


 いずれにせよ、寝るにはまだ早いので、テレビでバラエティ番組を見ながらビールをちびちび飲んでいた。『顔面偏差値70超え』が謳い文句のボーイズアイドルが、中身もイケメンになるために人間力を磨く企画にチャレンジするという趣旨の番組で、なかなかおもしろい内容だった。

 ファンの女性に優しくできるかどうかとか、テレビ局の偉い人から嫌味を言われた時にどう対応するかとか、九人のアイドルたちの回答からそれぞれの人となりが浮き彫りになって、ともすればファンの数を左右しそうなスリルさえ感じた。


 時にハラハラしながら、光はテレビの中で輝く彼らの努力をあたたかく見守った。同時に、頭の片隅で陽多のことを考えた。

 陽多はアイドルではないが、彼ならこの企画でどんな評価を得るだろう。

 何人かのアイドルは「おまえ、それはないぞ!」と全方向からツッコミを受ける醜態をさらしていた。陽多がそうなるところは、光にはうまく想像できなかった。


 いつも笑顔で、気づかいができて、適度に甘えん坊。いいところばかりが目について、嫌な部分はまだ知らない。

 陽多の悪いところはどこだろう。完璧な人間などいないのだから、陽多にも欠点の一つくらいあるはずだ。


 そんなことを考えながらぼんやりと番組を視聴していると、開始から三十分が過ぎた頃、ようやく陽多が帰ってきた。


「ただいま」

「おかえり」


 お疲れ、と言い添えて、光はひょいと腰を上げた。キッチンに向かい、カレーの鍋を火にかけて、タッパーに入れておいたごはんを電子レンジで温める。


「遅かったな」


 テキパキと動きながら、リビングのソファにトートバッグを投げ出した陽多に声をかけた。


「いつもこんな感じなの?」

「うーん。日によるけど、撮影中は十時までに帰れることは少ないかも」

「そっか。大変だな」


 比べても仕方がないことだが、俺はずいぶん恵まれているんだなと光は思った。

 もらえる給料は陽多の足もとにも及ばないけれど、残業になる日はごくまれで、週二日の休みも確約されている。正月など、大学が休みの日は図書館も閉まる。そういう意味で、光の生活はおおむね世間一般と足並みをそろえている形だった。


 そんな光とは真逆の生活をしているのが陽多だ。一度作品制作の現場に呼ばれてしまえば休みがなくなることは当たり前で、何日も家に帰らないことも少なくないと沙知佳から聞いている。そうした日々を楽しんでいるのならいいが、たまにひどく疲れた顔をして帰ってくると、心配でたまらなくなるのだそうだ。


 それでも陽多は、振られた仕事を一切断らないのだという。

 ただでさえ埋まっているスケジュールにどうにか隙間を作ってもらって、寝る間も惜しんで芝居に打ち込む。ストイックという言葉を使えばカッコよく聞こえるが、それで沙知佳に不安を与えるようなら問題だ。仕事は時に、人を殺す道具になる。


 温まったごはんをレンジから取り出し、カレーの鍋を軽くかき混ぜてから火を止める。立川の佐竹家にはなかったオシャレな陶器のカレー皿を棚から出し、手早く盛りつけ、引き出しを開けてシルバーのスプーンを一本用意した。

 江戸切子の青いグラスに冷えた麦茶を注いでいると、いつの間にか背後に歩み寄っていた陽多が静かに腕を回してきた。


 陽多のからだが密着する。心臓が跳ねる。激しく音を立てて鳴る。

 体温が上がった。ドキドキして、呼吸が乱れる。


「バカ、こぼれるだろ」


 悪態をついてみたが、陽多が光を抱きしめた時にはグラスも麦茶のペットボトルもキッチンカウンターに下ろし、手を放していた。それをわかっているからか、陽多は黙ったまま光の髪をなで、鼻を近づけてにおいをかいだ。


「光くんのにおい」

「うん」

「今日一日、光くんのことばかり考えてた」

「うん」

「光くん」


 陽多が光の両肩に触れ、からだの向きを変えさせた。

 正面から向き合う。視線が交わる。

 陽多の微笑が、二人で暮らす白い部屋に溶けていく。


「会いたかったよ」

「うん」

「もう寝ちゃってるかと思った」

「まだ早いよ、さすがに」


 苦笑をこぼすと、陽多も「そっか」と短く言った。


 縮まりそうで縮まらない、透明なガラスの壁を一枚(へだ)てたくらいの距離。

 間近で見ると、陽多の肌のきめ細やかさに驚く。透き通るようにつややかで、思わず触れたくなってくる。

 手を伸ばし、右の親指で陽多の左頬をなでる。同じ男とは思えない、ゆで卵のような感触がした。


「きれい」


 頭で考えるよりも早く、言葉が口を衝いて出た。


「芸能人って、みんなこうなの?」

「さぁ、知らない」


 陽多は抑揚のない声でつまらなそうに答えた。


「どうでもいいじゃん、他の人のことなんて」


 今度は陽多が、光の左頬に手を触れた。

 美しい顔が近づく。静寂の中で、二つの唇が重なった。


 時間が止まったような気がした。

 驚いて見開いた目を、戸惑いながらも静かに閉じる。世界が色と音を失い、触れ合った部分に感じる熱だけがそこにはあった。


 熱い。陽多から伝わるぬくもりが全身を駆け巡る。

 嫌な気持ちはしなかった。なにがどうしてこんなことに。そう思う気持ちがないわけではない。

 けれど、しばらくこのままでいたいと願う心もまた、光の中に確かにあった。甘い毒に冒されたように徐々に痺れてきた唇は、陽多の熱を歓迎していた。


 陽多から離れる。風邪をひいて発熱した時のように潤んだ瞳で見上げると、陽多は目が眩むほど優美な微笑みを光に向けた。


「好きだよ、光くん」


 まっすぐ見つめられ、告げられる。降り注ぐひかりは太陽のようにまぶしくて、からだの内側に大きな熱が滞留していくのを感じ、戸惑う。


「バカ野郎」


 光はおぼつかない足取りで後ろへ下がり、陽多と少し距離を取った。クラクラして、上体がぐらついて、咄嗟にカウンターに手をついた。「大丈夫?」と陽多は光にもう一度歩み寄ろうとして、ためらい、視線を下げた。


「ごめん。迷惑だよね」

「違う」

「でも」

「違うって!」


 意味もなく声を張り上げた。陽多がひるむ。完全に光の逆ギレだった。


「そういうことじゃねぇんだって」


 気持ちを落ちつかせようと、息を大きく吸って、吐く。

 全然ダメだ。湧き上がる感情が治まらない。自分に対して、無性に腹が立っている。


「おまえだけじゃねぇんだよ」


 口を衝くままに、光は心の底にため込んでいる言葉と気持ちを吐き出した。


「俺も今日一日、おまえのことばっかり考えてた」

「光くんも?」

「あぁ、そうだよ。おかしいだろ。笑えよ」


 ぐちゃぐちゃに丸めた紙をゴミ箱に投げ入れるような言い方になった。陽多が笑うことはなく、黙って光を見つめている。


 なにに対して怒りを覚えているのか、だんだんわからなくなってきた。

 脳裏に優茉の姿がちらつく。陽多の香水のにおいに気づき、光にカノジョができたわけじゃないことに安心していた彼女のことも、陽多のことと同じくらい考えた。

 でもたぶん、比重は陽多のほうが大きい。陽多に対する気持ちと、優茉に対する気持ちは、たとえば同じ「尊敬」という言葉で表すとしても、そのベクトルは全然違うほうを向いている。


「俺、ゲイじゃないのに。これまで一度も、男のことを好きになったことなんてない。なのに、どうして……。なんで俺、陽多のことばっかり……」


 怒りを通り越して、今度は哀しくなってきた。

 高校の時も、大学時代も、寄り添い、隣を歩いたのは女性だった。どちらも関係は二年と続かなかったけれど、いまだかつて、男を想ったことはない。


 それがどうして、今は陽多のことばかり考えてしまうのだろう。

 陽多が芸能人だから? 男でも惚れるくらいカッコいいから?

 陽多は一般人じゃない。特別な男だから、俺は――。


「光くん」


 うつむく光の右手を、陽多の両手がすくい上げた。


「僕のこと、好き?」


 うまく言えない光に代わって、陽多が先を促してくれる。

 吐息が震えた。胸が張り裂けそうなくらい痛む。


 好きか、嫌いか。そう問われれば、答えは百パーセント「好き」だ。

 だけど――。


「理由なんて、いらないんじゃない?」

「え?」


 優しくかけられた声に、光はそっと顔を上げた。


「僕も初恋の人は女性だったよ。小学生の頃の話だけどね。でも、僕は光くんのことが好き。性別云々(うんぬん)じゃなくて、光くんだから、好きになれたんだと思う」


 それがすべてなんだと、陽多は胸を張って言った。

 光が好き。男だから好きなのではなく、光だから、好き。


 陽多の真剣な眼差しは、どこまでも臆病な光に勇気のかけらを授けてくれた。

 陽多の目に、嘘はない。

 そう思わせてくれる、力強い輝きがそこにはあった。


「好きだよ、光くん」


 陽多は同じ言葉をくり返す。光は小さく「あぁ」と言った。


「俺も一緒。理由はよくわかんないけど、俺も、おまえが好き」


 優茉よりも、そばにいたい人。

 しいて理由を挙げるなら、それだろう。優茉の隣を歩く未来は、少なくとも今の光には想像できない。


 光の右手が、陽多の左頬を包む。ななめ下から攻めるように、光から陽多を求めにいった。

 唇が重なる。むさぼるように、互いが互いをもうとする。


 時折「ん……」と陽多の口から漏れる声は色気に満ち、誘っているのかと言いたくなる。けれど陽多は主導権を譲る気がないらしく、光の後頭部に左手を添え、飢えたけもののように、光の口内に舌をねじ込ませてきた。


 絡み合う熱は心地よく、独特の甘みを感じた。口腔を陽多の舌がうと、背筋がゾクリとあわ立った。

 気持ちいい。砂糖の溶け出した綿菓子に乗って空を泳いでいるような、ふわふわした気分になった。


 散々舐め回してから、陽多は光を解放した。


「光くん」

「ん」

「好き」

「ん」


 頭がさっぱり働いていなかった。ただただあたたかくて、心地よくて、途端に眠気が襲ってきた。まぶたが重い。


「やばい。今さら酒が回ってきた」


 突っ伏すように、光は陽多の胸に顔をうずめた。


「陽多」

「うん」

「好きだよ」

「ありがとう。僕も大好き」

「陽多ぁ」


 腰に腕を回し、ぎゅっと抱きつく。陽多は苦笑し、「もう寝なよ」と光の背中を支えて歩き出した。


「テーブルの上の缶ビール、中身まだ入ってる?」

「うん、半分くらい」

「もらっていい?」

「いいよ」

「光くんのことも、もらっていい?」

「いいよ」

「やった。じゃあ今日から、光くんは僕のものね」

「いいよ。好きにして」


 目が半分閉じていて、呂律ろれつも怪しくなってきた。完全に酔っ払いだ。陽多は「今度一緒にお酒飲もうね」と言って、光をリビングから追い出した。


「おやすみ」と微笑まれ、「おやすみ」と返したところまではかろうじて覚えていたが、翌朝目を覚ました光は、いつの間に二階の寝室へ上がったのか、リビングを出たあとの行動を少しも思い出せなかった。歯を磨いた記憶がない。

 ベッドの上で、陽多と交わしたキスの味を思い出す。あまりにリアルなその感触に、心臓が飛び跳ねた。


 夢を見たのかもしれないと思い、慌てて一階のリビングへと駆け込んだ。陽多の姿はそこになく、あったのはダイニングテーブルの上のメモ用紙一枚きりだった。


『カレー、おいしかったよ。また作ってね。

 光くんに「好き」って言ってもらえて、嬉しかったです』


 最後に「お仕事がんばってね」と添えられた、お世辞にもきれいとは言えない陽多の子どもっぽい字に、光は全身がかぁっと熱くなっていくのを止められなかった。


「俺、やっぱり……」


 伝えたんだ、陽多に。俺もおまえが好きだって。

 込み上げてきた熱い想いに身をゆだね、光は柔らかい笑みをこぼした。


「夢なわけねぇよな。こんなに好きなのに」


 陽多が好き。陽多のために尽くしたい。

 その想いが確かに胸の中にあることを、光は誇らしく思えた。

 ゲイかどうかなんて些細なことだ。陽多だから、好きになれた。それでいい。


 顔も見ないまま仕事に出かけていった陽多に、光は心の中でエールを贈った。

 今日は昨日よりも早く帰ってきてほしい。

 そう願うことも忘れなかった。

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