名を呼ぶ
「この子の首、ほら見て」
「筒、か……?」
そう、筒。と、トールは手に留まらせた鳥の羽をそっと持ち上げ、鳥の首元がティシェに見えるように角度を変える。
鳥の羽毛に埋もれ、小さな筒が提げられていた。
鳥は自ら胸を反らせ、トールは丁寧な動きでその筒から巻かれた紙を取り出す。どちらも慣れた動きだった。
筒から紙が取り出されると、鳥はまた自ら姿勢を戻す。
トールは「ありがと」と言って、その手を空に放る勢いで振り上げて、鳥はそのまま飛び立っていった。
ぱたたと羽ばたいて夜の空へと消えていく影を思わず見上げ、すぐにトールを見やる。
「い、いいのか?」
「大丈夫。この子達は賢いから、ちゃんと本隊に帰れるよ。どこが安全に帰れるルートかっていうのも知ってるし、状況に応じてルートを変更する知恵もある」
巻かれた紙を広げて中身を確認するトールに、ティシェは「そ、そうなのか」と言葉をもらしながら、ラッフィルを見つめた。
確かに同じ種の鳥であるラッフィルを普段から見ていれば、彼らがどれだけ賢いのかはわかる。
そういえばラッフィルも、この前のトールの療養で滞在した街においても、己の判断でアーリィへの状況報告をしていたなと思い出す。
あの件については、ティシェもトールもアーリィへ報告は頼んでいない。彼が己で必要だろうと判断しての行動である。アーリィが心配しているのであろうとの、他者の気持ちを察することと、そこを気遣うことができているのだ。
「すごいな、ラッフィル」
改めて、彼の賢さを痛感した気がした。
思わず呟けば、トールの肩に留まっていたラッフィルが飛び立ち、ティシェの肩に移る。
ピィ、といつもよりも高く鳴き、あたたかくてやわらかいものがティシェの頬に触れた。
それがラッフィルが身を寄せてきたからだとわかれば、くすぐったさに口元が緩んだ。くすぐったいけれども触れ心地は良くて、ティシェも頬を擦り寄せる。
「ラッフィル、褒められて嬉しかったんだね」
トールの声に、ピィッ、と元気に返事をし、また飛び立って彼の肩へと戻る。
頬に触れていたあたたかさがなくなり、少しだけさみしく名残惜しかった。
「……ところで、それは何かの連絡だったのか?」
ティシェがトールの手元に視線を向ければ、トールは、そうだよ、と紙をティシェの方へと広げて見せた。
紙に書かれていた文字を追う。
「申請は承認した。これより休暇とする――……って、休暇……?」
「うん、そう。休暇申請してたんだよね。で、本隊から承認された旨の連絡が今届いたとこ」
「答えを持っている、というのはこういう意味だったのか」
「だから、仕事の方は大丈夫なのかって質問の答えは、休暇中だから大丈夫だよ、になるのかな」
風の商人というのは、本隊から各々商人が商品を仕入れて売る、というのが全体の仕組みだ。
要するに、所属する商人一人一人が、一つの商店のような感じである。ゆえ、働こうが休もうがある意味自由なのだ。
「ほら、前にヨウさんと会ったでしょ。あの時にヨウさんを通じて本隊に休暇申請を出してたんだ」
いつの間にそんなことをしていたのか、とティシェが少しだけ記憶を思い返してみると、そういえばヨウの見送りには居合わせていなかったなと思い出す。
その時に話を通していたのかもしれない。
「その時一緒に、商品の在庫を返したり、一部買い取ったりもしたんだよ」
それでは、今夜食べた物も含め、これまでの旅で消費してきたものは、その際にトールが買い取ったものということか。
なればその分の、せめて自分が消費した分は――と、思案しかけた時、視線を感じて顔を上げた。
「……なんだ」
「なんだっていうか」
途端、トールの鳶色の瞳が半目になる。
そこに滲むのは呆れの色か。
「自分が食べたり使ったりした分は立て替えなきゃとか、何かで返さなきゃとか、そんなこと考えなくていいからね」
ティシェは少しだけ強く口を引き結んだ。
「なんでわかったって言いたそうだけど、わかるよ、それくらい」
ティシェは小さく口をへの字にした。
「一緒に旅をしてから、僕と君の財布は一部を共用にしたじゃん。個人的な出費以外はその財布から出してるから、買い取った時の支払いもその財布から出てる。――以上、言いたいことは?」
「…………ない」
「なら、よろしい」
トールは満足げに息をもらした。
「そういえば、私とトールはもう、この場で終わる関係、というものではなかったな」
「……そうだよ。僕とティシェは、そーいう仲、じゃん?」
初めて出会った際に、トールが口にした『この場で終わる関係』を引っ張りだすと、トールはこの間のティシェが口にした『そーいう仲』を引っ張ってきた。
だがトールは、ふいと目を逸らす。その頬がほんのり色付く。
「……自分で言って自分で照れるなよなぁ」
手の甲で口元を隠す彼に、ティシェはいつもと変わらぬ調子で呼びかける。
「――なあ、トール」
「……照れてるのが僕だけなの、なんか悔しい。……で、なに?」
「あ、いや……商人の仕事を休んで、大丈夫なのかと思ってな。体裁とかあるんだろ?」
「あ、ああ……それは、うん、問題ないよ。そもそも風の商人に入ったのも、こっちの世界について知るのが目的だったし」
トールは肩をすくめて苦笑する。
「移民としてなら、いろいろ知らなくても仕方ないねって思ってくれたからさ」
「……そうか」
返答以上の言葉は出なかった。できなかった。
トールがこちらへ来てしまった要因。その一つをつくったのは自分だ。そう思うと、辛かったな、頑張ったな、と軽々しく口にすることはできなかった。
いつでも奥底で燻る、自責が絡むその気持ち。ふう、と追い出すようにそっと息を吐き出した。
それからは互いに言葉はなく、ただぼんやりと熾火を見守るだけだった。
森に響く虫の声だけが沈黙を埋めていく。
だが、次第にその声も少しだけ重く感じ始めた。
耐えかねたのか、トールが火かき棒を手にしてまきをいじり始める。まきはいじられる度に崩れ、火の粉が舞う。
それを風が時折、いたずらに巻き上げていった。
焚火に照らされるトールの顔を覗き見る。ゆらゆらと揺れる陰影のせいか、彼がどこかさみしそうに見えて、ティシェは自然と口を開いていた。
「……私に何か、できることはあるか?」
夜の静けさを壊さぬようにそっと問えば、トールがゆっくりと顔を上げた。
「どうしたの、急に?」
瞬く鳶色の瞳に、熾火の赤い光が映る。
「なんだかトールがさみしそうに見えたから」
息を詰めたように、鳶色の瞳が瞠った。
そして、困ったようにくしゃりと笑う。
「そう見えた?」
「見えた。影のせいもあるかもしれないが」
「ああ、熾火か」
トールは火かき棒でまきを崩した。
彼は崩れて舞う火の粉を視線で追いかけながら、やおら口を開く。
「矛盾してるな、とは思うんだよ。こっちに居たいからこっで生きてくって決めたし、今でもそれは変わらないのに、たまにさみしくなる時がある」
トールはティシェを見て、そっとその感情を口の端にのせて持ち上げる。さみしそうな笑みだった。
「ここに居る僕は『トール』で、僕が『透』だったことなんて誰も知らない。それがたまに、さみしくなるんだ。いつか僕の中からも薄れて消えていっちゃうみたいで。ほら、記憶ってどうしても薄れていくものだから」
「……名の音が、違う?」
素直に感じたことをティシェが呟けば、トールは、そうなんだよね、と先程の笑みを引っ込めて首を傾げた。
「僕の感覚としては、あっちとこっちとで言葉に違いはないと思うんだけどね。読み書きもとくに違わないし、しいて言えば単語とか、言葉の使い方が違う……のかな? でもそれも、現代ぽくないってだけで、違いっていうのもまた違うのか」
こっちではあんまりない響きみたいだし、文字の並び的に発音が苦手な類になるのかも。
などとひとりごちるトールを見つめ、ティシェは「すまない」と詫びの言葉を口にする。
鳶色の瞳がぱたりと瞬き、トールが顔を上げた。
「なんで謝るの? 謝る理由なくない?」
「『トール』はなまった呼び方だった」
「なまってるなんて思ってないよ」
苦笑してそのまま受け入れているトールに、ティシェは真剣な顔をして首を横に振る。
「だが、名は正しく呼ぶべきだ。名は個を形つくるものなんだから」
「なんか小難しいこと言ってる……」
「それにトールの名なのだから、きちんと私が呼びたい」
鳶色の瞳をぱちくりさせるトールを横目にしながら、ティシェはもごもごと口の中で繰り返す。
「トール」
「……透」
間に、お手本のようにトールの声が挟まる。
「トーォル」
「透」
「とーる」
「近いかな、透」
「とおる」
今の響きは良かった気がする。
次は慎重に。
「――……透」
言えた、気がした。
「透」
今度ははっきりと告げ、顔を上げる。
けれども、ティシェはトールの顔を見て息を詰めた。
最初は呆けていたトールの顔が、次第に崩れて笑っていくから。
その笑い顔は本当に嬉しそうで、それでいて幼くて。まるでお菓子をもらった子供みたいに見えた。
ティシェの胸が跳ねる。
「……いいね、人からちゃんと呼ばれるっていうのは。ティシェの言った通りだ」
ふふふ、とくすぐったそうにトールが笑う。
「また、透、と呼んでもいい……?」
え、とトールがティシェを見て鳶色の色を瞬かせた。
「誰が知らなくとも、私が知っている。お前が忘れても、私が覚えている」
ぱちっと焚火の音がする。
鳶色の瞳がふいにきゅっと細められ、視線が落ちた。
「ずるいなぁ、もう」
落ちていた視線が持ち上がる。
「そういうの、どきつくんだけど、ティー」
くしゃりと笑ったトールが名を紡ぐ。
いつか冗談交じりにティシェが告げた、彼女の愛称。
ティシェは視線を逸らした。それはまるで、熱いものに手で触れてしまった際に、さっとそれから手を離すみたいに。
頬に熱が集まっていく気がした。跳ねていた胸が、少しだけうるさい。
「……確かに、どきつくな」
同意する言葉に、トールがははっと声を出して笑った。
でしょ、と笑う声に、ティシェも頬を緩めて、そうだな、と笑った。




