少女と竜は星を追う
街をぐるりと囲う外壁を背にして、ティシェは空を見上げる。頬を撫でる湿り気を帯びた風が気持ちよく、目を細めた。
降り注ぐ日差しは暑いが晴れた空は清々しく、ほどよく空に浮かぶ雲が風に流されていく。
ピルルゥ――。隣に並ぶグローシャが、同じように空を見上げて心地よさげに声をもらす。
すでに彼女の背には鞍と荷が積まれ、いつでも出発ができる状態だ。
さわぁ、と周囲の草花が風に揺れた。
「旅立ち日和だな」
一人呟けば、側でトールが「だね」と同意の声を出す。
トールの準備もそろそろ終わる頃だろうかとティシェが見やれば、ちょうど彼はアーリィの鞍に、よっこらせ、と最後の荷を積んだところだった。
「よしっと。アーリィ、また今日からよろしく」
トールがアーリィの首を撫でる。
アーリィは久々に感ずる背の重みに気合は十分なようで、まかせなさい、と言わんばかりに鼻を鳴らした。
その姿はどこか誇らしげで嬉しそうで、トールも思わず笑みをもらした。
そして、さて、とトールがティシェの方へ身体を向ける。
「僕の方も準備完了だよ」
ね、とトールがアーリィと、その彼女の角に留まるラッフィルを見やる。
アーリィはフルッと短な返事で応え、ラッフィルはピィイと元気に返した。
「私達もいつでも大丈夫だ」
その言葉に応じるように、グローシャがティシェの隣に並び立つ。
そして、その隣にとしとしと軽い足音で並び立つ竜がいた。
カロンだ。やる気いっぱいという感じに、皮膜ある前足をばたばたとさせる彼に、ティシェは少し屈んでカロンとの目線を近づける。
抱き上げるにはもう大きく、けれども、抱き寄せられるくらいにはまだ小さい。
カロンがティシェを見上げた。その眼差しは、いつの間にか子供特有の可愛さは抜け、竜の強さをはらむ凛々しさを持ち始めている。
「無理はするなよ」
少しずつ変化は起こっているもので、彼が自分も飛んでみたいと言い始めたのも、その変化の一つ。成長の一貫だろう。
竜の中ではなく、人の中で育っていく彼が、どのような過程で成長していくのはわからないが、大人の庇護から出ようとしている兆しなのかもしれない。
少しだけさみしさを抱きながら、カロンの頭を一つ撫でる。彼は嬉しそうにカロロと小さく声をもらした。
思いっきり甘えることはなくなったけれども、こうした懐っこいところは変わらない。
そこはまだ変わらないでいてと思うのは、ティシェのわがままだろうか。
一つ瞑目してから立ち上がると、びゅおっと一つ強く風が吹いた。まるで空へと誘うように、草花を絡め取って空へと巻き上げる。
風に誘われるまま空へと視線を投げて。
「行くか」
「行こうか」
ティシェとトール、二人の声が重なった。空へと駆けた風が合図だったかのように。
二人は顔を見合わせ、ぱちりと互いに瞳を瞬かせたあと、ふっと表情を緩めて笑い合う。と。
「――間に合ったっ!」
そこへ一つの声が飛び込んだ。
声がした関所の方を振り返ると、何かを抱えて駆け寄ってくるケイトの姿が見え、思わず瞳を瞬かせる。
すでにケイトとの別れは、仕事があるからという彼女を気遣って、家を出る際に済ませていたはず。
二人の前で足を止めたケイトは、上がる息を整えつつ、抱えていたそれを差し出した。
「これ、小腹空いたら食べな。今の季節だと腹を壊しちまうから少量で申し訳ないけど」
差し出されたのは、大きな葉に包まれた小さな包み。ふわりと甘さが香る。
薄く香ったそれは、爽やかさをまとった甘さの中に、どこかスパイシーさもある独特な香りだった。
どうにも食欲を刺激されそうなそれだ。
これは、と視線でケイトに問えば、彼女は少しだけ包みの葉をめくる。
ふわっと、ほんの少しだけ強く香ったそれに、竜達が鼻をすんすんと鳴らした。
「油を引いて、ハーブと一緒に少し炒ってみたスライスパンさね。香り焼きをしただけだからね、味付けも何もされてないパンだけど、風味はあるから案外いいもんだよ」
包みを戻したケイトは、ほれ、とティシェとトールにそれぞれ包みを押し付けるように手渡す。
早速グローシャが、ティシェが受け取った包みに鼻先を寄せた。すんっと鼻から香りを吸い込んだのち、くわっと口を開く。
「こら、早速食うやつがあるか」
包みをグローシャから離せば、開いた口は空を噛み、彼女は不満げな声をもらす。だが、それ以上を追うことはしなかった。
「食い意地が張ってるのはお前だけだぞ」
ちらりとトール達の方へ視線を投げる。
アーリィはトールの頭に顎を乗せ、ふんふんと香りを楽しんでいる様子だ。
カロンだって、鼻先を向けてすんすんと鼻を鳴らしているだけだ。
グローシャは橙の瞳を不機嫌そうに細め、体内の灯を淡く明滅させた。
「あとでな」
なぐさめるようにグローシャを一撫でし、ティシェはグローシャの背に積んだ荷の中に詰めると、ケイトを振り返った。
「ありがとう。有り難く道中でいただこう」
「でも、お店の方は大丈夫なんですか?」
トールの問いに、ケイトは「それなら問題ないさね」と笑う。
「ちょうどご近所さんが通りかかったからね。店番をまかせてきたから問題ないさね」
快活に笑うケイトに、トールは一度ぱちりと瞳を瞬かせたあと、一泊遅れて苦笑を浮かべた。
そのご近所さんの戸惑いが思い浮かぶ。
「やっぱり、見送りは最後までしたいと思ってね」
笑ったままのケイトの声に湿り気が帯びた。
「誰かと過ごすのは久々で……あたしの方こそ、ありがとうだよ」
ケイトの腕がティシェとトールへと伸び、二人の肩に回されたかと思えば、そのまま引き寄せられる。
「楽しかったよ、本当に」
湿り気を帯びた声。きゅっと、回された腕に力が込められた。
その腕に触れ、ティシェも彼女の方へと頭を寄せた。
「……私も、誰かと同じ屋根の下で過ごすのは久々で、あったかいものなんだと思い出せた気がする」
「僕も、かな。誰かと暮らすっていうのは、こういうものだったなあって、懐かしかったです」
ケイトの腕がさらに二人を引き寄せる。
「また立ち寄った時には、あたしのとこに顔を出しとくれよ」
また――との言葉に、ティシェとトールはぴくりと小さく反応した。
その言葉は、次を、未来を示す言葉だ。
いつかの時、ティシェはトールに言った。未来を約束するのは嫌いだ、と。自分にも相手にも、その次があるのかどうかはわからないから。
そしてトールも言った。わかる気がする、と。
ティシェとトールは互いにちらりと見やる。
確かに今も好きではない。けれども、たまには一つの縁を繋いでみるのも、悪くはないのかもしれない。
「――ああ、また」
「――はい、また」
未来を示す言葉を。
皮膜と翼を打つ音が耳朶に大きく響く。
髪を収めた飛行帽がきちんと顎下で留まっていることを確認し、ゴーグル越しに眼下を見やる。
ケイトの姿はもう豆粒みたいに小さくなっていた。それでも彼女が、大きく手を振り上げていてくれているのはわかって、ティシェは足でグローシャへ合図を送る。
グローシャが一際強く皮膜持つ前足を打ち付けた。ぐんっと急上昇する。その後をアーリィが続き、少し遅れてカロンが続く。
竜三頭がぐるりと円を描いて飛んだのを別れの最後にし、一気に速度を上げたのだった。
街が見えなくなってからしばらく、ティシェはちらりと横を見やる。
グローシャにやや遅れる形であるも、カロンが並行して飛んでいる。
ティシェと目が合った彼が、カロと弾む声を上げて、その場でくるりと横捻りを加えて飛んでみせた。
余裕ある飛びっぷりだ。ティシェは小さく口の端を持ち上げて、前へと視線を戻す。
無理をしているようならば、影に潜むように促そうと思っていたのだが、杞憂だったようだ。
同じくカロンを見ていたグローシャも、やわく橙の瞳を細めて視線を前へと戻した。
「――ねぇ、ところでティシェ」
トールを乗せたアーリィがグローシャに並ぶ。
彼の懐からはラッフィルが顔を出していた。
「ん、なんだ」
「あのさ、今更ではあるんだけど、一つ聞いてもいいかな」
ばさり。竜達の羽ばたきの音が響く。
「……ケイトさんに、どう言って部屋を用意してもらったの?」
そこでティシェはトールを見やる。
話の内容が全く見えなく、小さく顔をしかめた。
飛行帽やゴーグル越しでよく見えないのに、トールは敏感にティシェの変化を感じ取る。
彼は言いづらそうに少しだけ言い淀み、けれどもティシェの顔を見て口を開く。
その頬が少しだけ色付いて見えたのは、ティシェの気のせいだったろうか。
「……いやだって、ずっと二人で同じ部屋で寝泊まりしてたじゃん。ていうか、そのことについてケイトさんに何も言われてないの、今更ながらになんか……」
「何を言いたいのかはわからないが、部屋を用意してくれると言われたから、一部屋でいいと言っただけだが?」
ティシェは小さく首を傾げた。
「何を気にしてる?」
「何って、まあ、その……そう、その時にさ……」
トールがまごつく。視線が少しだけ忙しなく動いている。
が、アーリィはさっさと言葉にしろとばかりに、わざとらしく翼を強く打った。
わっ、と彼から声が上がり、姿勢を少し崩す。ラッフィルが慌てて顔を引っ込めた。
もぉと呻きつつ姿勢を戻し、トールは逸らしがちにティシェを見る。
「そう、その時にケイトさんは何も言わなかった? いくら旅仲間とは言っても、部屋に余裕があれば分けるものな気がするんだけど。いや、そもそもそれを当たり前に感じて、今になって、そういえばって思い至る僕もどうかと思うけどさ……」
だって、トールとティシェとでは明らかに違うものがあるから。
この場でそれを口にするのは、気恥ずかしさが先立ってできないのだけれども。
口を緩く結びながら、トールはゆっくりとティシェを見た。
対してティシェは、変わらぬ常の表情でいつもように答える。
「私は分ける必要性を感じなかったからな、だから一部屋でいいと言った。普段から野営する際も一緒なのだから、私とお前は気にしない仲だとケイトに言えば、そーいう仲なのかと納得した様子だったぞ」
さらりと答えれば、トールはほんのり色付いていた頬を今度はしっかりと熟れさせた。
「…………たしかにそーいう仲かもだけど、そーいう仲じゃないじゃんっ!」
トールが身を乗り出し、思わずといった様子で叫ぶ。
ティシェは騎乗中に身を乗り出すのは危ないぞ、と口にしようとしたが、その前にアーリィがわざと身体を揺らしてトールの姿勢を正させる。
トールは口をへの字にして姿勢を正したが、すぐに足でアーリィへ合図を送った。アーリィはそれに従い、飛ぶ速度を上げてグローシャの先を行ってしまう。
「トール?」
突然の彼の行動にティシェは首を傾げた。
けれども彼の行動はそれきりであり、何度かその背に声を張って呼びかけてみたが、振り返ることはなかった。
「なんだ、あれは」
ぽつりと呟けば、グローシャが顔だけで振り向いた。けれども、何も言わぬままに軽く嘆息して前を向く。
「なんだ、お前まで」
竜がどこまで人の感情の機微を感じ取れるのかはわからないが、わりと敏感に感じ取れているのだろうなとは、付き合いが長ければわかってくる。
皮膜を打つ音がした。カロンはどこか嬉しそうで楽しそうで、アーリィを追いかけるためにグローシャを抜いて行く。
グローシャも遅れぬようにと、飛ぶ速度を少しだけ上げた。
ティシェはその竜の背で言葉をこぼす。
「私はお前を大事にしたくて、お前も私を大事にしてくれるんだろ? ならばそれは、そーいう仲だろうに」
なにを当たり前のことを、と。ティシェにはやはり、何を気にしているのかはわからなかった。
そーいう仲だが、そーいう仲ではない。けれどもやっぱり、ティシェとトールはそーいう仲だ。
まだこの関係がどこに行き着くのかはわからないが、今はそれだけで十分だ。
口の端をやわく持ち上げ、小さく笑った。
ばさりと羽ばたく音を空に響かせ、三頭の竜は二人を乗せて空を駆けていく。
これは、旅と旅の間に紡がれた休息のひとこま――旅の一頁である。そして、星を追う旅のはじまりである。




