もう大丈夫
◇ ◆ ◇
ばさりと羽ばたく動きで解る。今日のグローシャは機嫌がいい、と。
ティシェはゴーグルの奥で蒼の瞳をやわらげた。
きっちりと被った飛行帽にゴーグル。飛行姿のティシェを背に乗せ、グローシャは夏の日差しが溢れる夏空の中、軽々と身体を捻って泳ぐように飛んで見せる。
今日の鞍に荷はないため、いつもよりも機動よく飛べるのが気持ちいいのだ。
グローシャが飛行姿勢を正すと、ティシェは角に添えていた片手を放して彼女の身体を軽く叩く。
「こうして、ただ飛ぶだけなのは久々だな」
そう声をかけて返ってきた、ピッルルゥ、の声は弾んだ明るい声音だった。
口の端をわずかに持ち上げて笑うと、ティシェは視線を横に流した。
ばさりと、グローシャのものより少し軽い羽ばたきの音。
ティシェの視線に気付いたカロンが、ちゃんと付いて来られているぞと皮膜ある前足を一つ打った。
グローシャがカロンを一瞥する。少しだけ速度を緩めてカロンと並ぶと、ピルッ、と挑発的に鳴く。
その気持ちを察したティシェが姿勢を低くし、しっかりと角に手を添えたのを合図に、グローシャが力強く皮膜ある前足を打った。
ぐんっと一気に加速した風圧がティシェを襲い、顔を下向かせる。
カロンは一瞬きょとりと呆気にとられるも、紅の瞳に強気な色を滲ませると、後を追うように皮膜ある前足を強く打った。
すぐにグローシャに追いつく。そして二頭は並ぶようにして、時に競うようにして徐々に高度を上げていく。
トールは小さくなっていく二頭の竜を見上げていたが、陽の眩しさに負けて見送るのを諦めた。
飛行帽にゴーグルと、飛行姿のトールを背に乗せたアーリィが一つ翼を打つ。
その隣を、ラッフィルが飾り羽をなびかせて並行飛びをする。
競うあちらに対して、こちらはゆったりとしたものだ。
病み上がりのトールを気づかっているのもあるのだろうが、隣に並ぶラッフィルに合わせてアーリィが速度を落としている。
「久々の空はどう?」
ラッフィルに問えば、小さな身体の彼から、ピィッ、と大きく元気な声が返された。
くるりと身体を捻って旋回する。
ラッフィルはトールが疲労による発熱で寝込んでいる間、ずっと傍に付き添ってくれていた。
その間、殆どは部屋に閉じこもりっきりだったゆえに、こうして空を駆けるのは久々だったろう。
日中に時折、隙をみつけては外へと出かけていたのは知っているが、それもトールの様子をアーリィに伝えるためだったのも知っている。
ティシェが請け負った仕事から街に戻り、竜達と街外で別れたあとに、ラッフィルが飛び立っていく姿をトールもティシェも見ている。
あの夜、あの場に満ちていたものにあてられて発熱したトールだが、街の医者に診ていただいた結果は疲労だろうということだ。
旅の疲れだねと医者もケイトも言っていたが、要因はあの夜のあの場に満ちていたものだろう。
それが何なのか――。
――フルッ。
思考の海に浸りそうになっていたところに、突き上げるようなアーリィの声で一気に引き上げられる。
ちらりと視線を向ければ、天色の瞳がトールを見ていた。そこに気づかう色を認める。
「ごめん。また考え事してた」
じぃと見つめてくる天色の瞳に、横からも小さな視線が突き刺さる。
「うん、ごめん。今日は、もう大丈夫だよ、を伝えるつもりだったのにね。心配させてたらだめだよね」
よしっ、と。
トールは一つ、アーリィの身体を優しく叩いた。
そして、天色の瞳ににやりと子供じみた笑顔を向ける。
「ティシェ達、追いかける――?」
天色の瞳が大きく見開かれた。だがすぐに、胡乱なものに変わる。
本当か、とアーリィに問われ、トールは返事の代わりにつなぎの懐に少しだけ隙間をつくる。
賢いラッフィルはそれだけで意図を察してくれ、慣れた動きでトールの懐に潜り込んだ。
くるくると動き、懐の中で居心地のいい場所をみつけると、ひょこりと顔だけを出す。
それを合図に、トールは姿勢を低くしてアーリィの角に手を添えた。
「大丈夫」
その一言で、アーリィは強く翼を打った。
始めは速度を少し上げる程度。ちらりと背を見やり、トールの表情に余裕があることを確認すれば、また一つ速度を上げた。
「一気に行ってどうぞ」
トールがアーリィの顔近くでささやけば、フルッ、と少しだけ不機嫌に呻いて、彼女は今度こそ平行に飛んでいたそれに角度をつける。
徐々に上がる角度に、トールはさらにアーリィへ身体を寄せて身を低くする。
強く打つ翼の音を耳にしつつ、懐に目を向けた。
顔を出していたラッフィルが、風圧に耐えられずに中に引っ込む。
いけるよ、の合図として、足でアーリィの腹を軽く突けば、彼女はぐんっと速度を上げた。もうそれに遠慮はない。
一気に増した速度に、途中で何かを追い越した。
背後に視線を投じれば、後方に小さくなっていくグローシャとカロンが見える。
「なんだ、追い越しちゃったんだ」
ははっと小さく笑い声をもらせば、ふんっと大きく鼻を鳴らしたアーリィが、強く翼を打って応えた。
*
「少し遠出をしてよかったな」
鞍や飛行着を関所に預けてそこを抜けた、ケイトの家への帰り道。
ティシェの声がいつもよりも少しだけ弾んでいた。
その理由は彼女の抱える籠にある。
「普段はきっと、森の奥の方には街の人達もいかないだろうしね」
「ああ、群生地になっていたからな」
常は乏しい顔のティシェだが、今はそこに少しだけ喜色が浮かんでやわらかい。
その横顔を見やり、肩にラッフィルを乗せて隣を歩くトールもまたやわく笑った。
夕暮れの橙色に染まる大通りは、家路につく者の姿がちらほらとある。
時折すれ違う街人が、珍しそうにティシェの抱える籠を盗み見ていく。
籠いっぱいのきのこや野草だ。
「いくつかは干しちゃおうか。日持ちするから旅の食料にもなるし、薬草にもなる」
「残りはケイトへの土産だ」
二人で話しながら通りを歩けば、ケイトの家まではあっという間だった。
ただいまとポーチを抜けて玄関の戸を潜れば、炊事場から顔を覗かせたケイトが目を丸くする。
「それ、どうしたんだい」
「竜との飛行で森の奥まで行ってな」
「そしたら、きのことか野草とかいっぱい採れちゃった」
ティシェは玄関わきに籠を置くと、敷布を広げて採ってきたものを籠から取り出していく。
炊事場から出て来たケイトが、ティシェの仕分け作業を後ろから覗き込む。
「街の連中は森の奥までは滅多に採りに行かないからねぇ、そりゃ、手付かずのとこもあるだろうさね。そんで、こんなに採ってきてどうすんだい?」
「いくつかは干そうかなって思ってます」
「ああ、干せば日持ちするからね」
トールに、なるほどねぇ、とケイトが頷く。
「残りは土産だ」
仕分け作業を終えたティシェが敷布をまとめ、ケイトへと差し出した。
え、とまたもや目を丸くしたケイトだったが、それはすぐに嬉しそうなものへと変わる。
「ありがとねぇ、早速夕食に使わせてもらうよ」
ティシェから敷布を受け取り、ケイトは炊事場へと戻っていく。
が、その前に振り返った彼女は、ティシェとトールの二人を頭からつま先まで見やって苦笑した。
「さあ、あたしは夕食を作っちまうから、その間にあんたらは風呂屋に行ってきな」
土まみれだよ、とケイトは今度こそ炊事場に戻っていく。
ティシェとトールは互いに互いを見やり、なんとも言えない顔をした。
確かに顔に服にと土まみれである。所々、植物の葉や種子のようなものまでくっつけている。これではまるで、やんちゃをしてきた子供だ。
「風呂屋の途中で洗濯屋にも寄らないといけないね」
自分を見下ろしたトールは渋い顔だ。
ティシェも同じく己を見下ろす。
「洗濯屋はまだ開いてる時間帯だったろうか……?」
ゆっくりと二人は互いの顔を見合わせ――泊まりに借りている部屋へと駆け出した。
トールの肩に留まっていたラッフィルは、ばたばた騒ぎに巻き込まれぬようにと、さっさと飛び立って近くの棚上に降りていた。
さすがに汚れた衣服のままで風呂屋に行くの気が引ける。ゆえに着替えはすべきだが、洗濯屋に駆け込みもしたい。
ならばもう、急ぐしかあるまい。
廊下の騒ぎにケイトが炊事場から顔を出す。騒がしい足音響く廊下を覗きながら、楽しそうに肩を揺すって小さく笑った。
「駆け込みは迷惑になるから明日にしなさい、って言うべきかねぇ」
棚上のラッフィルと顔を見合わせる。
彼は意味をわかっているのかいないのか、ピィ、と一つ鳴いた。
これではまるで、子供をたしなめる親のような言葉だ。
そんな心境は随分と久しぶりで、ケイトは懐かしさにやわく目を細めて、指の背でラッフィルを撫でるのだった。




