対の痕、願いの目印
あたたかみが消えたその瞳は、どこか仄かな怒りをはらませているようにも見えて、一瞬怯んでしまう。
怖気づいたのか、いっそ怯えにも似たそれを、目元から離れていく指先を咄嗟に掴むことによって、なんとか抑え込んだ。
ティシェの手から濡れた布が滑り落ちた。
とさっ、と地に落ちる音でさえ、やけに大きく響いて聴こえる。
掴んだトールの指先を引き寄せ、彼の手を縋るように掴む。
ティシェに掴まれたその手は弱々しくて、トールは息を詰まらせたように吐息をこぼした。
鳶色の瞳がティシェを見やり、彼女の蒼の瞳が揺れていることに気付く。
トールも咄嗟にティシェの手を握り返した。包み込むように握ってやれば、蒼の瞳が緩んだのがわかった。
いつかの夜を思い出す。あの時はティシェがトールを支えてくれた。ぬくもりをくれた。
ならば、それを返すのは今なのかもしれない――と考え、すぐに否と首を振る。
「……返すとか、そんなんじゃないよね」
トールの呟きに、ティシェが不安げに彼を見やった。
空いているもう片方のトールの手が、ティシェの頬に触れ、優しく指先で擦る。
「ティシェの考え、ゆっくりでいいから聞かせて」
ティシェを見下ろす鳶色の瞳に、ぬくもりが灯る。
風が梢を揺らし、瞬く蒼の瞳の中で木漏れ日が踊り映った。
優しい響きをはらませた声と、瞳に灯ったぬくもり。
安堵にも似たそれ――実際に安堵なのだろう――が、胸中に広がる。優しく目頭が痛み始め、視界が滲む。
衝動を飲み込むため、ティシェは重ねた手を見下ろした。
けれども、頬に触れる彼の指先が目元を擦り、溢れかけたそれを拭ってくれた。
「――トールには、痕があるだろう。前にそう言っていた」
もはや泣き腫らした目はそのままに、ティシェは空いている片方の手を、そっとトールの右胸、その上へと添えた。
緊張したのか、彼が身体を強張らせたのが服越しに伝わる。
少しだけ頬が染まっているのはどうしてか。
「た、確かにあるけど、それが何か……?」
やんわりとティシェの手を引き剥がしながら、トールはティシェの真意を掴むため、眉根を寄せて彼女を見つめた。
ティシェも自分の手を胸元、左胸の上辺りに添えて見つめ返す。
「私もここに、痕がある。願星の竜に起因するものだ」
寄せられていたトールの眉根がさらに深くなり、彼は真剣みを帯びた声で問い返した。
「どういうこと?」
「トールのそれも、願星の竜に起因するものなんだろ」
「……そうだけど。なんか、やたら確信を持った言い方をするね」
「確信があって言っているからな」
ティシェにしては珍しく、口の端に自虐的な笑みを乗せる。
が、トールは不機嫌そうに口元を歪めると、空いている方の手でティシェの頬を摘んだ。
「そういう顔はなし」
「そういう顔とは……」
「自分が悪いですって顔。そういうの、僕は嫌いだよ」
嫌いだよ――その言葉がティシェに深く刺さり、刹那的に感情を膨れ上がらせる。
不機嫌に揺らいでいる鳶色の瞳を、ティシェはくっと瞳を歪めて睨み上げた。
「そう思うものだろう。トールのその痕は目印なのだから」
頬を摘むトールの手を払い、ティシェは尚も叫ぶ。
「私の願いは、私一人では成せないものだ。相手があってはじめて叶う願う――だから、願ってはいけない願いだったんだ!」
トールを睨む蒼の瞳が歪み、そこからぽろと涙が溢れて零れ落ちた。
「かの竜が言ったんだ。目印として対の痕を付ける、と」
「……待ってよ。その痕って――」
なに、とトールが問う前にティシェが切り込んだ。
「佇む竜の姿にも似た痕だ。トールのそれも、そうなんだろ?」
「……っなんで、知ってっ――」
絶句。その一言に尽きるだろう衝撃に、トールはその先の言葉を紡げなかった。
そんな彼へ、ティシェはせせら笑う。
「な? 私のせいだろう」
握られていた手を引き抜く――前に、トールによって強く掴まれた。
トールの立ち直りは早かった。衝撃よりも、別の感情の方が勝ったから。
「――離せっ」
拒を見せるティシェに、トールは唇を強く噛んだ。
「やだよっ。そんでもって、全部自分のせいだなんて言うなっ。全部が全部ティシェのせいにされてたまるかよっ」
いつになく口調も声も荒げるトールに、ティシェは驚いて彼を見上げる。
きつく睨むようにティシェを見やるトールの顔は、常の彼からは感じられない、刺々しい気配をまとっていた。
「なんとなく、ティシェの言いたいことはわかった。たぶんそうなんだろうなって、僕も納得できる部分もあったし、きっかけはティシェのその願いだったのかもしれない。それでも、こうなってしまったのは僕のせい。僕の自己責任。僕が感じてきたもの、痛み、それ全部は僕のものだ」
まくしたてるように一気に言葉を口にしたトールは、そこで一つ息を吸う。
そして、今度はティシェの瞳を真っ直ぐ見て口を開いた。
「僕のそれまでをも自分のせいだって言うのは、ある意味で傲慢だよ。……僕の言ってること、わかる?」
蒼の瞳が瞬けば、涙が溢れ落ちる。
トールが怒っていた理由が、ティシェにもやっとわかった。
むぐと口を引き結びつつも、うん、と弱々しく頷いて顔を俯かせれば、涙は零れ落ちる。
掴まれたトールの手の甲に、熱を持ったそれが落ちた。
そこまで言われてしまえば、もうティシェに言えることはなくなってしまう。
「…………ごめん、なさい」
そっと落とされたティシェの呟きに、トールは「僕もごめんね」と小さく返し、肩口へ頭を引き寄せ、優しく撫でてくれた。
まだ燻ってざらつく想いはあるも、それを落ち着かせるように目を閉じ、身を委ねる。
トールの呼吸の音に合わせるように呼吸をしていく。
それから暫く――ようやく空気が緩み始めた。
竜達は二人の話にきりがついたのを察し、やっと終わったかと言わんばかりに動き出し始める。
グローシャは身を起こして伸びをし、アーリィに至っては大きなあくびを遠慮なくする。
「……アーリィ、退屈してた?」
ティシェの頭を引き寄せたまま、トールが半目でアーリィを見やる。アーリィはその大きなあくびをしたままトールの方を向き――その息が思いっきり彼の顔にかかった。
「竜臭……」
竜の息は、竜特有の匂いがする。
嗅ぎ慣れていたとしても、そう積極的に嗅ぎたいものでもない。
顔をしかめて反射的に顔を背けば、気を悪くしたアーリィが鼻先でトールの頭部を小突いた。
否、竜の小突きはわりと痛むゆえ、トールの目尻に涙が浮かんだのを、そっと様子を窺っていたティシェはしっかりと見たのだった。そして、くすと小さく笑った。




