影は一歩踏み出す
影に支配される――夜。
今の時間帯はカロンの領域だ。
影に沈んだ気配が地を走り、幹を上って、枝を這う。
ひんやりとした空気を、揺れる枝が震わせる。はらりと葉が落ちた。
ぐっ、と影が盛り上がり、紅の双眸が瞬いたかと思えば、カロンが顕現する。目の前にはたわわに実った果実。月明かりで照らされる艷やかな表皮に、カロンはふんふんと鼻を鳴らした。
前足を伸ばし、爪先で果実の表皮を傷付けないよう慎重に触れ、くいっと小さな力で果実を上に捻る。ぽつっ、と軽やかな音を立てて、果実が枝から離れた。
そこでカロンははたと気付く。
少し前は自身で抱える程だった果実が、今では前足だけで持てるくらいになっている。小さな果実だったろうか――否、自分が大きくなっているのだ。
そこに、どことない嬉しさが胸中に広がった。それから改めて気を引き締める。
ここからどう降りるか。それが己の成長の見せ所だろう。
自分以外は影に沈めない。なれば、果実は抱えるしかない。
幸いにカロンが上った木は、人の領域の直ぐ側。枝はそこへ垂れ下がるようにしなっている。
そこでカロンは、ぶるりと自分を奮い立たせた。
果実を持ち帰る方法。抱えられる方法。それは一つしかない。すなわち――飛ぶことだ。
ふんすっ、と。気合一つに鼻を鳴らし、慎重にゆっくりと果実の上に立つ。ぐっと後ろ足に力を入れる。表皮を爪先で傷付けないように注意をしながら。そして、被膜持つ前足を広げた。
飛び立つために前傾姿勢を取って、力強く被膜を羽ばたかせる。
――が。上手くいったのはここまでだった。
羽ばたいた場所がいけなかったのかもしれない。
木々に囲われた場は飛び立つには適していない、とカロンはそこで初めて知る。
木々の合間は、竜が、それも飛ぶのに不慣れな竜が、飛び立てるような場ではなかった。
飛び立ってすぐ、己自身で羽ばたく力強い感覚と、浮遊する感覚に言い知れない高揚感を覚えた。だが、その高揚感に酔いしれる暇もなく、目の前に突として突き出た枝が現れた。
咄嗟に被膜を煽って静止しようとするも、努力虚しく、刺さるような痛みが身体に走る。
足場のない浮遊感。自分がぶら下がっているのに気付く。
被膜がじわりと赤で滲むのが視界の端に映り、次第に前足を伝っていく。「キャロ」と弱々しい竜の声がもれ、後ろ足で掴んでいた果実が落ちる。ぐしゃっ、と地で潰れる音がした。
追うように視線を落とし、無惨にぐちゃりと潰れ広がる果実に、なんとも言えぬ気持ちを胸中に抱く。
と。何かが裂けるような音を耳にした気がして、同時に熱のような痛みが走った。
――被膜が破れた。その事実に気付いて落ちる中でも、なんとかしてカロンは体勢を整えて地に着す。
痛みに紅の瞳を情けなく潤ませた時、茂みから気配がした。
*
浅い眠りを繰り返す。何度目かの目覚めに、ゆっくりとまぶたを持ち上げた。
ぽぅお、と。ぼやける視界に明かりが映る。それが熱を持った光源であると知覚した瞬間、ティシェは一気に覚醒した。
「――いぁっ、あ」
悲鳴は喉で絡まり、声にならなかった。
けれども、その熱光源から逃れようと必死に身を捩る。しかし、何かに押さえ付けられているかのように身体が動かない。思考が焦りと恐怖にじりりと灼かれていく。
意味もなく叫び、力の限りに身を捩る。それはもはや恐慌に近い。
が、そこに「ピルゥっ!」と一つの声がティシェの思考を割って裂く。
恐慌に陥りかけていたティシェの思考が、その声一つで凪を徐々に取り戻していく。
「……グローシャ」
ティシェが名を口にすれば、グローシャが安堵したように息を落した。
ぼんやりしていた視界が輪郭を帯び、はっきりとしてくる。熱を持ったあの光源も輪郭を持ち、それがグローシャの尾先を飾る鉱石に似たそれだと気付くと、ティシェも今度こそ息を吐き出した。
緩く息をつき、グローシャの尾先に手を伸ばす。
温かい。優しい熱を持ったそれを撫でる。
「……すまない。火に――炎に見えて、思考を灼かれた」
細く緩い息を吐きながら、ティシェは項垂れるように顔を伏せた。
目を閉じれば、あの時、全てを飲み込んだ炎が見えた気がした。頭を振り、呑み込みにかかる追憶を振り払う。
顔を上げて、額や頬に貼り付く髪を掻き上げる。
「私は体調を崩したようだな」
動作一つ、身体が重い気がする。
ティシェを見やるグローシャへ、苦笑を浮かべた。
ふんっ、と鼻を鳴らして応えるグローシャは、少しだけ苛立っているように感じて、すまない、とティシェは呟く。
「星願の竜――早く会わなければと、気が急いていたようだ。伝承の話を耳にしただけなのにな」
自嘲気味な笑みを口の端にのせ、ティシェはグローシャへと寄りかかる。
少し息が上がるのは、それだけ消耗しているということか。諦めたように息を吐く。
グローシャが慰めるようにティシェを抱え直す。もう少し休めと、ピルルと声をもらした。
ティシェもそんな彼女に甘えるように身を寄せた時、グローシャが突として顔を上げ、竜舎の戸口の方へと視線を投じた。




