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旅立ち

作者: はやはや
掲載日:2023/03/08

 私は過去に手に入らなかった物が忘れられないことがある。

 全ての物がそういうわけではないけれど、特に気に入った物に関しては、ずっと引きずるような形で覚えている。


 例えば合唱曲。

 ある卒業ソングの名曲が私は好きだ。

 中三の時、私のクラスは、合唱コンクールの自由曲でその曲を歌った。初めて聴いた時から私はこの曲の虜になった。

 ピアノの旋律が美しいと思った。全ての音が耳に心地よく響いた。


 人前に出ることが大の苦手の私が、合唱コンクールでこの曲のピアノ伴奏をしたいと思った。自分でも驚くほど、衝動に近い、強い気持ちだった。

 幼い頃からピアノは習っていたけれど、練習が大嫌いでちっとも上達しなかった。月謝がもったいないほどだった。

 その私が、こんなにも弾きたいと思ったのだ。

 それほど、この曲に魅了されたのだった。



 結果として私は、ピアノ伴奏をできなかった。



 もう一人希望者がいたのだ。しかも、じゃんけんで負けて、もう一人がピアノ伴奏に決まったのだった。相手のことは今でもよく覚えている。

 いつもおさげの髪型をした、気の強い子だった。今ならわかる。上手に言いくるめられたのだと。なぜあの時、じゃんけんを拒否しなかったのか。

「私だって伴奏したい」と、主張しなかったのか。


 その理由もわかる。自分に自信がなかったのだ。じゃんけんを拒否することで、相手の子を怒らせ、気まずい思いをするんじゃないか。自分の気持ちを主張したとて、相手を負かすほど、ピアノが上手なわけではない。

 中三の私は瞬時にそう判断し、納得はいかなかったけれど、じゃんけんを受け入れたのだ。受け入れたのだから、結果も受け入れなければならない。

 しかし、不器用な私は結果を受け入れられなかった。

 じゃんけんで負けただけで、伴奏の権利を逃した、運が悪かった、という気持ちは、いつまで経っても捨てきれなかった。



 大人になって偶然その曲の楽譜を見つけた。その時、全身に衝撃が走った。

 大袈裟に言うと、その合唱曲が再び私の元へ戻って来たように感じた。

 練習したい、と思った。今度は誰にもピアノ伴奏を奪われないし邪魔されない。

 私は早速、練習を始めた。

 もともと下手なので、少しくらい練習しても、全くスムーズに弾けない。

 美しい旋律が台無しだ。それでも、弾きたいという私の情熱は消えることがなかった。




 そして今、私はピアノの前に座っている。家の中ではない。

 商業施設の地下に設置されている、ストリートピアノだ。

 こんなところで弾いてみたいと思うとは。

 人に聞かせられるようなレベルではない。それでも私は弾く。そう、私のために。



 鍵盤に指を乗せ、最初の和音を響かせる。これだ、と思う。次の旋律に指を移す。とてもゆっくりなテンポ。前奏の間に早くも躓き、音が濁る。

 それでもやめない。

 夢中で弾いた。それは酷い物だった。

 でも、恥ずかしさは思ったよりもない。楽譜を追うことに必死になる。どこを弾いているのか見失い、途中で止まる。それでも、曲のクライマックスに差し掛かかった。


――とびたとう


 ふとピアノ以外の音が耳に入る。

 何だろう? それが人の声だと気づく。

 子どもよりも少し年上の若い声。


 目の端に制服を着た女の子を見つける。中学生だろうか。

 私のめちゃくちゃなピアノ伴奏に合わせて歌っている、と気づく。表情は見えない。

 そちらに一瞬目を向けただけで、またしても伴奏は音を外し派手に崩れた。それでも彼女は歌い続ける。それに励まされるように私は演奏を続けた。



――おおぞらに



 女の子は歌いあげた。


 最後の音を弾く。


 ピアノから指を離すと同時に、女の子の姿は見えなくなった。辺りを見回しても、それらしき姿はない。

 幻か……

 いやちがう。確かに女の子はそこにいた。



 もしかして、私?


 伴奏ができず悔しい思いをした、あの日の私が、今の私を見ていたのか。

 そう思うと胸のずっと奥にあった、頑なな何かが溶け始めたように感じた。


 この曲以外にも、手に入れたくても叶わなかった物、思い通りにならなかった物。

 どうして上手くいかないんだ、と自分を責め、時には周りを恨んできた。そして、どうせ……と諦めてきた。

 いろんな重たい感情を抱え込んで、今まで生きてきたと気づく。


 私は、なぜストリートピアノを弾いてみようと思ったのか。

 それは、私のため。

 他人に聴いてもらうためではない。

 私が楽しい気持ちになるように、心地よくなるように、弾いてみようと思ったのだ。

 そして、実際に弾いてみて、今、凪いだ気持ちになっている。



 それならば、これからは、私のために生きていくことを大切にしたらいいのではないか。自分の気持ちに正直に向き合いながら。

 これまで抱え込んでいた重たい感情を全て手放そう。

 もう、それは必要ない。

 きっと楽になれる。

 そのことを伝えるために、あの女の子は現れたのかもしれない。ありがとう。心の中で呟く。


 ピアノの蓋をそっと閉じた。

 読んで頂きありがとうございました。


 今年、新たな一歩を踏み出される方も、たくさんおられるでしょう。そんな方も、そうではない方も、自分の生き方が、まぁいいよねと思えるように願っています。


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