セミとスイカと古代ギリシア
思わず耳を塞ぎたくなるような夏の虫たちの大合奏も、僕は根負けし、こうして毎晩観客と化している。
近くに民家はなく、月の光だけがぼんやりと辺りを薄明るく染めていた。石で囲まれた小さな池、盆栽がそのまま大きくなってしまったような庭。
縁側は静かだった。
中では久々の帰省に気を抜いて、ここぞとばかりに酔っぱらった父さんと、父の親戚らに気を使って回る母が忙しなく口を動かしている。じいちゃんもばあちゃんも、みんな口を動かしている。
僕の口は動かない。
何故なら僕はただの観客だから。
ほんのわずか、心地よい夜風が吹いた。汗が滲む僕の額を優しくなでていった。
風は、季節の匂いがする。
夏の風は夏の匂い。
そしてどの季節の匂いも、僕の胸をぎゅっと締め付けるような切なさをはらんでいる。
僕は自分のすねをペチンと叩いた。蚊が僕の血を吸っていた。
人が物を考えている時に勝手に血を吸うなんて。常識知らずな虫だと思った。
父と母と僕と、決まって夏は三人で父の実家に帰省する。ただ暑いだけの何もないド田舎だったけれど、僕は年を重ねるにつれ、この縁側の静けさを愛するようになった。
庭を見渡すことが出来るこの最高のポジションを見つけたのは、僕以外に誰が居るだろう。もしかしたら、幼い頃の父も見つけたのかもしれない。更にもしかしたら、じいちゃんも見つけたのかもしれない。
でも、今、この静寂と夜のステージは僕だけのものだ。
「賢ちゃん」
突然の来訪者に、僕はそちらを向く。大きめの花柄のワンピースを身にまとい、肩を大胆に露出させた、郁子姉がこちらに寄ってきていた。黒髪は鎖骨辺りでパッツリ切られており、恐らく自分で切ったのだろう。こんな田舎に“美容院”なんて洒落た物は存在しないのだ。
「そんなところにいると、血ぃ吸われっちゃうよー」
郁子姉は僕の二歳上のいとこで、とても美人だ。こんな田舎には似つかわしくない。僕の住む東京のお洒落なビルがきっと似合うだろう。髪だって、一流の美容師に切られるべき美しさを持っている。
そんな僕の気持ちなども露知らず、田舎に染まった調子で「暑いねぇ」と微笑み、スイカに寄りつくハエを払っていた。
「賢ちゃんスイカまだ食べてないでしょ? おいしいから食べ」
日に焼けた腕で、スイカの皿を差し出す。僕はそっぽを向いて受け取らなかった。
別に郁子姉を困らせたいわけではない。僕の心情に気づかない郁子姉が腹だたしいだけだ。
「食べんの?」
コト、という音を立てて、板の床に皿を置く。そのまま郁子姉は僕の隣に座った。
僕は少し邪魔に思ったが、それを無言で訴えるため黙っていた。スイカにも手をつけなかった。
「中学校は楽し?」
郁子姉の問いに僕は答えなかった。僕の決意は固い。人はそれを、頑固というけれど。
「あたしはこっちで高校通いはじめちゃったから、もう東京のことは忘れちゃったよー」
郁子姉は楽しそうに笑っていたが、楽しいわけがないと僕は思う。郁子姉のような人が東京を忘れるということが、楽しいはずないのだから。
郁子姉は家庭の事情で、僕くらいの年頃にこのじいちゃんとばあちゃんの田舎に預けられてから、ずっとここで育っている。幼い頃は僕と郁子姉は東京でよく遊んでいた。お互いの家の行き来もよくしていた。
だから、郁子姉が僕の生活から居なくなったことは、僕の人生の道が突然ブルドーザーでえぐられてしまったようなことなのだ。
返事をしない僕の様子をなんとなく察知したのか、郁子姉は少し黙った。
相変わらずの虫の大合唱。旋律や調子なんてものはない。言ってしまえば雑音カーニバルだ。各々が勝手に、統率なく大騒ぎしている。俺はここにいるぞ、私はここにいるわよ、と大絶叫している。
郁子姉が、スイカに飛びつこうとするハエをまた払った。僕は最初からそんなスイカなど食べる気はなかった。別にそんなにスイカは好きではないし、こんな田舎に放置されている食べ物など、口に入れる気がしなかった。
「ねえ、賢ちゃん」
郁子姉は足をぶらぶらさせながら、顔を見ないまま呼びかけてきた。その月光に照らされた横顔は、奇跡のように美しいと思った。中で大騒ぎをしている親や親戚たちの声が、一瞬遠のいて聴こえたくらいだ。
郁子姉は僕の返事を待たずに続けた。
「賢ちゃんは、悩んでる?」
悩んでる、だと。僕はいつも悩んでいる。どうしてここに生まれてきたのか、他人と僕とはどう違うのか、両親がどれだけ愚かに見えるか。
見透かされたような、馬鹿にされたような気持ちがして、何も言いたくなかった。
「突然ごめんね」
顔をくしゃっとして笑う郁子姉は、どこかを真っすぐ見据えながら、
「あたしもね、賢ちゃんぐらいの頃、すごーく悩んでたっから」
と澄んだ声で言った。すっかり訛りにそまったその声も、変わらず郁子姉のままなのだ。僕は何故だか急に息が苦しい感覚に陥った。
「悩むことって、考えることだよね。大昔は、奴隷が身の回りのことや生活のこと全てをやって、一部の偉い人しか考えることが許されなかったんだって」
郁子姉が僕に何を伝えようとしているのか、一切分かりかねた。しかし、郁子姉が僕の瞳を見つめないで話をするのは珍しいことだった。
スイカに寄ってくる虫を払いながら、郁子姉は続けた。
「お父さんもお母さんも引き取ってくれなくて、最初はここに住むことすっごく不本意だったの。でも、じいちゃんもばあちゃんもすっごく優しくしてくれたんよ」
月の光が僕らの膝小僧を照らして、四つの小さな満月が地上に浮かんでいるようだった。郁子姉はそんな地上の満月を見つめながら続けた。
「いっぱいいっぱい考えた。気がおかしくなるんでないかってくらい考えたんよ」
僕はそっと、郁子姉の顔を覗き込んだ。二つの眼は、不思議な光を湛えていた。
「あたしはその時、大昔の偉い人だった。周りの事を全て人に任せて、悩んでればいいだけだった」
郁子姉が顔をあげた瞬間、その目に湛えていたものがこぼれおちた。
僕は驚いた。
郁子姉が泣いている。あの、郁子姉が泣いている。
「なあ賢ちゃん、あたし、ここ最近気が付いたらなんも悩まなくなってたんよ」
僕は何も言葉を発せずにいた。そして正直、郁子姉が何を言っているのかも、あまり理解出来ていなかった。
とにかく、郁子姉は泣いている。
でも、悲しそうでも嬉しそうでもない。何でもない涙が頬を伝っている。それがなおのこと僕を混沌に叩き落とすのであった。
「大人になると悩まなくなるの? それとも私が悩むに値しない人間になっただけ? それとも」
郁子姉は僕をじっと見ていた。頬には涙の通り道が緩やかに描かれていた。月明かりにぼんやりと照らされて、郁子姉は神々しくさえ見えた。
「それとも、私は気付かぬ間に奴隷の側に回っているのかなあ」
虫は相変わらず勝手に喚き散らしていた。僕の足に蚊がとまったような感覚を覚えたけれど、僕は郁子姉の方に顔を向けたまま微動だにしなかった。
小麦色に焼けた肌、パッツリ切った艶やかな黒髪、闇夜に浮かぶ涙。
僕が次にとった行動は、郁子姉の持ってきたスイカに勢いよく食らいつくことだった。虫も止まっていただろう。そいつらも、僕のあまりの勢いに飛んで行ったに違いない。種も食べてしまったと思う。口の周りに赤い汁を飛ばしながら、僕はひたすらにスイカを食った。
危うく皮まで食べそうになってから、僕はその勢いを止めた。
あまりの一気食いに呼吸を忘れ、今になって肩で息をしている。
そして僕はスイカの汁まみれの口で言った。
「郁子姉は十分悩んでるよ」
郁子姉の花柄のワンピースは可愛い。あとで褒めてやらないとと思いながら、僕はスイカの食べ残しを庭の池に投げ込んだ。虫たちの大合唱に多少の変調がきたされる。
中から親戚のおじさんたちが大笑いする声が聞こえた。
僕たち子供はその時縁側で大昔の偉い人となり、中の大人たちは大昔の奴隷になっていたのだ。多分。
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