アンメリー・バッド・エンドレス
企画主催のまきぶろ先生(id:851881)、並びに琴子先生(id:1753889)ありがとうございます。
1.
曲げていた足を延ばした先のシーツの冷たさと、思わず引き寄せたタオルケットの微妙な湿り気で目を開けた。日の光が窓から射して控えめに部屋を明るくしている。もぞりと緩慢な動きで起き上がった。
体が、ほんの少しだけだるい。未だタオルケットを掛けたままの膝を抱えて顔を埋める。けれども寝起きとは大体そういうものなのかもしれない。暫くそうしていたものの、いつまでも寝ているわけにはいくまいと観念して今日はどんな予定があっただろうかと考える。
途端、どきりと胸のあたりに不穏な感覚がした。
勢いよく顔を上げる。さっと部屋を見回した。どれも見覚えがあるような、ないような。自分の趣味であることは分かるのに、それらを揃えた記憶がなかった。意識しなくとも速くなる自分の呼吸音がうるさい。
ここはどこ、わたしはだれ。なんて、当事者になってしまうと冗談でも笑えない。
窓の外を見れば、生い茂る緑と舗装もされていない焦げ茶色が延々と続いている。高さから見て二階だろうか。胸騒ぎを少しでも取り除こうと乱暴にベッドから降りる。ギシ、と木の軋む音がした。素足がベッド下のマットレスを踏む。長いワンピースの裾からちらりと見えた足首に古い傷跡があった。なぞってみるが、痛みは全くない。立ち上がっても何一つ違和感はなかった。
満足に歩けることに安心して、窓とは正反対の位置にあるドアへと歩を進める。緊張が体に伝わってしまっているようで、なんだかぎこちない。
そろりと慎重にドアを開けた。
「あ……お、おはよう」
開けた先にはどこかきまり悪そうに笑う男がいて、びくりと肩を揺らす。反射で一歩後ずさった。
「今日は少し遅かったから、具合でも悪いのかと思って見に来たんだけど。大丈夫?」
男は気遣わしげな目で私を見ている。森の奥深くみたいな緑色の瞳だ。癖毛気味の黒髪が柔らかそうに揺れた。向こうは私を知っているようだが、生憎こちらに覚えはない。もっとも、今は自分のことすら曖昧だけれど。
答えに窮している私に、彼は「ああ」と何か思い至ったように呟いた。男の表情が悔やむような、寂しそうなものに変わる。もしかしたら多少は親しい間柄なのかもしれない。どうやら害意があるわけではないようだ。少なくとも、今すぐには。
どなたですか、と若干の遠慮を滲ませながら尋ねる。すると男は目を細めて口角を上げた。笑おうとしているのだとすぐに分かったが、自然な笑顔とは言い難いものだった。
「僕はペルド。あなたの恋人……だった、けど。忘れちゃったみたいだから、昨日の夜まではってことになるのかな。えっとそれから、ここは僕の家だよ。あなたの家でもあるんだけど」
固い表情とはちぐはぐに、ペルドさんは落ち着いた声色で言った。私の名前も教えてくれる。本当かどうかは分からないが、疑えばキリがないので頷いておいた。
「あのね、たぶん、記憶がなくて混乱していると思うんだけど、あなたが記憶を失うのはこれが初めてじゃないんだ。幸か不幸かね」
言葉を選んでいるのか元々そういう喋り方なのか、ペルドさんはゆっくりと言葉を紡ぐ。彼の視線は私に向いたり逸れたりしていて、お互いに心細さを感じているのがわかる。
何も分からず不安で仕方がなかった。ペルトさんは私の状態について何か知っているようだから、聞けば何か教えてくれるかもしれない。淡い期待を込めて彼を見れば、心得ているとばかりに彼の口が開いた。
「とりあえず色々と知りたいでしょ。少し、お話しよっか。それともまだ休みたい?」
あくまで私を気遣ってくれるつもりらしい彼の態度で、胸の息苦しさが僅かに和らいだ。首を振ってから、大丈夫なので話が聞きたいと告げる。じっと休んでいても余計なことを考えてしまうだけだろう。
「わかった。やっぱりあなたは強いね、取り乱したりもしないし。そういうところが好きなんだ。じゃあ、座って話そう。ついて来てね」
ペルドさんがそう言いながらくるりと背を向け歩き出した。さらりと好きだなんて言われてしまったので反応に困る。とりあえず数歩遠ざかった彼を呼び止めてお礼を言えば、彼は肩越しに振り返った。
「ペルドって、呼び捨てにしてよ。敬語もとって。ずっとそうだったから、慣れなくて。……慣れたくも、ないし」
ぽつりとそんなことを言う。また寂しそうな顔をするので、うん、と短く返事をした。なんだか彼に悪いことをしてしまったような気がして目を逸らした。
「あなたのそれはね、呪いなんだ」
レモンを浮かべた紅茶のカップを両手で包み込んで、伏し目がちにペルドは言った。私も視線を落とす。大好きな匂いがする。琥珀色の液面が天井を歪に映していた。
呪い。呪いは知っている。呪憑きと呼ばれる人間にしか使えない不思議な力のことだ。確認するように三音を口の中で繰り返す。ペルドが頷いた。
「そう、呪い。あなたにかけられた呪いは、たぶん忘却の呪い。色々あるらしいけど、あなたの場合は言葉や習慣は覚えているのに、人や思い出はきれいさっぱり忘れてしまうみたい。何度もね。間隔は不規則だから、次に記憶が失われるのはいつになるか分からない。明日かもしれないし、もっとずっと先かもしれない」
まさに今の状態だ。自分の名前すらペルドに教えてもらうまで分からなかったのに、紅茶のことも呪いのことも覚えていた。教えられた自分の名前は知らないはずなのに馴染み深く、私が住んでいるというこの家はやけに自分の趣味に合う。
ぞっとした。また記憶を失うかもしれないということに。私の知らない私が、かつて存在していたことに。私を呪った存在に。
顔を青くした私の様子を見て、ペルドは痛ましげに眉を寄せた。
「ごめんね。はやく解呪してあげたいんだけど、自分以外がかけた呪いを解くのは――」
そこまで言って、ペルドは目に見えて動揺した。滑らせたらしい口をふたふたと開閉して、意味を為さない音を紡いでいる。
首を傾げた。
つまりは、彼も呪いをかけることができるのだろうか。問おうと口を開くと、私が何か言うより先にペルドが慌てて続けた。
「あっ……と、その。たぶん、あなたが想像した答えで合ってるよ。僕も呪憑きなんだ。言いにくかったのはあるけど、隠そうと思ってたわけじゃなくて。あとでちゃんと伝えるつもりだったけど、言ったら怖がらせるかな、とか色々考えちゃって……ううん、違うな。あなたに嫌われたくなかっただけ。僕があなたを呪ったんじゃないかって疑われたくなくて、それで」
彼はしどろもどろに説明してくれる。確かに呪憑きは忌避されがちだ。街ではまともに暮らせず、こうして人里離れた環境に住んでいるくらいには。言いにくいのは当然だろう。気にしていないと告げると、彼は心底安心した様子で息を吐いてから姿勢を正した。
「ありがとう。僕はあなたのそういう淡々としたところが好きだよ。呪憑きだからって理由だけで僕を避けないところ。ふふ、何度言われてもやっぱり嬉しい」
ペルドは幸せそうに笑みをこぼした。
実のところ、全く気にならないと言えば嘘だった。その気になれば簡単にこちらを害せる存在というのは当然怖いし、彼の言葉を一から十まで信じているわけでもなかった。けれどそれを言葉や態度に出すのは気が引けただけだ。態々本当のことを言ってしまうのも憚られて、私は冷めた紅茶に口をつけた。
「それでね、これからのことなんだけど」
二呼吸分の間、言葉が途切れた。ペルドは懇願するような目をこちらに向ける。
「僕と一緒に暮らしてほしいんだ。ここで。もちろん、ずっとなんて言わない。気持ちの整理が十分につくまでとか、他にやりたいことが見つかるまでとか、ここが嫌になって出ていきたくなるまでとか。期限付きで良いから……なんて、本当はいつまでだっていて欲しい、けど――」
その後何か言ったらしいが、ペルドが俯いてしまったので聞き取れはしなかった。尋ねても首を振って教えてはもらえない。彼は再び顔を上げた。
「あなたは何度も僕を忘れたけど、何度だって僕を好きになってくれた。だから今度だってきっとって、正直に言ってしまえば、期待してる」
返答に困る。身に覚えのない好意は少しだけ迷惑に思えてしまうが、このまま一緒に暮らしていけば彼の言う通りになる予感もしていた。実際、この状況に掉さしてしまうのが一番楽なのではないかと思いかけている。彼の親切に嘘が無ければの話だけれど。
そんな私の様子をどう思ったのか、ペルドは気まずそうに言葉を続けた。
「ええと、そんな顔しないで。僕の我儘なんだ。そうなったら良いなって勝手に思ってるだけ。あなたが気にすることじゃない。もしここが、僕が、気に入らなかったらすぐに出て行ったって……本当は凄く嫌だけど、出て行ったって、良い。それにあなたが出て行ったとしても解呪の方法は探し続けるし、見つかったらすぐに解いてあげる」
何にせよ他に頼れる人間がいないのだ。唯一私よりも状況を把握しているらしいペルドは、この上ないほどに優しい。ここにいる理由を探し始めている自分に気が付いて心の中で苦笑した。
「どう、かな」
自分への言い訳を並べながら、私は不安そうに瞳を揺らすペルドと視線を合わせる。しばらくお世話になりますと頭を下げれば、彼はぎゅっと胸のあたりの服を掴んで「うん」とだけ言った。
2.
今の私になってしばらく、記憶はあれから失っていない。呪いについての進展も皆無なので差し引きマイナスだ。
ペルドとの暮らしは驚くほどに馴染んだ。家にはそこかしこに私が使っていたらしいものがあるので、本当に私は今までここに居たのだろうと納得もできた。
外出時には必ずペルドが一緒でなければならないが、一人で出掛けている時に全てを忘れでもしたら困るのは私である。もっともできるのは散歩程度で、比較的近くにあるらしい街にはまだ行けてない。
彼曰く、呪憑きであるペルドと一緒にいるところを見られて私まで同じような扱いを受けるのを避けたいらしい。べつに物を投げられるわけでもないので、私はあまり気にならなくてもペルドは違ったようだ。
そもそもそこで暮らしているならいざ知らず、一目見て呪憑きだと分かる人間はそういない。気にしすぎだと思うのだが、私には分からない呪憑きの事情があるのかもしれない。
甘やかされているという自覚は痛いほどあった。私が一日することといえば簡単な家事や庭の手入れくらいだ。それだって、してもしなくても良い。
自称とはいえ元恋人と一つ屋根の下、そういう下心もあるのではと最初のうちは警戒していたが現状杞憂に終わっている。部屋だって別々で、恋人同士なら一つのベッドで寝ていても不自然ではないのに、そうしないのは私の記憶がいつ失われるか分かったものではないからなのだろう。自分が誰かも分からない状況で、隣に男が寝ていたら誰だって酷く狼狽する。ペルドの配慮が嬉しかった。
ペルドは事あるごとに好意を伝えてはくるが、自分で言うほど見返りを期待しているようには見えなかった。せいぜい散歩中に手を繋ぎたいと言われた程度である。
卑怯だとは自覚しつつも私はそれに居心地の良さを感じていた。こう考えると差し引きプラスな気がしてくる。
「ただいま」
ごとごとと重い木の扉が開く音がして、ペルドが外から帰ってきた。彼は疲れた様子でそのままソファへと倒れ込む。お疲れ様、と声をかければ低く気怠さの滲む声を出して甘えたような返事が耳に届いた。
仕事で街へ行ったついでに買い物も済ませてきたのだろう。彼の側に投げ置かれた袋から食材が覗いていた。自給自足でもできれば良いのだが、生憎この辺りは狩猟にも畑にも適していなかった。もっとも、適していれば活用したかと問われれば首を振ることになるのだろう。
一度、どんな仕事をしているのかと聞いたことがある。するとペルドは珍しく難しい顔をして「あなたは知らなくても良いよ」と教えてくれることはなかった。
自分に憑いた呪いを使ってお金を稼いでいるらしい、ということは鈍い私でも何となく感づいている。普段は呪憑きを忌避していても、結局呪いを頼る人間がいるのは分かる気がした。社会の中で生きていれば邪魔な相手の一人や二人いることだろう。なんて、ペルド以外の人と関わることのない私には縁のない話だ。
彼に憑いている呪いについて詳しく聞いたことはない。正確には、尋ねてみたけれどはぐらかされてしまった。言いたくないことを無理に問いただす趣味もないのでそのままだ。
そういえば、といつの間にか起き上がっていたペルドに声をかける。私はどうして呪われたのだろうか。なるべく考えないようにしていたのだが、心の整理がついてきた今なら聞ける気がした。口に出してから、思ったよりも自分の声が固いことに気が付く。
「そんなの思い出しても、良いことないよ」
ペルドはゆらりと首から上だけこちらへ向けて、へらへら笑った。それから台所の方に消えていく。
言いたくないのだろうか。私に聞かせたくないという方が正しいか。彼自身のことについてはそれでも構わないけれど、私だってせっかくなけなしの覚悟を固めたのだ。知っているのなら教えてほしい。
ペルドを追って台所へ向かう。食材の整理をしているらしい背中に声をかけた。
「知ってどうするの?」
今度はこちらを向いてさえくれない。突き放すような態度に口を噤む。
確かに、知ったところで何もできないのは明白だった。同じ轍を踏まないことだってできるか怪しい。それでも気になる。知ってどうにかしようと思っているわけでもない。ただ自分の状況を正しく把握したいだけなのだ。
そう伝えれば、ペルドは振り返って口を開く。けれどそのまま唇を噛んで目を伏せてしった。そのままじっとお互いに動けないまま時間が過ぎる。しんとした室内に時折家鳴りがして、普段は気にも留めないその音が少しだけ恐ろしかった。
「言いたくない。けど、これは僕の都合でしかないから、あなたがどうしてもって言うなら叶えてあげたい気持ちもある。あの……知っても僕のこと、嫌いにならない? 約束してくれる?」
先に観念したのはペルドだった。私の目の前まで来て、きゅっと手首を掴まれる。ひやりとした感触に驚いて僅かに手を引いた。するとペルドは悲しそうに眉を寄せて小さく声を漏らす。
「あ……ごめんね」
彼の手が離れていく。私はすかさずその手を引き留めた。自分でも意外だった。既に彼のことは憎からず思っていたし、手に触れられるのも嫌ではなかったのだろうと思う。その勢いのまま、約束するから教えてほしいと頼む。
「あなたが呪われたのは僕のせいだとしても、それでも聞きたいの? ほんとに離れていったりしないって言える?」
正直なところ内容によるだろうが、ここでそれを言うのは無粋というものだ。こくりと頷く。ペルドは一度唾を飲み込んだ。それから私の手を引いてソファへと促す。私たちは手を繋いだまま並んで座った。
「すごく、単純な話でね」
ペルドが静かに言った。手の甲がするりと撫でつけられた。
「僕の仕事はね、人を呪う仕事だから、当然恨みを買うことも多いんだ。そうでなくとも呪憑きは風当たりが強いから、余計に。だからたぶん、あれは僕への報復だったんだと思う。あなたと一緒に街へ出た帰りにね、同業者に襲われたんだ」
横目でペルドを見つめる。彼はじっと自分の膝を見つめていた。小刻みに揺れる瞳まではっきりと分かる近さに、今更ながらはっとして目を逸らした。
「呪いのかけ方って、知ってる?」
突然ペルドがそんなことを言い出す。ううん、と口を開かないまま答える。彼は息の多い笑いを漏らしてから続ける。
「だよね。全員がそうってわけじゃないんだけど、大抵は触れることなんだ。ちょっと触ればそれだけで呪えてしまう。怖いでしょ」
消え入りそうな声だ。私は何も答えなかった。その代わりにきゅっと指先を絡める。隣で肩が揺れた。
「誰かがね、僕を呪おうとしたんだ。呪憑きはほとんど普通の人と変わらないけど、呪う一瞬だけは、誰でもそれを感じ取れる。それで、あなたが僕を庇ってくれた。僕だけが狙いだったなら、あいつはその瞬間に呪いを止めることもできたはずなんだ。依頼を受けるような呪憑きは、それ以外で呪いを使えば違反になるから。でも、あなたは呪われた」
ペルドは悔いるようにして数度深呼吸をする。音と一緒に胸が上下していた。
呪憑きのする仕事にもルールがあるらしい。まあ、それはそうか。彼の言ったことを噛み砕く。呪うのは、私でもペルドでも良かったということだろう。ペルドは無事であるから私と彼の両方という線は薄い。
「おそらくだけど、あいつを雇った人間は僕が苦しめばそれで良かったんだと思う。そのまま逃げられてしまったから何も聞き出せなかったけど、それしか考えられないから。あなたはよく僕と一緒にいたから、大切な人っていうのは知られていたと思うし」
記憶を失うだけで済んだのは幸運だったのかもしれない。他にどんな呪いがあるのかは知らないが、最悪死ぬことだってあり得ただろう。そう言うとペルドは「そうかもね」と掠れた声で返した。
気休めが必要だった。私にも、ペルドにも。
「ね、僕のせいだったでしょ。さっきはああ言ったけど、嫌いになっても良いよ。僕なんかと一緒にいなければ、あなたはもっと幸せだったと思うから」
やけにあっさりとした口調でペルドは言う。ソファの上で触れ合っていた手が離れた。急に温度を失った感覚に寂しさを覚える。私は自由になった手をソファに付いて体重を乗せた。ペルドの方に体を寄せる。とん、と彼の肩口に額を付けた。上から困惑する声が降る。
嫌いにはなれそうもなかった。過去の私が庇ったのだから、今の私がそれを不意にするのは惜しい。
「ありがとう」
ゆっくりと、あるいは恐る恐るペルドの首が私の方に傾いた。
3.
日記を書こうと思い至った。いつか忘れてしまうなら、記憶より記録だ。今更な気もするが、最初のうちは自分の気持ちと折り合いをつけるのに精いっぱいだったし、しばらくしてからはペルドとの生活が心地よくて考えることを放棄していたのだ。現状に胡坐をかきすぎているな、と内省する。もう少しでも早く気が付いていれば、まだ不安だった頃の気持ちを吐き出す助けにもなっただろう。
そうと決まれば筆記用具の調達だ。自分だけではどうにもならないので、早速ペルドに声をかける。買い物に行きたいと言うと、彼は難しげな本から顔を上げ困った顔をした。
「街へはあまり、あなたを連れて行きたくないんだけどな。また何かあっても嫌だし。何か欲しいものがあるなら僕が買ってきてあげるから、それでも良い?」
彼の言いたいことは分かる。私が呪われたときと同じようなことが起こるのを心配しているのだろう。可能性は高くないが、万が一ということがないとも言い切れない。ペルドは日頃私に甘いところがあるので頼めば渋々頷いてくれると思ったのだけれど。日記以外に特別な理由がない今回は食い下がる材料がない。
聞き分けのよい返事をして、日記が欲しいのだと頼む。ペルドは感心したように頷いた。
「日記かあ、とっても良い案だと思う。あなたの気に入りそうなものを買ってくるから安心してね」
ペルドの賛成に気をよくして頬を緩めた。すっかり落ち着いてきた今となっては特に書くことはないし、書いたとしても同じようなことが並ぶだけなのだが、何も残さないよりは上等だろう。
次に彼が街へ行くのは明日なので、そのついでに買ってきてもらうのが良いだろう。彼のセンスに任せることにして、私は飲み物を淹れようと台所へ向かった。
翌日、ペルドが街へ出かけて行った。いつも通り仕事と買い物だ。帰ってくるのは早くても昼を過ぎたころだろう。私はいつになくそわそわと、二階にある一つのドアの前に立っていた。
手には花束を持っている。庭でこっそり育てていたものだ。こっそりと言っても一緒に住んでいる限り秘密にしておくことはできないので、花の手入れをしていること自体は知られていたのだろうけれど。
ふう、と息を吐く。目の前のドアの先は、ペルドに勝手に入ってはいけないと言われている場所だ。とはいえ全くの未知というわけでもない。単に入るなと禁止されても気になるだろうと、ドアだけ開けて中を見せてもらったことはある。
彼の私室であり、呪いについての研究をする部屋でもあった。危ないものがたくさんあるからと念を押されたのは記憶に新しい。一歩間違えればまた呪われちゃうからね、というのは全くの脅しではないのだろう。
そろり。ドアへ手を伸ばす。僅かに力を加えれば、あっさりとそのドアは開かれた。キィ、と軽い音を響かせて蝶番が擦れる。鍵をしていないらしい。
中へ踏み出してみる。自分の足音と心臓の音が良い勝負をしている。部屋の中は若干埃っぽくて、今すぐにでも換気をしたくなる。そんなことをすればペルドに感付かれて小言を言われることは間違いないだろう。極力ここにあるものは触らないように誓った。
再三入るなと言われていた場所に足を踏み入れたのは、決して疚しい動機や彼を探るためなどではないし、まして好奇心に負けたからでもない。日頃のお礼をしたかったからだ。
恋人同士になりたいかと問われればまだ素直に頷くことはできないが、ペルドともっと仲良くしたいと思っているのもまた事実だ。特に何でもない日だが、せっかく花が綺麗に咲いたのでちょっとしたサプライズでもと考えたのだ。
面と向かって渡すのは何となく気恥ずかしかったし、食卓に置くのも微妙な気がした。だからきちんと彼へのプレゼントだと分かるように、かつ直接渡さなくても良いように、彼の机にちょこんと乗せておこうと思っただけなのだ。
花束を置く以外には何もしないから大丈夫だろうと高を括って、真っすぐに彼の机へと進む。途中、床に詰まれた本に足を擦って肝を冷やした。幸い本の山はびくともしなかったし、特に何も起こらず胸を撫でおろす。
目的の場所までたどり着き、手に持っていた花束をそっと置いてからしみじみと周囲を見渡す。薄暗い室内に、日焼けした紙束や見たことのない置物が散乱している。整えられていないベッドの上まで広がっているところを見るに、ペルドは満足に寝ていないか、寝る直前まで研究をしてくれているのだろう。
ふと、壁際にある本棚が目に入った。目的を達成したのならすぐに退散しなければならないのだけれどちょっとだけ、と誘惑に負けてそちらへ近付いた。
掌の倍ほど高さのある本から、片手で捲れる本まで様々な大きさや厚さのものが並ぶ。小さい本たちは前後二列に収納されていた。その前方がちょうど数冊分空いていて、ベッドやら床やらに散らばっているものだと推察できた。
その隙間から、どうしても気になる背表紙たちを見つけてしまったのだ。全てが同じ形と色をしている。その並んだ数冊からは、記憶にはないはずであるのに懐かしさと妙な愛着を感じる。
思わず手を伸ばしかけて、はたりと部屋の出入り口を見る。勝手に触るなと言われているし、人の部屋を漁るのはいただけない。分かってはいるのだが、どうしても気になる。
意を決して、そのうちの一冊を手に取る。
白い表紙には日付が記されていた。今から数年前だ。ぱらぱらとページを開けば慣れ親しんだ字が躍っている。私の字、だと思う。もしかして、と別のものを手に取る。表紙の日付は違うものの、どれも私の筆跡だ。これはおそらく、日記と呼べるものだろう。
私は過去に何度も日記を書いていたのか。ペルドの反応を見るに、今回が初めてだろうと思っていたのだけれど。だとすると、私が思いつくよりも早く提案してくれても良かったのではないか。あるいは日記そのものを持ってきて、読ませてほしかった。隠していたのだろうか。ペルドが? 一体どうして。眉を顰めた。
改めて内容を確認してみる。斜め読みで数冊分目を通したが、特におかしなことは書いていなかった。
気がついたらここにいて、ペルドと名乗る男に恋人だと言われ、しばらくお世話になることにして、だんだんと彼に惹かれ始めて。木の実を一緒にとってきてパイを作ったり、川辺まで出掛けて釣りをしたり、街へ出掛けたいと我儘を言って少しだけ喧嘩をしたり。今と何も変わらなかった。すっかり安心して読み進めていく。最後の方をぱらりと開いた。違和感に手を止める。最終頁が不自然に切り取られていて、
「何してるの」
聞こえた声に温度が乗っていない。ひっ、と喉が締め付けられた気がする。手に持っていた日記がばさりと落ちて紙の潰れる音がした。
振り向く。部屋の入口に、呆れた様子のペルドが立っていた。腕組みをして眉を下げ、溜息を吐いている。てっきり怒った顔をしているのを覚悟していたので拍子抜けした。
それならば先手必勝だ。ごめんなさい、と開口一番告げた。
「うーん、ちゃんと謝れて偉いし可愛いから許してあげる。と、言いたいところなんだけど」
ペルドが部屋に入ってきた。ぺしゃりと床にあったままの日記を滑らかな動作で拾い上げる。所々折れ曲がったそれを丁寧に直しつつ、彼は苦笑して私に向き直った。
「入ったらだめだって、忘れちゃったのかな」
意地の悪い笑顔でペルドが私をのぞき込む。彼の右手が私の肩を掴んだ。分かっているくせに、と私は自分のことを棚に上げて閉じた唇に力を入れた。
「ここには危ないものがたくさんあるって教えたでしょ。今回は何事もないみたいだから良かったけど、それこそ開くだけで気分が悪くなるような、気味の悪い文献だって置いてある。鍵をかけていなかった僕にも責任はあるけど、約束を破ったあなたも反省してよね。ほんと、心配したんだから。この日記以外には何も触ってない?」
念を押す様にするりとペルドが私の頬を撫でた。触っていない、と首を振りかけて思い出す。ちらりと机の上の花束を見た。あれも触ったうちに入るだろうか。
彼も私の視線を追った。ペルドから短く声が漏れる。彼の瞳と指先が動揺で揺れた。
「あ……えっと、なるほど。ごめん。ごめんね、何も聞かずに怒ったりして」
あれは怒っていたのか。それにしては思いやりに溢れていて、叱ると表現するほどの鋭さえもなかった気がする。私が悪いことをしたので注意しただけでは、と首を傾げた。
ペルドは一旦私から離れ、すたすたと机に向かって行って花束を持ち上げる。それをぎゅっと大切そうに胸に抱えると、すぐに小走りでこちらへ戻ってきた。
「自惚れじゃなければ、僕に、だよね」
期待を隠さずに問われる。そうだと頷いた。ペルドは途端に泣きそうな表情で座り込む。
「う、れし。あなたが僕に何かをくれたことって、今までなかったから。ありがとう。勝手に入るなとか、偉そうなこと言ってごめんね。ああ、いや、お願いだからもう一人で入らないでほしいけど……ほんと、嬉しくて、こんな……幸せなの」
花束一つでこんなに喜んでもらえるとは思っていなかった。過去の私はよほどの甲斐性なしだったらしい。流石に呪われてからの話だろうけれど。
しゃがみ込んで彼の頭を撫でる。柔らかい黒髪だが、所々で指に絡まった。
しばらくそうしていると、ペルドが恥ずかしそうに顔を上げる。もう大丈夫だろうと立ち上がれば、彼も同じように腰を上げた。
ペルドの持っている花束と日記が視界に入る。そういえば、どうして私の日記がここにあるのだろうと疑問に思っていたのだ。過去にも日記を書いたことがあるのか、とペルドに尋ねる。
彼はきまり悪そうに視線をふらふらさせてから、観念した様子で口を開いた。
「そう、あなたの言う通り、日記は何度も書いてるよ。隠してたことについては本当にごめんなさい。えっと、言い訳、聞いてくれる?」
伏し目がちにそう問われる。ばさばさと狭く上下する睫毛が綺麗だな、なんて関係のないことを思った。
「悪意があったわけじゃなくて。日記を書くのは名案だねって褒めた時のあなたの顔がね、すっごく可愛いから。つい見たくて。一度、前も書いていたよって教えたことがあるんだけど、その時の反応が薄かったから、どうせなら可愛い顔がみたいなって」
想像していた以上に些細な理由だった。居た堪れない。気恥しさに、日記を見つけた時の不信感がどこかへ行ってしまった。そっか、とだけ呟いて、私は彼の部屋を出ることにした。
4.
あの後、過去の日記を改めて読めることになった。現在日記たちは私の部屋ではなくソファ横の本棚に並べられている。彼の部屋は立ち入り禁止であるし、また記憶を失くした時には速やかに彼の部屋に戻せるようにとのことらしい。
次は最初から読めるようにしておいてほしいという私の願いはついぞ聞き入れられなかった。ペルドは私に甘いくせに、変なところで頑固だ。
暇な時間も多いので、日記はすぐに読み終わった。特に目新しいこともない。これなら書いても書かなくても一緒かなと思うが、それはほとんど同じことを経験した私だから言えることなのだろう。
なんとなしに読み終えた日記をぱらぱらと弄ぶ。一瞬だけ、親指に何かが引っかかった。手を止める。もう一度ぱらぱらと捲れば、同じような部分でまた違和感。注意深く、今度は一枚一枚と指を擦り合わせた。
ぺり、と軽い音がしてページが立ち上がる。私は違和感の正体に気が付いた。ここだけ二枚重ねになっているのだ。何度も往復しなければ気が付かないほどに、ぴったりとくっ付いている。
表紙を見れば、今使っているものを除いて一番新しいものらしかった。なんだろう。お菓子でも零して長い間放置していたのかもしれない。
ともあれ何が書いてあったのかは気になる。一生懸命に爪を引っ掛けて、かりかりとページを弾く。今はペルドも仕事でいないので、恥ずかしいことが書いてあったとしても見なかったことにできるだろう。
思ったよりも剥がすのに難儀した。ぺりりと可愛らしい音を立てて開かれた部分には、無残な姿になった花弁が貼りついていた。これが接着剤の代わりをしていたらしい。
さて何が書いてあるのだろう。ページを開ききって目を滑らせれば、そこには何も書いてはいなかった。ただあるのは花弁だけだ。首を傾げた。
花弁をじっと見る。どこか見覚えがあった気がして記憶をたどれば、私の寝室に置いてある鉢植えが、そういえば同じ花弁を持っていた。あれのことだろうか。ぱたんと日記を閉じて棚に戻す。とりあえず確認してみようと私室に向かった。
階段を上ってすぐ左。そこが私の部屋だ。
目当ての鉢植えは記憶通り窓際に鎮座している。じっと観察してみるも、変わったところは何もない。葉っぱの裏まで覗いてみたが、綺麗な緑が光に透けて見えるだけだった。
鉢植えを持ち上げる。ずっしりとした重みが腕に効く。筋トレに使えるかもしれないな、なんてくだらないことを考えて二三度上下した。あるいは、と鉢植えを下から見上げる。水が染み出た形跡はあるが、それだけだ。
土を掘り返してみるしか手は残されていない。どうしてそこまで気になるのかと自分でも不思議だが、なんだか胸騒ぎがして落ち着かないのだ。
後ろを振り向く。ドアはきちんと閉まっているようだ。流石にペルドも勝手にこの部屋へは入ってこないだろう。見られて困るようなことをしているわけではないのだが、ペルドに見つかってはいけないと勘がそう告げている。
ぽそりと土に指先を突っ込んでみる。冷たく湿ったものが纏わりつくのが分かった。今度は掬うようにして一気に土を掻き出す。爪の間に土が詰まっていく。あまり良い感じはしない。ここまでしたのだからいっそ、と半ば自棄になって土を掘る。底につく前に、つるりとした感覚が爪先を滑った。
覗き込む。薄く透明なものが僅かに見えていた。もう少し広げてみる。どうやら最初に触ったものは袋のようだった。端を引張り、土が床へ飛び散るのも構わず掘り起こす。
ずるりと抜け出てきたそれは、防水のためだろう水を弾くような袋に包まれた紙切れだ。裏表に、細かく字が書かれている。私の書いた字のようだった。取り出してみれば、随分と昔に書かれたらしく所々端がばさばさに毛羽立っている。
そこに書かれた文章を何気なく読んで、くらりと血の気が引く。耳元と心臓から早鐘が鳴り響く。息が早くなる。それでも文字を追う目は止められなかった。
それは呪われる前に書いた、私から私への手紙らしかった。
―――――
記憶を失くした私のために、手紙を遺します。
もし今の生活が心底幸せだと思うのなら、この先を一切読まずに燃やしてください。読んでしまったら、きっと後悔することになるでしょう。くれぐれも、彼に見つかることがないように。幸せになって。
―――――
この文に目を通しているということは、私はまだペルドを信頼しきっていないか、何か疑問や不安を抱えているのでしょうか。あるいは、偶然見つけてしまった手掛かりを興味本位で追っているだけかもしれません。
いずれにせよ、読んで後悔しないことを祈ります。
ペルドを信じないで。彼は私の恋人ではないし、おそらくこれから私を呪う人です。
ペルドは私を攫ってここへ連れてきました。抵抗したけれど、結果はこの通りです。
彼のことは前から知っていたし、話したこともあります。とはいえ世間話程度しか交わしたことがなかったので、彼が私を好きだという理由も、ここへ閉じ込めておく理由も分かりません。
私には婚約者がいます。正確には、いました。これを私が読んでいる頃にはきっと、彼も私もお互いのことを忘れているでしょうから、余計なことは書かない方が良いのかもしれません。
けれど私がペルドに連れていかれるとき、私のせいで彼も呪われてしまったことは知っていてほしいと思います。もし彼に、カルロに会うことがあれば、ありがとうと伝えてください。私の好きな人はずっとカルロでした。呪われるまで、それは変わりません。
これからどうするのかは私の自由です。
どうせ私のことだから、ペルドに惹かれかけてもいるのでしょう。どうしても信じられないのであればそれでも構いません。この手紙を読んだうえで、なかったことにするのも一つの選択です。けれど、そうはしないよね。他ならぬ自分のことだから分かります。
ペルドを拒絶したり、逃げようとすればきっとあなたはもう一度記憶を失うことになるでしょう。だからそうするなら機会を伺って、ある程度勝算があるときに。
私が一番幸せになれる選択を、どうか。
―――――
最後には住所と私の名前が記されていた。その住所が私の住んでいた場所か、婚約者の居た場所か、あるいは別のどこかかは分からない。しかしこの家から出て行くとして、目指すべきはそこなのだろう。
内容はここで一区切りらしいが、紙はもう一枚ある。
―――――
▲/○/xx ペルドが出掛けている隙に逃げ出してみようと思う
●/◇/!! ここが嫌になったことにしようと思う
★/▽/** すべて思い出したふりをしてみようと思う
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◆/×/~~ 運よく他の人間に会えたので、その人を好きになったことにしようと思う
◆/□/?? 同じような手紙を書いてペルドにみせてみようと思う
■/☆/++ 不意打ちでペルドを襲おうと思う
▼/α/== 食事に植物の毒を仕込もうと思う
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▲/▽/!! 街で暮らしたいので出て行きたいと素直にお願いしようと思う
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日付と行動記録だろう。何人もの私が色々と試した形跡だ。手紙を見せるのはかなりのリスクを伴っただろうが、未だこの原本が処分されていないところを見るに大分上手くやったらしい。ペルドから離れることには失敗しているけれど。
部屋を見回して、机上に置いた新しい日記に目を留める。最終頁を切り離してペンを走らせた。住所だけは書き写しておこう。それを小さく折りたたみ、失くさないようにとポケットへ仕舞い込む。ああ、そうか。あの日記の最終頁は、私が破ったのだ。
手紙は元の場所に戻しておいた。床へ零した土の掃除も忘れない。それから自分の両手が酷く汚れていることを思い出す。肘だけを使ってドアを開け、急いで両手を洗いに行く。流れる水の音が絶える頃、ちょうどペルドの「ただいま」が聞こえてきてびくりと肩を大袈裟に揺らした。
どうしよう。どうすればいいのだろう。どうするのが正解なのか。
深夜、ベッドの中で背を丸くして考える。あの手紙を読んでから、答えが出せないままずっと悶々としている。
ペルドの前では何も知らないふりをして過ごしたが、きちんと誤魔化せているのか不安で仕方がない。私はいつも通り話せていただろうか。笑顔がぎこちなくはなかっただろうか。何も言ってこないということは、今のところ綺麗に隠せていると思いたい。
ペルドのことは、嫌いではないのだ。
けれど怖くなった。憎くもなった。私は優しい彼しか知らないけれど、私の文字を信じるのなら、恨むべき人だ。私をここへ無理矢理連れて来て、もう思い出せないけれど大好きだった婚約者を呪った人。ペルドや過去の自分に事の真偽を確かめることはできないが、きっと手紙にあるのは本当のことなのだろうと私の勘が告げていた。
芽生え始めた恋心の潰えたのが分かった。
この先素知らぬ顔でペルドと暮らしていく自信がない。いつか襤褸をだす気がする。そうなったときに、今度はこの手紙すらも消されてしまう可能性があるのだ。早々逃げなければと思った。けれど上手くいかないのは目に見えている。ない頭を絞って何か考えなければいけない。
幸い、過去の私がたくさん失敗をしてくれている。だから私も思いつくことを記して試せばよいのだ。目標は「ペルドから逃げ、手紙にあった住所へたどり着く」とでもしておこう。
ペルドを酷い目に合わせてやろうかと一瞬だけ復讐心が膨らんだが、首を振る。何度か返り討ちにあっているようだし、彼をどうにかしたところで私とカルロの記憶が戻るわけではないと知っていた。
私にできるのは、今後私の掴む幸せにペルドを含めてやらないことなのだと思う。
5.
「収穫祭?」
ペルドのスプーンが止まった。私は頷く。食器の音が鳴りやんだ。
収穫祭に行きたいと頼んだのだ。この家から一人で逃げることができないのなら、いっそペルドに人の居る場所まで連れていってもらえば良い。街なら彼も私をそう簡単に呪えないだろうし、誰かに助けを求めることもできるはずだ。
買い物に行きたいという程度では許可してもらえないだろうけれど、ちょうど近々収穫祭があった。街では大きな催しをするはずだし、どうしてもと駄々をこねれば少しくらいはと思ったのだ。
「だめ。やだ」
むすりとした不満げな調子を隠そうともせず、ペルドがぼそりと言う。言ってしまってから、彼は気まずそうにへにゃりと情けない顔をした。快諾してくれるとは微塵も思っていなかったけれど、ここまで率直に嫌がられるのは予想外だ。
「街へは連れて行きたくないの、分かってくれてると思ってたんだけど。あのね、あなたは一人で外へ出られないし、呪憑きの僕と一緒に街を歩かせたくないって言ったよね。あなたのお願いは聞いてあげたいけど、呪が解けるまでの我慢だから……ね?」
手紙を読む前であれば、ペルドに説得されていただろう。彼の思いを蔑ろにするのは心苦しい。けれど収穫祭のタイミングを逃せば街へ連れて行ってもらう口実がなくなってしまうのだ。それだけは避けたかった。
それから私はいかに収穫祭を楽しみにしているかを訴えた。
最初は頷く気配など全くなかったが、ペルドと一緒に楽しいことがしたいと言ったあたりから心が動かされたようだった。その気配を見逃さず畳みかけるようにして、若干の好意を滲ませながら拗ねるように説得を続ける。「でも」「だって」とペルドの返答は次第に勢いを失っていき、最終的に折れたのは彼の方だった。
私の勝利だ。
当然のように、決してペルドの側を離れないことを約束させられたが予想通りだ。側を離れない努力はするが、たとえば不可抗力で人込みに流されてしまうのは仕方がないことだろう。私は内心舌を出した。
彼の気が変わらなければ、収穫祭には連れて行ってもらえるはずだ。あとは怪しまれないようにペルドと逸れ、誰かに助けを求めれば良い。収穫祭中なら警備隊もわかりやすい場所にいるだろう。万一その前に捕まったとしても人の多い場所だ。その場で助けて、と叫べばペルドも迂闊には動けないだろうし、私の味方をしてくれる人がいるかもしれない。
なんて、考えていた自分が浅はかだった。
「今度こそ上手くいくって思ってたんだけどな」
私の台詞だと言ってやりたいけれど、そんな気力も残っていない。
結論から言えば、失敗した。首尾よくペルドと逸れたところまでは上々だったが、予想以上に早く見つかってしまったのだ。周囲に助けを求めようと声を張り上げても、ペルドは人当たりの良い笑みで痴話喧嘩だなんて説明をするから無駄に終わった。
ソファの上に両手首を押さえつけられて身動きが取れない。どうにか拘束を解こうと足に力を入れれば、隣に座るペルドが素早く足を絡めた。最悪だ。状況が悪化した。
「ね、どうして逃げようと思ったの?」
ペルドが真横から囁く。距離を取ろうと身じろぎをしたが、たいして効果はなかった。収穫祭のために彼が買ってくれたワンピースに皺が寄っている。
逃げようとしたわけじゃない、と苦し紛れに首を振っても案の定信じてはもらえなかった。
「嬉しかったんだよ、僕と一緒に収穫祭に行きたいってお願いしてくれたとき。デートみたいなことがしたいって言ってくれたでしょ。だからね、今度は好きになってもらえるんじゃないかって、ほんとに期待してたのに」
肩口に熱がじわりと侵食してくる。ペルドの髪が首筋に当たってぞわりとした。何か弁明をしなければ、このままではまた呪われてしまう。口を開くが、焦って息を吸ったせいで咳き込んだ。私の身体が揺れるのに合わせてペルドの頭も揺れる。
彼の緑色がぎっと恨めし気に私を見上げた。
「逃げようとしたってことは気が付いてるんだと思うけど、全部嘘だったんだ。恋人っていうのも、あなたに呪いをかけた悪い呪憑きの話も。あなたは僕を好きになってはくれなかったし、僕があなたを呪った」
ごくりと喉が鳴る。手紙で知ってはいたけれど、本人から直接告げられるのは重みが違う。一縷の望みが絶たれた気がして目の前が暗くなった。
「ああそうだ、呪いの内容もね、ちょっとだけ嘘吐いちゃった」
耳元で、ペルドの声と自分の血液の巡る音がする。
「忘却って言ったけど、僕に憑いてる呪いは喪失。あのね、失ったものは、もう元には戻らないんだよ。大丈夫、そんな不安そうな顔しないで。僕と一緒にまた新しい思い出を作っていこうね。嘘ばっかりでごめん。酷いことしてごめん。ほんとに、ごめんなさい」
彼が切なげに顔を歪める。その表情にお腹の奥がきゅっと締め付けられて、どうしたら良いか分からなくなった。
「でもね、あなたのことが大好きなのは、本当なんだ」
責めるような瞳から目を逸らす。その甲斐も空しく、ペルドが私の頬に手を添えて彼の方を向かせる。息のかかる距離だということに気が付いて呼吸が止まった。ペルドは一瞬だけ薄く笑ってもっと顔を近づけてくる。ぎゅっと目を瞑った。けれどそれ以上は何もなくて、恐る恐る瞼を持ち上げる。
「残念そうな顔、してほしかったな」
そう言いながら、ペルドは私の手首と足を解放した。ソファの背もたれに体を預けて、深い溜息を吐いている。するりと手の甲が撫でられる感触がして視線を向ければ、ペルドの指が遠慮がちに這っていた。そのまま無言で指先に絡まる。
もういつ呪われてもおかしくなかった。
「何がだめだった?」
ペルドの湿った手が冷たくなっていく。
「僕、ちゃんとあなたに優しくできてたよね。外見だって、好きになってもらえるように気を使ったつもり。料理も練習したんだ。口調もね、あなたが怖がらないように変えたんだよ」
次第にか細くなっていく声の間に、鋭く息を吸う音が混じる。その後に吐き出される息さえ震えて聞こえた。
「前にね、あなたが言ったんだ。僕は以前のあなたを追いかけているだけだって。僕が好きなのは僕が呪ってしまう前のあなたで、今の自分じゃないって。そんなわけないのにね。だから今度はそんな誤解をさせないために、今のあなたが言ったこととか、行動とか、そういうところだけを積極的に好きって言ったし、過去の話はあんまりしなかったでしょ。あとは……そう、ちゃんと家の外にも出してあげたし、今回は怪我もさせなかった。あのときはごめんね」
ペルドが私の足首をちらりと見る。焦燥で相槌すらうてない。彼はそんな私を気にすることなく、至極申し訳なさそうに眉を下げた。
「ね、これでも僕、あなたのためにできる限りのことはしたんだよ。どうしたら僕のこと好きになってくれる? 僕を受け入れてくれる? 次はもっと頑張るから」
じっと横から覗き込まれる。問われた内容もまともに咀嚼できないまま口を開く。
漏れ出たのは謝罪だった。
「いいよ」
ペルドはふっと切なげに目を細めて私の頭を撫でる。
「もう、いいよ」
頭の中を掻き乱される感覚がする。揺れに酔ったような気持ちの悪さに耐えられない。体から力が抜けていく。ぐらりと体が傾いて目が閉じる。ペルドの声がする。
「じゃあ、また明日ね。おやすみ」
ありがとうございました。