第3話「リングのお姉さん」
ささやかなチーズケーキの味が口の中に残っている放課後。夕陽の長い赤が影を伸ばしていた。
寮生活は、自由になんでもできるわけではない。壁は薄いし、所詮は借り物で冷蔵庫も小さい。
五木來花は基本的に、家電が使うだろう全てのコンセントに穴が空いていた。何も差していない。食事はその日のうちの食材で回す派だった。
自炊ができないわけではない。
「くっそー」
ハゲタカ供ッ! スーパーの安売りを狙うおばちゃん軍団と近接戦を繰り返しえた、極々僅かな戦利品をセルフレジで会計していた。おばちゃん軍団の図々しさを舐めてはいけない。人間は、見栄を捨てられる者こそ強いのだ。
スーパー、『スパーリング』は今日も戦場だ。スパーでノックアウトがあるのは、スパーではない気がする來花だった。
「あれ? 五木君じゃないか」
セルフレジで來花は声をかけられた。男の声だーーと思った。ハスキーで、上品な、しかし節々にあっけらからんとした、心地の良い風を感じられた。
「謝花さん」
ーーだが女だ。
「くんくん。汗をかいたあと……いつものボクシング流してきたんですか?」
「……今は汚い、勘弁してくれ……」
「失礼しました」
なんでそんなことをした!
汗の匂いを嗅ぐなんて犬か猫か動物か、変態だ。來花は心の汗をかきながら、ひとまわり小さくなっていた。
來花は温めた惣菜とお椀数杯分の炊いた米のパックをレジ袋に詰めた。謝花はその動きをずっと見ていた。スーパーマーケットの賑やかの中で、奇妙な緊張が走った。
会計を金の投入口に入れ終わり、レシートを貰った。謝花が、
「この後は暇なのか?」
「夕飯です」
「好都合。ちょっとリングに上がっていけ。スパーしよう」
「えぇ……」
「汗かいていけ」
謝花は、ボクシングジムのボスだ。女で、屈強な男供を従えるボスというのは奇妙かもしれない。照明の落とされていたジムに光が戻り、中央のリングが浮かびあがった。
数多の男、あるいは女の夢と血と汗、少々の歯や肉が染みた闘技場だ。
頑丈なヘッドギアに、分厚いグローブをはめてリングに立った。
ーートン。
ーートン。
ーートン。
謝花が軽くフットワークを試しているところで、來花はマウスピースの噛みごたえを確認した。上半身は脱いだが、下半身のズボンは着の身着のままだ。
「準備運動なし。温めていこう」
「ジャブで僕の鼻折らないでくださいよ」
マウスピースを噛んだくもった会話だ。
謝花の、ノースリーブに半ズボン、ラフな格好の彼女が沈みこんだ。ジャブの牽制もなしにいきなり脇を狙った一撃。デカイ、グローブが迫る。(いきなり!)えぐるような謝花のブローは、來花が僅かに跳ねて下がったことで空を裂いた。
「ご挨拶ですよ」
「ジャブはしてないだろ。わかりやすい一撃なんて遊びだ」
両脚のフットワークが刻まれた。キュ、キュ、とリングが鳴った。振りのまったく見えないジャブの雨が、來花の防御そのものを狙って打たれた。
「友達は?」
「候補が二人!」
「木更に聞いたぞ」
「喋りましたか!」
「楽しそうだ、なっ!」
左腕を狙った謝花のジャブを肘で受けとめ、そのまま腰の捻りこみ、肘を使ったカットを狙った。謝花は上体を後ろへ逸らして躱した。
「キックボクシングだったか?」
「キックもありで?」
「その気だが、軽い打ち合いで充分ーー大学の様子はどうだ」
「強くなければと日々実感しています」
「人助けは血を流す覚悟だからなッ、と」
「二人分、両腕賭けてます」
「豪気だな。木更だけにしとけ、アレは脆い」
「ひとりぼっちは寂しいですから。もうひとりを、見捨てーーられません」
「傲慢なこった」
「若いうちは傲慢な気合いくらいが充分!」
「若い答えーーだが未熟!」
謝花の顔面へのジャブの猛襲からガードがせりあがり、來花の脇にキツい一撃が刺さった。
「うめかない、ガードが落ちないのは成長だが、まだまだ」
「全然軽くない、ですよーーッ」
「油断してれば痛みで叩き戻してやらないと。大学の話に戻すが、しっかり肉を食ってるか? タンパク質は大切だぞ」
「米が多いですね」
「お前、糖尿になるぞ。昔は贅沢病だ言われていたが、貧乏人こその病だ。多いらしいぞ、カルテを書くのは」
「嫌なことを聞きました」
「炊事がひとりだから、無駄が増える。誰かと一緒に纏めて料理しないのか。木更はどうだ?」
「寮生活ですよ? お裾分け文化なんて絶滅しました。……さっきから木更を押しますね」
「復活させろ。食は大切だ」
「と言っても、僕もボッチ枠ですからね。少し不安です」
「お前な……まあいい。考えとけ」
「料理、ですか」
「意中の二人を射止めるのは、存外簡単なことの積みあげだ。顔を合わせる機会を増やすだけで変わる」
ジムで軽く汗を流したというには、じっとり、嫌な脂汗を吹きながら來花はスポットライトに照らされた。眩しいな、と見上げたスポットライトに手をかざす。隠しきれない眩しさは、來花の目を細めさせた。
「あっ、もしもし」
謝花はグローブを脱ぎ捨て、ベンチに座り込んだ。ケータイを耳に当て、誰かと電話だ。浮かんだ汗が、ノースリーブを肌に張りつけた。來花は色っぽい筋肉に、目のやり場に困ったが、「ガン見しすぎ」と言われるくらい見た。
來花がロープを不慣れに潜って、リングから転げながら降りていると、
「ちわー、…………うん?」
「木更?」
「來花かよ!!」
ジムに現れた顔は、キツい目つきに少々のそばかす、長身のスレンダー、腹筋凄い割れてそう系女の子だ。鵞堂木更だ。
「大学の馬鹿がいるから、寮に引きずってけて、誰のことかと思ったぞ」
「馬鹿……」
「まっ、來花は賢くはないわな。再履修が毎期必ずあるらしいし」
「木更はもう単位必要ないんだよな。羨ましい。僕は必須科目も落としてる」
「励めばいいじゃん? 俺が教えてやれるし。単位不要で遊ぶ時間が沢山だ」
「論文とか実験があるだろうに」
「発表会でキッチリやりゃいいんだよ。面倒臭い出席確認したところで点にはならない。大切なのは理解力だ。真面目でちゃんと顔だしても、身になってなければ意味がない。無駄な努力」
「バッサリ!」
「お? お? 生意気言えるのか? 留年予備軍の來花君?」
「僕に不労単位買わせてください、木更様!」
「売れはしねーが、一緒に勉強しようぜ」
來花に汗は薄かった。軽くタオルで体を拭いた。裸だった上半身にシャツをかぶせた。ズボンはそのままだったせいで、ちょっと悲惨だ。
「死にかけて失禁したのか?」
「お漏らしじゃない」
木更は、股間が湿っている來花を指差しながら、ケタケタと笑った。
「ほらほら、鍵掛けるから早く帰れー。…………ところで來花君、寮生活だからって、木更を食べちゃったら駄目だぞ」
「謝花ッ!!」
木更が吠えた。謝花は、來花の背中をバシバシと叩いた。叩く彼女の手は傷だらけだ。
木更運転の軽トラに自転車を放り込んで、寮まで送ってもらった。
陽も沈んで、逢魔時も夜に傾いていた。街灯が足元を照らすには、間隔が広すぎて頼りない。軽トラ一台の小さなライトが、心細かった。
「大学ももう少し、街にあったら便利なんだけどな」
「寮が少し遠いよねー」
「オマケに心臓破りの坂! 自転車通学にゃ辛いとは思わないかね、來花」
「思う! でも大学最寄りの寮は、旧校舎組だから仕方ない。あそこは障害者の生徒を受け入れているから。それに、自転車で五分ならまだまだ近い!」
自転車だったなら苦労することこの上ない坂も、今日は車だ。簡単に頂上まで登りきってしまった。
寮の駐輪場は目の前だ。
寮には特に、門限とかはない。ICチップ付きの学生証をドアに掲げて入ればいいだけだからだ。だから、基本的には管理する寮母という人はいなかった。
門限を縛る必要がある子供は住んでいない、ということになっている。
「じゃ、また明日」
「またねー」
あっ、と來花は暗がりに消えそうな木更へ、
「僕はお前の夢を絶対に笑わないから! なんでも相談してくれ!」
「ばーか」
木更は振り返ることもなかった。
寮のあちこちの換気扇からは、夕飯の香りが漏れていた。家族のいない、しかし団欒と変わらない楽しげな声が聞こえた。




