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第1話「花の人」

 桜の花はーー夏を知らない。


 初夏の青さに揺れる桜に花は無くて、薄汚れた、僅かな花びらが腐っていた。


 あなたはそこにいて、そこからいなくなった。ふと、そんなことを思いながら、あるいは何も考えずに校門を過ぎる。


 ガタン、と段差に自転車のタイヤが跳ねた。五木來花は校内の、同じように走ってきた自転車の、砂や泥で引かれたタイヤ跡をなぞった。変わりようのない朝の通学の終わり、駐輪場に乗り付け、鍵を二重にかけて大きなバッグを担ぐ。バッグには、桜花学園の紋章が生地に縫いこまれていた。


「おはよう」


 來花は顔も名前もわからない挨拶を幾つか繰り返して教室に続く階段と廊下を歩く。誰かが挨拶をかけてくれるが、それが誰なのかわからない。あるいは高校時代、あるいは中学時代、もしかしたら小学校時代の知り合いだったかもしれない。だがーー大学時代に知り合いはいなかった。


 教室、と言っても講義室なわけだが学級クラスのように決まった場所へ集まるわけではない。履修した科目を学ぶだけの場所だ。


 真面目にこれは大変なことで、來花は基本的にあちこちを放浪しなければいけない。定住は遠い。どのラウンジでも賑やか豊かな声と人が漏れている。


「あれ?」


 校門最寄りの一号舎305号室に鍵がかかっていた。まだ少し早すぎて、教授が来ていないようだ。窓から覗いた講義室は、明かりも何もなく、大学の喧騒から切り離された静けさで満ちていた。


 待とう。


 バッグを廊下に投げ、まだ寒さを覚える早朝の時間はそれほどかからなかった。


「早いね」

「あっ、おはようございます」

「うん。おはよ」


 曲がり角の階段から教授が現れた。長い髪を、後頭部で複雑に小さく纏めたスーツ姿の教授の両手には、今日配布するのだろう資料を抱えている。秋冬夏春教授、数字系の先生だ。


「悪いんだけど、鍵をお願い」

「いいですよ。じゃ、失礼しますね」


 夏春の、冷たい指先にかけられた305号室の鍵がチリン、と鳴った。來花は鍵を受け取り講義室のドアを開けた。固く、レールに砂が混じっているので開けにくい。じゃりじゃりと音をたてるが、コツを知れば簡単だ。


「ありがと」


ーードサッ!


 中々の重量級が教壇を叩いた。夏春は黒板にうっすらと残る、前の講義跡を消している。來花はその間に、305号室の窓を開けて換気した。朝の冷たい風が、講義室に吹きこまれた。


 來花が座る席は決まっている。教壇の直前だ。大人気の後列に座ろうものなら、いつも集団で動いている学生に「空気が読めない」と言われてやはり前へと押し出される。


 黒板消しが擦れる音、窓から吹きこむ風が結ばれたカーテンを揺らしながら、來花の肌を撫でていた。床とボルトで固定された長机は五人でひとつだが、來花には専用と同じだ。映画館の椅子のように跳ね上がった椅子を倒し席に着く。


「來花君。これ、いつもの差し入れ」

「いつもすみません……今日は何を焼いたんですか?」

「ベイクドチーズケーキ。中々他人に焼くことはないから、貴重だよ。感想は要求するけどね」

「良い匂いがしますね。少しレモンの酸味を感じます。酸っぱさは控えめでしょうか。それに持った感じ……クランブルの歯応えありそうな感じも」

「渡しただけで、色々わかるんだね。家の連中だと、うめぇ、もっとくれ、これしかない」

「あはは。美味しい、夏春教授のお菓子にそれは基本ですから、俺はそれ以外で言葉を考えましょうか」


 女性にしては少し荒らしいラッピングのケーキを貰った。ホールから切り出した三角形ではなくて、四角い長方形だ。來花用に小さく焼いてくれたチーズケーキなのかも知れない。


「友達ができたら、こうはいかないんだろうけど」

「ボッチに感謝ですね」

「こら!」

「すみません……でも友達らしい人はちゃんといるんですよ?」

「へぇ、誰、誰? 同じ学科の人間?」

「それはわからないんですけど、図書館で知り合った人と、電算室でゲームしてた人とは友達だと思ってます」

「根暗そうだ」

「偏見ですよ。学生を導く教授失格の発言です」

「知ってた? 教授は別に学校の先生じゃないんだ。研究者だからね、問題なし」

「知ってたけど、建前も何もない……」


 夏春は、あまり先生に向いた性格ではない。大学の研究室にいる為に教壇に立っているくらいの心だ。だから講義も適当に合わせておけば、単位をばら撒いてくれる。文科省から学力や出席数の基準などお達しがあるはずなのに……。


「名前は?」

「ぐいぐい聞いてきますね、夏春教授」

「当たり前だよね」

「真顔で言わんでください」

「貴方は弟なんだから、弟の交友関係は姉として知っておかないと」

「夏春教授が血縁なんて初めて知りました」

「心の兄弟だ。そんなことよりも早く名前を言ってくれないと、他の奴らが来てしまう」


 來花は諦めた。押しが強い女性はーー強いのだ。夏春の目が輝いていた。恋愛に飢えた野獣だ。


「図書館でエイリアン探してた子は、八朔二葉さん。電算室でラップトップ殴ってたのが鵞堂木更さん、だったかな」

「濃ゆそうな二人だね……」

「カルピスくらいですかね」

「うん? すぅーーちょっと待って」

「どうかしましたか、夏春先生」

「名簿でそんな読みをしそうなの見た気がする」

「期待しないで待ってますよ」

「記憶は正しかった」

「いや早いですね」


 夏春がスレンダーな胸を張って、ラップトップのモニターを來花に向けた。出席名簿にいろんな名前が当然、表になっていて、その中の二人に網が掛けられている。


〈鵞堂木更〉

〈八朔二葉〉


 それは、來花にも見覚えがありそうな名前だった。


「同じ講義を受けて、しかも一同面通しの機会がずっとあったなんて驚きですね」

「運命だね」

「恋愛脳なんですか?」

「大学ではな、ボッチほど中退率が高いんだよ。これでくっつけば、私は試食相手を失わずに済む」

「めっちゃ邪な思考ですね」

「打ち解ける為に必要なものが何か、來花は知ってる?」

「いえ」

「機会だよ。セッティングは任せて。どうせこんな講義、遊ぶために来る連中しかいない」

「駄目でしょ」

「いいんだよ。業務効率カメラ、もとい監視カメラないんだから、わからない、わからない」

「夏春教授て時々とんでもないことやろうとしますよね。……冗談ですよね?」


 ニヤリ、と夏春は笑っていた。冗談では収まらない本気の雰囲気だ。


「本日は自習だ!帰れ、帰れ!そうだ、鵞堂木更と八朔二葉は居残りね。残りはさぁ、走った走った」

「夏春教授、やりやがったです……!!」


 歓声に包まれる305号室から、ほとんどの学生が消えるまで数分とかからなかった。ガヤガヤと喧騒を引いた群れはあっという間に過ぎ去り、肌を刺す沈黙が抜け殻になった講義室の空気を入れ替えた。


「あっ、來花ちゃん……」

「ちゃん付けやめてください。二葉さん、俺は男です」

「……」

「あの、木更さん。ゲームでもしますか。ケータイゲームに新しいフリーであるんです。人気で、しかもそこそこ面白いですよ」

「手綱を握っている……私の來花君に何があったらこんな主導できる一面が……?」

「夏春教授、すみません。ややこしいのでお口チャックでお願いします」


 夏春が、しゅん、と教壇の果てに消えた。


 唐突に始まった三者面談。教壇というテーブルを挟んで、三人が三人とも立ったまま、瞳を合わせた!六つの瞳が交差するとき物語が始まるかはわからないがーー


「……」


ーー來花は知っている。


 自分がしっかりしなければ、何も動けないということを。


 人見知りには、二種類あるのだ。人と話せる人見知りと、人と話せない人見知りだ。


「來花ちゃーー來花君。えっと、これは教授の呼び出しじゃないのかな?」

「違いますね」

「來花」

「はいはい。何ですか、木更さん」

「ケータイのバッテリーが落ちた」

「充電器持ってますから、それで充電しましょ」

「來花君、大変だね」

「皆を揃えたのは、夏春教授! 他人事じゃないですよ」

「なんてゲームなんだ?」

「ファンタズマゴリアですね」

「ん。ストアで探してみる。あとで一緒にやろ」

「僕はもうダウンロードできてるので待ちです」

「私、悪いことしちゃったのかと思っちゃった、來花君がいてくれて安心だよ」

「すみません。二葉さんに落ち度は何もないので安心してください」

「えへへ。ちょっと褒められた気分だよ」

「誑しみたいだ」

「お口チャックです!」


 花と同じように麗しい女性が三人。だが、揃えばさらに美しくなるかと言えば……。


「ちなみに馴れ初めのほどは」

「夏春教授ッ!」


 五木來花の冒険が始まった。

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