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この話には、暴力的な描写や、グロテスクな表現がございます。苦手な方は、ご注意頂いた上でお読みください。
弱弱しく点滅する街灯が、何とも心許ない明かりで照らす路地の闇の中を、風が力強く疾駆した。その慟哭が、閉じられた雨戸を震わせる。煉瓦の壁を這い上がった風は、唸りを上げて屋根を駆け降りて行った。
照明の落ちた部屋に響く風の吹きこむような音が、自分の押さえた口元から漏れ出た呼吸音だと気が付くのに、しばらく時間がかかった。先程目にした光景が、瞼の裏にこびりついて離れない。身じろぎ一つが、致命的なのではないかと感じるほどの恐怖に支配されている。
少しでも、あと一ミリでも冷静さを欠いてしまえば口から迸りそうになる叫び声を、何とか押しとどめて、荒い息すら口元を強引に押さえて飲み込んで蹲っていた。
流れる汗に滑ってずりおちる眼鏡を押さえて、荒くなる呼吸を落ちつけようと目を閉じると、早鐘のような心臓と同じように、拍動する痛みが頭の中で跳ねまわっており、目を閉じたことを大いに後悔した。
(あれはなんだ……)
耳を劈くような静けさに耐え兼ねて、口の中で思わずつぶやいた言葉は、空気を震わさず、それが本当に言葉になったのか怪しかったが、だいぶ冷静さを取り戻すことができた気がする。目を開き、もう一度あのおぞましい生き物がこの部屋にいないか確認しなくては。
咄嗟に押してけたたましい音を立てていた非常ベルは、気が付かない内に、それともすぐに壊されたのか、粉々になっているのが机の横から見える。
目を凝らして見ると、診察室の診察台のある床に倒れている二人は、先程まで自分の診ていた患者だった。ケンカでお互い顔に勲章を作った酔っ払い二人だったが、今は診るべき患部が見当たらない。
何度見てもおぞましい光景が、此処に居ても二人のようになることは確実だと言っているようで、背中を震えが駆け上がる。ふたつの遺体から目を背けて、その時もてる気力の全てを両足に込めて立ち上がる。それだけで空気が重く、視界を奪う闇が体にまとわりつくような感覚を覚えた。
無意識に体を丸めて生唾を飲み込み、破壊されたドアへと近づくと、窓の隙間から滑り込む風が、わずかな気流を生み、むっとするような臭気が鼻に届く。常夜灯のみが灯る廊下には、胸やけがしそうなほど甘く、そして刺激のある濃い香りが満ちていた。
このボロの建物のどこかからの隙間風の音が、狼の遠吠えのように聞こえていたが、その音には確実に何か別の音が混ざっていた。過度な恐怖で体がどんな刺激も逃すまいと敏感になっているのか、耳が勝手に微かな音を拾おうと雑音を掻きわける。体の内側から聞こえてくる、自らの呼吸音すら煩わしい。
欹てた耳が聞き分けた風の音に混ざったその音は、何かの水滴の音だった。瑞々しい果実を齧るような水音が、暗く甘い芳香で満ちる廊下のどこかから響いてくる。
背筋を駆けあがる怖気が嫌な想像を掻きたてて、そんな妄想が浮かんでは消え、廊下に進もうとする足を押しとどめようとする。だが深く慎重に息を吐き出して、常夜灯のうすぼんやりとした光に照らされる廊下へと足を踏み出した。古い廊下が音を立てないように慎重に足を滑らせるように進んでいくと、雑音に紛れていただけの微かな水音はどんどん近くなる。
入院していた数名の患者も、全員逃げ出してくれている事を祈りながら、じりじりと足を進めていく。もう誰も居ないはずの、いつもは患者が眠るベッドが並んだ病室のドアが、無残に壊されているのが見えて、思わず中を覗き込む。
そしてそれを後悔した。
窓から差し込む月明りが、ぬらぬらと光る赤色を照らしだす。逆光で姿は良く見えないが、こちらに背中を向けている何かの抱えている体は、力なく弛緩して、瑞々しい果実を齧る音とともに揺れる腕は、反射反応だろう、時折痙攣していた。
両手で思わず口を押え、大きな音が、自分の情けない悲鳴が出るのを防ぐ。すぐに、今すぐに建物外へ出なければ。そう体中が警鐘を鳴らしているようだった。
震えて動かないあちこちの筋肉はもう脳ではどうにも制御できないようで、急いで足を後ろへ引く。
この時焦らなければ、とそんなことを思ってもそれはもうすでに後の祭り。慌てて足を置いた瞬間に、傷んだ床板が大きく軋んだ音を立てた。
一際大きな水音が部屋に響いたかと思うと、背を向けていたそれがこちらを向いたのだろう、粘着質な音と枯れ枝を折るような破裂音が響く。
暗闇に慣れた己の目が、うすぼんやりとその顔を見る。その時初めて、目など戦場で潰れてしまっていればよかったなどと、そう思った。
それは初めからこちらに背など向けていなかったのだ。
白く濁った瞳が、こちらを睥睨している。まるで生気の感じられないその頭からは、涎がだらだらと垂れて、ぬらぬらと口元が光っていた。こちらに顔を向けたように感じたのは、喉を食いちぎられ、その重さを支えきれなくなったのだろう、のけぞるようにこちらに顔を向けただけだったのだ。
辺りに響く水音はやまない。
「ぉ・えあ・・ぎ、ぉえいぁ・・」
言葉の様なものが聞こえた気がして、はっとする。弛緩した体がそれの腕から解放されて、床に投げ出される。何ともいえない音が、部屋の中に響いた。それから腕が伸ばされる。それは酷く緩慢な動きだった。
腕がこちらに向かってくると、甘く痺れるような臭いが強くなり、胃からディナー代わりのプロテインバーがこみあげて、喉の奥が熱くなる。拍動する頭痛が全身に回り、今すぐその腕から逃れないといけないのに、足がまるでそこだけ意識を失ったかのように言うことを聞かない。
ぶくりと膨れた今にも弾けそうなほど黄色くなった粉瘤が、伸ばされた腕にびっしりとこびりついている。
そう気が付いたとき伸ばされた腕は頭の上で空を切った。正しくは、腰が抜けて足が崩れ伸ばされた腕が掴もうとしていた場所に、自分がいなくなっただけではある。
一瞬の安堵感もすぐに、ぶちゅりという不快な音が頭上で聞こえてすぐに背中をひやりと這い上がる恐怖に変わる。
ぼんやりと上を見上げると、一際大きな粉瘤から黄色く濁ったどろりとした粘液のような膿が、今まさに自分の頭に降り注ごうとしているところだった。
「ヴィンフリート!」
なんとかそれから逃れようと手で頭を庇うように上に上げたとき、シャツの首根を大きく後ろに惹かれるような感覚がして、毎日よく聞き馴染んだ太い声を遠くに聴いた気がした。




