[ 第二章 イスラフィル] 1
エリュシオン大都市の中心地、大通りの端から裏通りに向かう、ビルに挟まれた光の差さない暗い横道にその建物はある。ビルの裏口のような金属扉の前で、少年は前に立つ二人を交互に見上げる。それに気が付いたわけではないだろうが、ヨハンが肩越しに振り返って口を開いた。
「おい、うちのボスは気難しいからな。食われちまいたくなかったら、余計な事は喋るなよ」
その言葉に控えめに頷いて肯定を返す少年の様子を見ると、ヨハンは小さなため息をつき鉄扉に手を掛ける。すると扉の表面を、一瞬青い光が電子基板のような複雑な線を描いて走り、そして消える。それを見届けたヨハンがノブに手を掛け押し開いた。
扉の奥には灯りがまったくなく、しかしそれにしてはまるで塗料で黒く塗りつぶされたような、不自然な闇が広がっていたいた。
「行くぞ」
そう言うとヨハンは扉をくぐって、闇の中に溶けるように入って行く。少年が狼狽えていると、それに気が付いたのか、ダンテが少年を振り返って屈むようにしてから手を差し出した。
「怖いなら、手をつないでやろうか」
優しい、と言うよりは冗談めいたような、徒っぽく笑ったダンテが差し出した掌を見て、先ほどの出来事を思い出した少年は、勢いよく首を振って遠慮する旨を現した。
「ははは、じゃあ、俺の服の裾掴んでていいから、遅れずについてこいよ」
少年の青ざめた顔を見ながら、朗らかな声をあげて笑ったダンテは、少年に自分のジャケットの裾を指さした。そして少年は、大人しくそれに従いその裾を掴む。その姿を確認するとダンテは暗闇の中へ向かって足を踏み出し、二人は並んで闇の中に向かって歩き出す。
目を瞑っているのか、耳が聞こえなくなってしまったのか、足を前に動かしているにもかかわらず、靴音すらしないので、前に進んでいるのかすらわからなくなってしまうほど、完全な暗闇に全くの無音。
「あ、あれ?」
少年が不意に声を上げる。少年の掌の中から、掴んでいた布の感触が無くなっていた。
「ダンテさん!」
慌ててダンテを呼ぶが、期待した明るい声の返答はない。
「……どうしよう」
少年がぽつりとつぶやいたと同時に、彼は自分自身の肌が粟立つのを感じていた。特に窓のないその廊下で大きな声を出したはずが、その声は反響することなく吸い込まれていったのだ。暗闇の中で急に一人きりにされてしまった事よりも、奇妙な現象に少年は身を竦ませ震わせるが、必死に耳をそばだて目を動かして、必死に闇で見えない辺りの様子を伺う。
「こ、れ……何だろう……」
必死に目を凝らしていると、全くの暗闇だと思っていたその空間に、その闇とは異質の何かが少年の目に映る。暗闇の中でぼうと黒く光っているような、何か線の様なものが、その空間を形取るように走って行くのがぼんやりと見える気がした。
少年が立っている所から真っ直ぐ正面に向かって、浮かび上がった空間に走るそのラインは、壁を走り、床を走り、天井を走り、のっぺりとした起伏のない、ただの長方形の箱の様なものを形作っている。それはどうやら、廊下なのではないかと少年は思った。廊下を形作るそのラインは幾何学模様のようにも、何かの回路のようにも見えた。
「……歩かなきゃ」
奇妙な模様が見えるのも暗闇に目が慣れたせいなのだと、少年はそう自分を納得させるように小さくつぶやくと、意を決したように大きく一歩足を前に出す。相変わらず靴音は全くしないが、少年は一歩一歩、足を前へと向ける。辺りを照らす照明ようなものとはまるで違う、異質の光が走って行く方向へ、確実に歩を進めていく。
「えっ?」
ゆっくり確実に歩を進めていく闇の中、瞬きをした少年の目の前に、何の前触れもなく急にぼんやりと光ったラインが形作る、開き戸のようなものが現れて、少年は思わず声を上げる。
「どうして、これ」
あまりにも急な出来事に少年は目を白黒させて戸惑っていたが、しばらくその扉を見つめたあと、ゆっくりと手を伸ばし、光のラインで構成された扉についた、何やらアンティークな装飾の施されたドアノブのような形を模るその光のラインを掴んだ。それに触れた掌から冷たく固い感触は、普通の金属のそれを思わせる。一つ小さく息を吸い込むと、少年は手に力を籠めてドアを押し開く。
押し開いたドアの向こう側から、真っ暗な空間に眩い光が注ぎ込む。暗闇の中に居たにもかかわらず、少年はほとんど眩しさを感じなかった。慌ててその光に飛び込もうと焦ったせいで足がもつれ態勢を崩し少年が転ぶのを覚悟して目を瞑ると、少年の顔をやわらかい感触が包み、直後にふわりと甘く優しい香りが少年の鼻孔を擽る。
「ひゃああ!」
「ふわああ!」
絹を裂くような高い悲鳴と、少年の悲鳴が重なった。
「ふえええなななな、何ですかぁ」
少年の頭よりも少し高い位置から、困惑した慌てた悲鳴がおりてくる中、少年は先程から顔を覆う柔らかさに息ができず、慌ててそこから一歩下がると、ようやく声の主の顔を見ることができた。
パールホワイトの髪を頭頂部でお団子にし、大きな丸く厚い眼鏡をかけた青紫の潤んだ瞳が、少年を困惑した様子で見つめていた。
「あ、わ……も、もしかして君が、ダンテさんの言っていた少年……?」
少年よりもわずかながら身長は高いはずだが、おずおずと見上げてくるような視線で少年の様子を窺う目の前の少女の姿に、少年は口を開けて、少し間抜けな顔を向ける。
きめの細かい肌にバランスの良い目鼻立ちは、まろい頬のラインによって随分と幼く見える。だが、前立ての左右にフリルのあしらわれた暗色の広めのストライプシャツは、豊かな質量を持った胸にぴったりとフィットする形に膨らんでいる。皮のコルセットで絞められた細い腰からは純白の翼がふわりと揺れており、丸い下肢を包む太ももの前スリットが入ったスカートと、そこから伸びるストライプタイツとヒールの高いブーツに包まれた足には、爬虫類を思わせる外殻を持った、すべらかな尾が巻き付いていた。
「あ、の……?きみ?」
間抜けな顔で固まった少年に声を掛け少女が首を傾げると、切りそろえられた前髪から太めの困り眉がちらりと見えた。
「あっ、あの、僕、ダンテさんとはぐれてしまって、それで、あの」
「それで、アルマ女史の豊満なサンクチュアリに飛び込んで、精神の安定を図ったわけだ、いやあ少年その歳でやるものだねぇ、初対面では前人未到だよいやはや立派だ」
少年が慌てて少女に応えようとしていると、少年の真後ろから別の声が聞こえて少年の両肩が大きく跳ねた。
「もう!フランシスさん、子供相手に一体何を言っているんですか!」
困り顔で怒った少女は、大きく身を跳ねさせて固まった少年を引き寄せて声の主から隠すように細い腕で少年を抱きしめる。
「おやこれは私が悪者になるパターンだなぁ、潔く謝ろう。少年よ、許してくれたまえ」
怒った様子の少女の声に、低めの耳に柔らかく滑り込むような優しく聞こえる恭しい声が、少年に向かって謝罪を述べる。その声に応えるべく、豊かな胸に押しつぶされそうになっている少年が、声の方へと顔を向けると、そこに居たのはロマンスグレーの男性だった。
白髪交じりのグレーの髪を緩やかに後ろに流し、背筋に一本筋の通ったような姿勢の良い、ダークグレーの良質な生地の、仕立ての良さを感じられるダブルのスーツに身を包んだ男性。年齢を感じさせる程度に皺が入った肌には、蝋を思わせるような白さであり、口元には湛えた柔らかな笑みを湛えている。しかし、その眼は掛けられた黒のサングラスによって見えず、そのサングラスが紳士然とした姿形の雰囲気を一気に崩壊させていた。
「サングラスが無ければなぁ……あ、す、すみません」
少年の口から、思わずそんな言葉が漏れてしまうほどに、その雰囲気は壊れてしまっていた。
「はぁっはっは、言うじゃないか少年!」
そう声を上げて笑った目の前の、少年からすると胡散臭いおじさんの姿に、少年は眉を顰めた。驚きに継いだ驚きから解放され落ち着いた少年は、自分を抱きしめている少女に、当初の目的を伝える為一度その腕から解放してもらい、言葉を紡ぐ。
「僕、ダンテさんを探して、黒い廊下?みたいなのを歩いて来たんです」
「そうなんだ……よかった、やっぱり君がダンテさんたちが連れてきた子だったんだね」
少年の言葉を聞いて、少女は安心したように小さく息を吐き、上気した頬を綻ばせた。
「私はアルマ、ここチェイサー管理事務所≪イスラフィル≫で事務員をしているの。ダンテさんとヨハンさんとは同僚なのよ、よろしくね」
花が咲いたような笑みを浮かべたアルマに、少年もつられるように自然と笑みがこぼれる。
「僕は……名前を忘れてしまって、名乗ることはできないですが、よろしくお願いします」
そう言って頭を下げる少年に、少女が困ったような視線を送っていると、いつの間にか隣で腕を組み頷いていた男性の方からも声がかかる。
「私の名前はフランシス、気軽におじちゃまと呼んでくれたまえ」
少年は差し出された手を見つめ、そう大仰な動作で言ったフランシスの顔、サングラスの奥の目を見つめようとしたが、厚く黒い壁に阻まれそこに浮かぶ感情を読み取ることはできず、言葉の真意を確かめる事は出来なかったので、少年はその手を恐る恐る取った。
「……少年よ、一ついい言葉を教えておいてあげよう疑いは安全の母だ、覚えておきなさい」
「……それだと、自分は悪い奴だと言っているようなものでは」
「おや?これはそういう意味だったのか」
また声を上げて笑ったフランシスに、少年は力をそがれたようにがっくりとうなだれ、見かねたアルマが少年の背中を摩ってなぐさめると、彼の手を引いて部屋の奥へと案内をする。
「さあ、こっちですよ、どうぞ」
案内されるままアルマについていく少年は、ここにきてようやく辺りをぐるりと見回した。長方形の空間を8対2ほどの大きさで仕切る壁の横を通り、扉を開けて入った部屋でそこで少年は、ある違和感に気が付いた。
街の大通り、その端の静かなビルの路地裏から入ったはずだったのだが、大きな窓から覗くのは先程通ってきたビル群の頂上付近。その景色は、妙な回廊を抜ける中でアップダウンなどは一切感じなかった。それにも関わらず、自分たちが居るのは高層ビルの頂上付近だということを示している。少年がさらに混乱する前に、部屋の奥、大きな窓の正面に少年が歩いて来た廊下のような場所の方を向くようにして置かれた重厚感のあるデスクには、一人の女性がデスクに腰掛けていた。外からの光が、女性の姿を鮮烈に浮かび上がらせる。少年がその女性を見た第一印象は、まさに《苛烈》だった。
毛先に行くにつれバイオレットになる白の髪は毛先にかけて緩やかに波打っている、長い睫毛に縁取られた毛先と同じ色の瞳は黒の眼帯で片方が隠されているものの、残る右目の眼力はとても強く鋭いものだった。一つ一つが端正で豪華な造りの顔のパーツは、眼帯と、すべてを見下すような表情も相まって、非常に迫力がある。胸元の大きく開いた白のシャツを窮屈そうに押し開くような豊満な胸の下に、ほっそりとした女性らしい腕を回して組み、胸元には薄い青色の宝石がはめ込まれたブローチでとめられた黒の外套、黒のタイトスカートから伸びる白く女性の魅力に満ちたまろみあるラインの長い足は緩く組まれていた。その女性は視線を少年たちには向けておらず、やや下に向けたまま口を開く。
「お前たちが仕事に行くとき、私が何を言ったのか覚えているかしら」
その声は美しく耳に心地よいのに、氷の塊を飲み込まされたような迫力と耳に優しげな安心感の様なものが混在する、思わずひれ伏したくなるような威圧感のある声で、少年は思わずアルマの方に身を寄せる。するとアルマも少年の手を取って、小さな背中を優しく撫でてくれる。
「お仕事がんばって、しっかり稼いで来い……です」
続いて聞こえたのは、聞き覚えのある声だった。少年がその声に気づき、睥睨するかのような女性の視線を追うと、そこには小さくなっている見覚えのある人物が居た。
「ダンテさん……?」
少年が見たダンテは先程まで見ていた、自信にあふれた男の姿ではない。床の上に正座して、両手を膝の上に置いているダンテの横顔は、ひどく不安そうなものだった。
「ダンテ、じゃあお前の手の中に在るのはなぁに?」
「……アグリコラの角です」
にこりと笑った女性の言葉に、少しの間をもってダンテがおずおずと答える。恐る恐ると言った様子で女性を見上げたダンテと、女性の視線が合わさって、2・3度呼吸するほどの短い間が訪れる。女性がその美貌に完全なる笑みを浮かべると、大きく息を吸い込んだ。
「誰がそんなもん持ってこいって言ったぁ!この糞ガキが!」
「ごめんなさい!」
そこで爆発があったかのような衝撃が、少年の身体にも打ち付けられるようだった。びりびりと痺れる頬に、少年は思わず目を強く瞑る。ダンテの謝罪の言葉が、尾を股の間に仕舞い込む犬の悲鳴のように聞こえていた。
「お前みたいな間抜けが私の言葉を理解するには、もっと目いっぱい言い聞かせてやる必要がありそうだ。もちろん、私の国で一番残酷な方法でな」
「許してぇボス!」
涙目になりながら謝罪するダンテを、情けないとか滑稽だと思う以前に、口の両端を歪に引き上げ鋭くとがった犬歯をむき出しながら、悪魔のような笑みを浮かべる眼帯の女性を目の前に、大きな体を縮こまらせるダンテの様子が、少年の目には非常に哀れに映り、同情心しか湧いては来ない。
「俺らは徹夜で仕事してきたんだ。文句ばっか言ってんじゃねぇぞババア、キーキーとうるせぇんだよ」
誰も反論ができなさそうな迫力を有している眼帯の女性の言葉に、また別の男の声がかかる。それは少年もよく知った声で、その声の方を見ると、ダンテとは対照的に、デスクの前にコの字型に配置された応接ソファの一つに、気だるげに寝そべっているヨハンの姿があった。
「おいヨハン、何自分は関係ないみたいな顔してんだ、あ?」
「でけえ声で怒鳴りちらせばすぐ謝ると思うなよ、悪質クレーマーが」
女性の迫力に全く引けを取らない傍若無人なヨハンの態度に、女性は目の前で正座しているダンテの頭を、黒の手袋が嵌められた掌で鷲掴んで顔を上げさせ、その顔に自分の顔を近づける。
「……ダンテ、相棒との責任は?」
「連帯責任です!」
「基本的な事は良くわかってんじゃねーか、よぉしよし」
ダンテの言葉に満足げに頷いた眼帯の女性は、頭を撫でるというよりは、鷲掴んだまま手を回して、ダンテの頭ごとぐりんぐりんと回している。
「どうせお前が買ったケンカの後始末だろうが、健気なダンテを見習ったらどうなんだ?ヨハン」
ダンテの頭を離すと、先ほどの迫力をどこかにしまった眼帯の女性が、あきれ顔でヨハンを窘める。ヨハンはソファに体を横たえたまま、目を閉じて手をひらひらと振った。
「はいはい、すいませんね」
「すいませんじゃないだろう、『仕事は未完了の為報酬支払いは一時保留、件の仕事を早急に片づけられたし』、ってDMOのクソガキに言われたんだぞ、わかるか?報酬が入って来てねーんだよ」
どこかやる気なさ気なヨハンに、眼帯の女性は彼女の言うところの『クソガキ』の顔を思い出したのか、呪詛でも唱えるような重低音で語る。
しかしここに来てようやく部屋入口で立っていた3人に気が付いた女性は、アルマの姿を見とめると先程の悪魔も尻尾を巻いて逃げ出しそうな凶悪な笑みとはうって変わって、バラの蕾たちが一斉に咲いたような非常に魅力的で豪奢な笑みを浮かべた。
「あらアルマ、どうしたの?こっちにいらっしゃい」
「は、はいボス」
先ほどまでの低く荒れた口調を感じさせない、柔らかい口調で手招きをすると、アルマは頬をアカラメおずおずと少年の手を引いて女性の前まで歩いていく。
「えっと、あの、件の少年が、自力でここまで来ちゃったので、案内してきました」
「自力であの回廊を通ってきた?」
アルマは自分の後ろについて来た少年の手を引いて、その言葉に驚いたような表情を浮かべた女性の前に押し出した。彼女は、居心地悪そうにしている少年をまじまじと訝しげに見つめると、急にその視線を鋭いものへと変えた。
「お前は、一体何だ?」
一段と低くなった声が、少年を突き刺す。
「どうやってこの部屋までやってきた」
「えっとその、歩いて……」
「虚言で固まったその舌を引き抜く必要があるか?」
鋭い視線に、鋭い言葉。本当の事を言った少年は困惑して、眉根を寄せる。
「ほ、本当です……はじめは真っ暗で何も見えなかったけど、よく見たら光ってるような光っていない様な線が走って、その光を追いかけてきたら、急に扉が目の前に……」
震える声で必死に伝える少年に向けられた視線は、少年の説明が進むにつれてなお鋭くなる。何も言わない女性に対して、少年は続けて自分がなぜここにいるかの経緯を説明しようと口を開く。
「あ、あの僕、記憶喪失で困ってたところを、ヨハンさんとダンテさんに助けていただいて……」
「そんなことはそこのオセロが此処に帰って来る前から、アルマに聞いて知っている」
「えっ」
そんな少年の説明を遮って、女性は鋭い視線を少年に向ける。少年は女性の言葉に驚いてアルマを見ると、アルマは困ったような顔をしていた。
「あっ、私は事務員なので、メンバーのみなさんの情報は、常にボスに報告しているの」
困ったような笑みを浮かべ大したことではないという風に言ったアルマに、少年はまた背筋を冷たいもので撫でられるような感覚を味わった。
「お前は一体《何》だと聞いている」
その言葉に、少年がはっとして顔を上げる。窓から差し込み部屋にあふれた明るい光が、女性の背中を明るく照らす。先程までは見えていたはずの表情は全くうかがえないが、バイオレットの瞳だけがやけに爛々と輝き、少年は自分が何か巨大なものに捕らえられたような感覚を味わった。年端もいかない少年が感じるには大きすぎる恐怖に、その細い足は震え、腕が震え、心臓が早鐘のように全身に警告を打ち鳴らす。呼吸すらままならない様なプレッシャーの中、ブラックアウトしそうになっている少年と、その圧力を緩めようとしない女性の間に、やけに明るい調子の声がその空気を割って入ってきた。
「まーまー、ドレイクちゃん。そう怒らないで小じわが目立っちゃうヨ」
緊迫感で少年と女性に視線が集まっているなか、いつの間にか女性の横に立っていたフランシスが、自分がドレイクと呼んだ女性の肩に手を置いて、おそらくウインクをしたのだろう、小首を傾げて見せると、彼女の柔らかな頬を、手袋をした手の人差し指でかるくつっついた。
「……フランシス」
女性から地を這うような低い声が、部屋中にやけに鮮明に響く。
「遺言はあるか」
すっと身を引いたドレイクの顔が、少年にもはっきりと見える。物騒な言葉を聞き間違いかと錯覚しそうな、聖女を思わせるような穏やかな笑みを浮かべていた。
「冗談じゃん?若いコと戯れる君が羨ましくてした、ちょっとしたジョークじゃん?」
その場の誰もが凍り付いていたその空気の中。はっはっはと、朗らかな声を上げて笑うフランシスに、今度はドレイクのほうも声を上げて笑っていたが。
「なるほどお前はいつも巧みに私を笑わせてくれるな……お前自身の事をな!」
低い声で唸るように言った女性は、まだ笑っているフランシスの頬を、ヨハンの殴打よりも、少なくとも少年の目には移らないほどの鋭い速さで打った。
しかし鋭く打たれたはずだったフランシスの頬は、ふらりと後ろに態勢を傾けたフランシスによって避けられた。女性の手が空を鋭く切った後、飄々とした様子で口笛を吹いたフランシスは、口元に柔らかく笑みを浮かべたのだった。
「ちっ、お前の仕置きは後だ、フランシス……。少年、私の名前はドレイク、チェイサー管理会社イスラフィルの社長だ。少年は……いや、ずっと少年って呼ぶのもなんだ、名前は何がいい」
「へ」
恐ろしい声を出してフランシスに毒づいたあと、冷静になった様子のドレイクの急な言葉に、少年が目を丸くしてドレイクを見上げると、先程まであったる獣のような、獰猛な輝きの宿る瞳の色は無くなっていた。
「じゃあダンテ、何か名前つけてやれ」
「え、俺?」
急に話題を振られたダンテは、意外そうに眼を見開いたが、すぐに首をひねって目を閉じる。
「え、え……?」
自分の事の筈なのにもかかわらず、目まぐるしく展開していくその話に、まったくついていけていない少年が、困惑してダンテとドレイクを交互に見るが、二人に少年の事を気にする様子はまるでない。アルマも苦笑いを浮かべるだけで、ヨハンは無視を決め込んだのか目を開けもしない。フランシスに至っては、「良かったなぁ少年」と少年の頭をふわふわと撫でてくる始末だった。
「そうだなー、じゃあ《ノア》はどうですかね?」
「それは、何か意味があって言ってるのか?」
ほどなくしてダンテがだした答えに、ドレイクが小首をかしげて問いかける。
「ヨハンが最近ハマってる、バンドの名前っす。こいつ目の中に月みたいな虹彩?があるんで、今の話題曲にちなんで」
ついさっきのドレイクに怯えた姿はどこへやら、歯をみせて笑うダンテがドレイクに説明すると、ドレイクはふぅんと息を漏らし、少年の顎を掴んでその瞳を覗きこむ。すると、納得したように頷いて、少年の顎から手を離し満面に笑みを浮かべる。
「なるほどな。お前みたいな愚か者でも、たまにはいいセンスを発揮するもんだな、気に入った。……ノア、お前が何者か、答えられないのはもうこの際仕方がないとしよう。この二人が責任もって面倒を見ると言ったそうだから、今日のところは、どちらかの家に泊まるといい」
「え?」
急な提案に少年は目を丸くしたが、少年よりも大きな声を上げたのはヨハンだった。
「おいちょっと待てババァ!何でそうなんだよ!」
不満そうな声を上げたヨハンに対し、ダンテはおずおずと右手を上げ言いにくそうにドレイクに言う。
「あのボス……今日俺夜はあっちの仕事なんで、子供の面倒は見られませんよ?」
「そうか。ならヨハンの家に泊まると良い」
ダンテの言葉に頷いたドレイクは、少年の頭に手を置いた。当然のことながらヨハンは声を荒げて抗議する。
「ハァ?ふっざけんなババア!俺だって大事な、そう大事な用事が!んぐ……」
「大事な用事」と繰り返すヨハンの細い顎を、ドレイクが勢いよく掴む。がっしりと掴まれた力はよほど強いのか、男のヨハンですら振り解くことができず、その女性らしい細い腕を掴んで呻いていた。言葉を止めさせ満足そうに頷いたドレイクは、もがくヨハンの顔に自分の顔を近づけると恐ろしく邪悪な笑みを浮かべた。
「……お前らこの少年に面倒を見ると言ったんだろ。それは彼と結んだ契約に等しい……契約は遵守するべきものだって、バカでもわかるだろう……ん?」
「うぐ……」
ドレイクの圧力のある言葉に対して物理的にも、精神的にも言いかえすことができなくなったヨハンは、呻きながらも渋々頷いた。大人しくなったヨハンを満足げに見た後、ボスはヨハンの頬に軽く口づけて顎を放し、「何しやがる」と不満そうな声で騒ぐヨハンの声を、笑いながら聴き流しデスクへと戻る。嫌そうに顎を押さえているヨハンの背中を少年が見つめていると、心底嫌そうな顔で振り返ったヨハンは、しばらく少年を睨みつけてから諦めたように頭を振った。
「チッ……おい、家へ来ても騒ぐんじゃねぇぞ」
「ヨハンの家か……まあ、一晩くらいなら大丈夫か」
そんなため息交じりの相棒の言葉を聞いていたダンテが、考え込むように誰にともなくそう呟くと、ヨハンは横腹を小突いて睨みあげる。小突かれた当の本人はへらりとした笑みをヨハンに向け、向けられた方はと言うと苦虫をかみつぶしたかのような顔で低い声を出す。
「何が、言いたいんだ」
「いや~ぁ、何も……そうだ、なあノア」
「……は、はいっ!」
相棒の言い含む明るい言葉に何度も脇腹を小突いてくるヨハンだったが、ダンテは相棒からの抗議を茶化すように、二人のやり取りを目を丸くして首を傾けてみていた少年に向かって声を掛ける。急に話を振られた少年が慌ててダンテの方を見上げると、《ノア》と言う名前にしっかり反応を返した少年にダンテは笑みを浮かべた。ノアは大きな目を数度瞬かせてから、ダンテの笑みの意図を汲んだのか気恥ずかしそうに頬を染めてはにかんだ。
「じゃあ、一晩の辛抱だ。がんばれ!」
「……い、いやー!なんだかとっても嫌な予感しかしません!」
サムズアップして爽やかな笑みを浮かべたダンテの言葉が、いったい何を意味するのか理解できず、理解できないからこその不安からノアは悲鳴に似た叫びをあげた。その後ヨハンの足がダンテの尻に叩きこまれ、ドレイクの怒声が飛んだのだった。




