[ 第一章 遭遇] 2
「あの、ヨハンさん」
「何だよ」
「本当にこの建物なんですか」
「テメーの言いたいことはわかる、でもここだ」
騒がしい街中を通り、人通りも随分と少なくなった通りの、とある建物の前に二人は立っていた。
「あいつ、俺一人に押しつけやがって」
舌打ち交じりにそう吐き捨てたヨハンと、不安そうに建物を見上げる少年の前には、長く雨と風に削られて毛羽立ち、変色してしまったレンガで造られた、こじんまりした建物。少年が、そのお世辞にも綺麗とは言えない外観の建物を、不安そうに見上げるのには理由があった。
「病院……ですか」
決して見るからに不衛生という訳ではないものの、病院とはお世辞にも言えないような、清潔感があるとは言い難い古い建物。その建物とヨハンを、交互に見ている少年の気持ちを察してか、ヨハンはひとつため息を落とす。
「腕は確かだ、……そう、腕は……」
少年の不安そうな視線を、そんな言葉で避けるようにして、ヨハンが入口の扉を押し開ける。油の刺されていない蝶番が不快な音を立てて、古くなった木製の扉が開かれた。肩に落ちた細かい埃を気にする様子もなく、ヨハンは昼間にも関わらず、薄暗い屋内へと足を進めていく。
その背に続こうとした少年は何かを感じたように急に立ち止まり、くるりと後ろを振り返る。病院の前にある道を挟んだ向かい、ビルとビルの間の細い道に人影があった。その姿をよく見ようと、息を詰めて目を凝らす。
その人影に黒い靄がかかっているように見え、はっきりと見ることはできないが、それは男のようで、姿は靄がかかったように見えづらいにも関わらず、うつろに淀んだ目が、少年をじっと見つめているのが、なぜかはっきりとわかって肌が粟立つ。
「おい、早く入れよ」
ぞっとして男から視線を逸らしていた少年に、ヨハンの声がかかる。弾かれたように少年が振り返ると、呆れた様子で少年を見ていた青い瞳とかち合った。
「あっ、す、すみません」
少年はそう言いつつも、もう一度向かいの路地へ恐る恐る視線を戻すが、人影は忽然と無くなっていた。見間違いかと首を傾げた少年だったが、ヨハンに苛立ったような声を再びかけられ、慌てて先に歩いて行こうとしているヨハンの背を追った。
薄暗くはあるが、中の様子は外の様子とは少し違っていた。古びてはいるもののしっかりと磨かれた床は深みのある光沢を放ち、壁のランプは少し光が弱いが、埃がかかった様子も見当たらず、手入れが行き届いている。
「そこに居るのはヨハンちゃん?」
扉を抜けたところで立ち止まったままのヨハンと、辺りを見回している少年に、優しげだがやたらと低い声が掛けられる。短く返事を返すヨハンの背から顔を出した少年は、ヨハンに声を掛けた人物を見て、完全に固まった。
「あらぁ、かぁわいい!ぼく、はじめましてぇ。アタシはマリリンよ、よろしくねぇん」
身体でしなをつくり、ヨハンの後ろから顔を覗かせる少年に顔を近づけ、器用にウインクをして見せる。
ミルクチョコレートのような褐色の肌、両サイドを刈り上げた黒のドレッドヘアを一本だけ顔の横に垂らしたオールバックの形で後ろに流して纏め、頭には白のナースキャップがちょこんと乗っている。耳の上を付け根にして耳の後ろ側を通って外へ向かい、捩れてのびる大きな角は、山羊か羊のものを思わせるような表面と色をしていた。顔を見ようとすると180センチほどあるヨハンでも、顎が上がるほどの長身と、筋肉が盛り上がる逞しい体躯、そしてそれらを包む純白のナース服。
ナース服のスカート部分の丈は非常に短く、太ももの辺りまでしかない。そこから覗く白のガータータイツは、はち切れんばかりに足の筋肉を包んでいた。
女性用のナース服を着用してはいるが、彫の深いその顔の顎部分には、きちんと整えられた髭が生えており、その人物が女性ではないことをはっきり物語っている。
「うふふ、固まっちゃって、照れてるのぉ?んもぉ、かわいいんだから」
「いや、どう見ても怯えてんだろ」
あんぐりと口を開けたままの少年と、あきれ顔で首を振ったヨハンを見て、マリリンはきょとんとして黄色の瞳を丸くすると、人差し指を頬にあて考える素振りを見せる。
「この子どうしたの?あっ!まさかヨハンちゃんの隠し子……」
「そんなわけねぇだろ。おっさん、居るんだろ」
身体をくねらせているマリリンの言葉に、ヨハンは深いため息と共に首を振ると、要件を伝える。
「おっさんじゃなくて、せ・ん・せ・い!んもぅ、まあいいわ。ついてらっしゃい」
おっさんと言う単語を聞き、頬を膨らまして腰に手を当てたマリリンだったが、じと目のヨハンと、不思議そうに見上げてくる少年を見ると、にこりと笑ってくるりと踵を返した。
「まぁ、あれだ。あんなナリで驚くのはわかるが……」
マリリンの背を見送って大きなため息を吐いたヨハンが、固まったままの少年に声を掛けようと振り返ると、少年の漏らした言葉に目を丸くする。
「つの、が、ある……」
「お前……」
瞳を揺らして眉尻を下げる少年の様子を見ていたヨハンだったが、奥から自分たちを呼ぶマリリンの声を聴き、頭を掻いて少年の背を軽くたたく。
「ぅ、わあ、ヨハンさんっ、あのっ、あの人角、が」
「行くぞ」
目を白黒させる少年に視線を向けることなく、ヨハンは真っ直ぐ伸びる廊下の奥へと向かっていく。そんな背中を不安げに見つめてから、少年もその背に続いた。薄暗い廊下を少し進むと、廊下の最奥の扉が開いており、その前にはマリリンが腰に手を当て立っていた。
「さ、お入りなさい」
ウインクしたマリリンにより促され、二人は部屋の中に通された。二人が部屋に入ると背後の扉が閉められて、木製の床が軋む音がだんだんと遠ざかって行くのが聞こえた。
部屋に入ってすぐ、扉の正面には古い、よく言えばアンティークのデスクが置かれており、その上はたくさんのファイルや、紙の束、そしてカップで埋め尽くされていた。窓は見当たらず、ライトが部屋を照らしていた。
お世辞にも整頓されているとは言えない机の向こう、草臥れた革のデスクチェア、そこに深く腰かける人物が部屋に入ってきた二人を見ると、姿勢を起こして机に肘をついた。
櫛も通していないのであろうぼさぼさと広がるランプブラックの髪に無精ひげ、皺のついた白衣とよれよれのYシャツという格好の男が、ヨハンに向かって声を掛ける。
「よぉ、よく来たなヨハン。また怪我か?今日はダンテの奴はどうした」
「いや怪我は……って、別にあいつと何時も一緒って訳じゃねえよ?」
男の言葉に不満そうにしているヨハンには反応を返さず、眼鏡のガラス越しの怠そうな半眼が、少年とヨハンを交互に見て、組んだ手を顎の下に置くと納得したように意味を持たない声を出した。そうして、立ち上がって少年の前まで来ると屈むようにして少年と視線をあわせ口の端に笑みを浮かべる。
「俺はこの病院唯一の医師、ヴィンフリート・ヴィンバルド・テオドール……あー、長ぇからテキトーに省略して呼んで……いや、テオ先生とでも呼んでくれや」
ヴィンフリートの自己紹介に、少年はおずおずと口を開く。
「テオ先生、ですか。あの、僕は……」
「ん?」
自己紹介を返そうとして言い淀んだ少年の俯いたつむじを見ながら、ヴィンフリートは首を傾げたあと、ヨハンへと視線を向ける。説明を求める視線を受けて、ヨハンは大きく息を吐き出し面倒くさいという思いを隠しもせず顔に表すと、口を開いた。
「そいつ名前も家も両親も何もわかんねーってよ、こういうのはお医者サマなら得意なんだろ?」
「ふむ」
興味深そうに顎を撫で頷いたヴィンフリートは、眼鏡を押し上げると少年に質問と投げかける。
「君、名前や町の名前はわからないけど、物の固有名詞についてはわかるかな」
「へ、......あ。はい、病院が治療を受ける場所だとか、先生が掛けているのが眼鏡だとか、そういうことであればわかります」
何度か頷き、少年の顎を両手で挟むように上を向かせたり下をむかせたり、左右に傾けたりしている。
「種族についてはどうかな、たとえばこの世界に居る人型種族は大きく括って全部で6種類だが」
「えっと、すみません。それはわかりません、さっきマリリンさんにも少し驚いてしまって」
ヴィンフリートのするに任せて、おずおずと答えた少年は上を見るように指示されると上を見たり、口を開けるように言われると口を開けていた。従順に指示に従う少年の様子を観察していたヴィンフリートは、小さく息を吐いて頷く。
「なるほどな、記憶喪失っていうのにしてもちょっとばかし妙だな……マリリン!」
少年の頭から手を離し姿勢を戻したヴィンフリートが、二人の背後にある扉に向かって声を掛ける。すると一拍の後声が返ってきて、開いた扉からマリリンが顔を覗かせた。にこやかなマリリンの後ろには、もう一つ人影が見える。
「はぁい、先生。ダンテさんがお越しですよぉ」
「お邪魔します、ヴィリーせんせ」
病院に入る前に一時別行動を取っていたダンテが、白い歯を見せてにこやかに入ってくると、ヴィンフリートは二・三度瞬きをしてヨハンを見る。
「何だ、やっぱり今日も一緒じゃねぇか」
その言葉にヨハンは舌打ちをしてダンテを睨むが、睨まれた方はというとその視線に笑顔で首を傾げていた。
「先生、アタシに何か御用ですかぁ?」
腰に手を当て小首を傾げ、目を瞬かせるマリリンに、ヴィンフリートはそうだと頷いた。
「この子、記憶をどっか落っことしてきたみたいでな。軽く診察するから、先に問診やっといてくれるか」
「あらぁ!そうだったの?こんな小さいのに可哀想にねぇ……」
やる気がなさそうなヴィンフリートの言葉を聞いて眉尻を下げたマリリンは少年の視線に合わせナース服の裾を押さえて床に膝をつく。
「あ、いえ、そこまで大変でも、ない、です」
そんなマリリンの姿に戸惑いつつも、少年はぎこちない笑みを返す。そんな少年の健気な姿に感動したのか、マリリンは少年を一度抱きしめて、驚きに目を見開いた少年を抱っこの形で抱え上げた。
「じゃあ隣の診察室に行きましょうね、心配しなくてもお兄ちゃんたちも見えるところに居てくれるから、大丈夫よぉ」
「はぁ……」
デスクの置かれた部屋は、部屋の半分ほどを透明な壁で区切った形になっている。使い古された診察台が置かれた診察室が、デスクの置かれたスペースの隣にある形になっていた。抱えられた少年は、ぎこちない笑みで曖昧に返事を返し、されるがままに連れて行かれる。
そんな姿をヨハンは引き攣った顔で、ダンテはほほえましげに笑いながら、ヴィンフリートはぼんやりとその姿を見送ったのだった。
顔を引き攣らせていたヨハンが頭を振ると、不機嫌そうな視線を、壁越しに行われている問診をほほえましげに見ていたダンテに向ける。
「……ダンテ、お前どこ行ってたんだ」
「あの子の捜索願が出てないかと思って、近くの交番の知り合いに聞きに行ってたんだよ。まぁ、アテは外れたけどな」
ため息交じりに肩を竦めて見せたダンテに、ヨハンは不機嫌そうな顔のまま首を傾げる。
「何があったんだよ」
「全員出払っていて話は聞けずじまい。本庁の方の友達にも電話したけど、どうやらでかい事件で総動員されてんだってよ」
「迷子どころじゃねーってか」
大げさにやれやれと首を振ったダンテをよそに、ヨハンがひらめいたとばかりに手をうって、成り行きを見守っていたヴィンフリートに声を掛ける。
「ヴィリー」
「無理だな」
ヨハンが名前を呼んだ時点で、ヴィンフリートは首を振って即答した。
「お前たちが拾ってきたんだろ?だったらお前たちが責任持ちなさいな」
ヴィンフリートは、まだ何も、と口を開きかけたヨハンを手で制しながら、言葉の頭を強くそう言って、ヨハンが黙ったのを見とめると、頭を掻いて診察室へと入ってしまった。
「……だってよダンテ」
「俺だけに押し付ける気だなヨハン、そうはさせねぇぞ」
しばらくの沈黙のあと、視線を向けずに言ったヨハンに、ダンテはすかさずヨハンの両肩を掴み、無理やり視線を合わせようとする。
「そもそもお前が初めに関わったんだろ、おいこっち見ろ」
身を捩ってダンテの手から逃れようとするヨハンだったが、彼の腕の力は存外強く、掴まれた肩は痛くはないが、その手を振り解くことができないほどがっちりとホールドされていた。
「うるせぇな、お前が勝手に面倒見るとか言ったんだろうが」
頭ごと逸らしながら頑なに視線を合わせず吐き捨てるヨハンに、絶対に視線を合わせてやろうとヨハンの肩をがっちりと掴み、体ごと動かして視線を合わせようとするダンテの言葉が続く。
「そりゃ記憶喪失の子供がいたら、病院とか警察とか連れてくだろ、関わっちまった限りは!」
「はー優しいなーお前は、スゲーわ、やっぱお前が面倒見ろよ」
「とりあえず面倒見るっていうのに、お前も同意したよな?おい、目ぇ逸らすな、こっち見ろヨハン、おい」
「うるせぇ、やめろ、こっちみんな」
「あの……」
少年の事を押し付けあう2人の言葉の応酬に、控えめな声がかかる。言い争っていた二人は、ぴたりと固まり、ぎぎぎと錆びたロボットのような動きで声のした方を見る。そこには眉根を寄せて二人を見上げる少年と、後ろで文字通り鬼の形相を浮かべ、腕を組んで仁王立ちするマリリンの姿があった。
「アンタたち血も涙もないの⁉その性根叩きなおしてやるからそこになおりなさい!」
「ごご、ごめんなさーい!」
「悪かったって!」
しなのある声がドスの利いた低い声に変わるほど、怒りをあらわにするマリリンのあまりの形相に、先ほどまで言い争っていたダンテとヨハンは、お互いの身を寄せて情けない声を上げた。
「ま、マリリンさん、いいんです!」
膨張したように見える見事すぎる筋肉によって、はち切れんばかりに張ったナース服を掴めなかった少年が、マリリンの手を取って制止する。
「お二人が見ず知らずの僕を助けてくださっただけで、感謝してもしきれません。それにこれ以上ご迷惑をおかけするのも心苦しいので、あとは僕、自分で何とかしてみます。心配してくださって、ありがとうございました」
子供らしからぬ事を言って、小さな頭を下げた少年の健気な姿に、マリリンの怒りは瞬時にしぼみ、涙を浮かべて少年を抱きしめる。
「あぁんもぉ、なんて健気なの!あなたはまだ子供なんだから、そんなこと考えないでいいのよぉ」
少年を抱きしめて頭を撫で、目に涙を浮かべるマリリンに、少年はやはり困ったようにはにかんだ。
「でも、お二人もその、ご迷惑でしょうし」
そう言っておずおずとお互いを抱きしめて固まっていたダンテとヨハンを見上げると、見上げられた二人はお互い顔を見合わせてお互いの距離を認識したのか嫌そうに離れ、それぞればつの悪そうな顔をした。
しかし、それも肩越しに振り返ったマリリンの鬼の形相を見て、ひきつった表情に変わる。
「件の事件が片付いたら、警察も動いてくれるだろ?ならそれまで、自分たちで責任をもって、あの子の面倒見てやんなさいね」
ダメ押しとばかりに、後ろでやる気なさ気に4人の姿を見守っていたヴィンフリートが口を開き、その言葉を聞いたダンテとヨハンは視線をお互いに向ける。その内ヨハンは舌打ちをして視線を逸らし、ダンテは少し困ったような笑みを浮かべた。
「とりあえず、一度事務所に帰らないといけないから、それまで預かってもら……」
「今から軽く検査だけするから、お前らちょっと待ってろよ」
「……了解デス」
ダンテの言葉を遮って、ヴィンフリートが釘を刺すと、ダンテは肩を竦めて見せた。
目の前で繰り広げられた様子に二の句が告げられず、少年が困ったようにダンテに視線を向けると、困ったような笑顔で手を振られ、続けてマリリンを見上げると、優しい笑みで頷かれたのだった。
◆
「このお兄さんたちに少しでも嫌な事をされたら、すぐに私に言いにいらっしゃいね」
そう言って笑顔で手を振るマリリンに見送られ、3人は病院の玄関を出た。
「すみません、結局こうなってしまって」
「気にするなよ、面倒見るって言ったのは俺達だからな」
申し訳なさそうにしている少年に、ダンテが軽い調子で笑いかける。
「ババアの所行く前に、何か食いに行ってくるわ」
「じゃあ俺達も一緒に……」
深いため息と共に低い声でそう言ったヨハンは踵を返すと、ダンテの言葉に肩越しに手をひらりと振り、返事はせず振り返ることもなく歩いていく。その様子を見ていたダンテはその背が遠のくのを無言で見送った後、しゃがんで少年に笑いかける。
「悪いな、昨日徹夜仕事だったせいで、ヨハンはちょっと気が立ってるんだ。あんまり気にするなよ」
「そうだったんですね、お疲れ様です」
律儀にそう返した少年に、ダンテは複雑そうな表情を浮かべた。
「じゃあ、俺達も行くか」
ヨハンとは反対方向に足を向けたダンテと、小さくなっていく黒いコートの背中を交互に見てから、少年はダンテの背を追って、小走りになる。その時少年はちらりと診療所向かいを見たが、やはり先程の人影はなく、ただ薄暗い路地が横たわっているだけだった。




