[ 序章 石が流れて木の葉が沈む ]
この街は、夜の帳を知らない。
しかしそれは人々が決まり文句のように口にする言葉であり、実際に闇は、ある。
賑やかな大通りから少し外れただけの小さな路地は、打って変わって静まり返っていた。街灯と建物から漏れる明かりで足元は見えるが、ネオンの煌びやかさに比べれば格段に劣る。
薄暗い路地を、少し気味悪さを感じながら赤毛の少年、ノアは、買い物袋を片手に進んでいた。
事務所から住居までの道のりは覚えたとは言え、ならず者の多いこの街で人気の少ない夜の道は警戒するに越した事はない。夜道は出歩くなと注意されていたにもかかわらず、日がすっかり落ちきった時間帯の帰宅になってしまったのは、少年の悪癖が出てしまったためなので、そこは大いに反省した。
機械を。特にマキナに触れていると、つい時間を忘れてしまう。そんなノアが初めて任された仕事は、恩人でもある人のマキナを修理、調整をすることだった。明日、やっとの思いで彼に渡すことができる。そのことに、気持ちは浮き足立っていたせいもある。
気が付いたらこの街にいて、記憶も無くぼんやりと佇んでいたノアが、そこで出会った二人の男に助けられたのが約二週間ほど前の出来事だ。その騒動の最中、男の一人が愛用していた銃型のマキナが壊れた。
事件の果てに発覚したのは、ノアは人間のどの種族にも属さない、次元を超えてやってくるアルスマグナという生命体が、この次元に肉体を得た存在だった。
しかしこの姿で受肉した時点で、当世界で言うところのアルスマグナとは厳密には異なってしまっているらしいのだが、ノア自身にとってもその辺りは理解していない。ただ、自分がこの世界で異質な存在であることは理解でき、途方に暮れたが、幸いにもノアには、魔力を見る特異な“眼”と、マキナを扱う知識と技術、そして自分を受け入れてくれる人々があった。
アルスマグナという得体の知れない子どもを助けた彼ら、更には雇い入れ仕事を与えてくれたイスラフィルの面々には感謝しかない。彼らに、仕事で報いることができる第一歩だ。
明日が楽しみだと意気込んでいると、暗闇に怯えていた自分などすっかり忘れ、住居にしているアパートが目の前にあった。
二階建てでさほど大きくはないが、赤レンガ風の外壁が少しレトロさを醸し出している。ここも一応、イスラフィルの人々が見つけてくれた物件だ。中央にある正面玄関から続く階段を昇り右へ曲がり、ひと部屋通り越した端の部屋が、ノアに宛がわれた一室だった。
鍵を回し部屋へ入るとまずは冷蔵庫の前で荷物を下ろし、廊下へ出て脱衣所にある洗面台で手洗いうがいを済ませる。夕食の準備を始めようと腕まくりしたところで、きんこんとインターホンが鳴った。まだ宵の口とは言え人の家を尋ねるには非常識と思えるこの時間。何かのセールスだろうかと逡巡すること僅か数秒、再度インターホンの電子音が鳴る。それもただ鳴らされたのではない。ボタンが哀れなくらい連打されているであろう事が容易に想像できるほど、無機質な電子音が断続してけたたましく響き渡った。
「えぇ……」
尋ね人の苛立ちが伝わってくるような怒涛の連撃に、思わず困惑の声を上げる。
そもそも、はじめのインターホンが鳴ってから、僅かしか経っていないのにこの怒りよう。どれだけ短気なのかと、それでも無視をするわけにもいかず少しだけ玄関のドアを開け、誰だろうかと恐る恐る覗いてみる。
「おっせぇなオイ! いるんならさっさと出やがれ!」
僅かだけ開けていたドアを強引にこじ開け、眉間に皺を刻み犬歯を剥き出しに憤慨するのは黒髪の麗人。以前ノアを助けてくれた男二人組みの一人、今は仕事仲間でもあるヨハンだった。
◆
「はあ、チェイサー試験」
成り行き上、二人で会話の少ない夕飯を済ませ、ようやく突然の来訪の理由をぽつりと漏らしたヨハンの言葉を、気の抜けた声でノアは復唱した。
ヨハンたち、チェイサーには格付けがなされている。最高ランクのキングから始まり、以下クイーン、ルーク、ビショップ、ナイト、ポーンの順にランクが落ちる。格によって様々な特権が付随するため、彼らは日々上を目指して精進しているのだ。昇格のためには実力は勿論のこと、チェイサーの管理も行っているDMOが実施する筆記試験に合格する必要がある。
そして、聞けば今、目の前でだらしなく頬杖をついているヨハンのランクは最下位のポーンらしい。彼の実力、特に魔法の腕前は素人のノアの目から見ても常人より突出していると感じるにも関わらず、意外にも低いランクに位置していた。
当人も実力に関しては自信があるようだが、どうやら筆記試験で落ちるとのこと。そこで、ヨハンがノアを訪ねてきた理由に繋がる。それでもノアには合点がいかなかった。
「勉強を教えてほしいって言われても、僕技術者ですし。チェイサーのことなんてさっぱり分かりませんよ?」
困惑を滲ませて、ノアはヨハンを見る。正面に座るヨハンの、バツが悪そうな視線と絡んだ。
「別にお前にチェイサーのこと教えろなんて思ってねえよ。俺が分かんねぇのは、こっちの方」
小首を傾げつつノアは、いつもの尊大さとは全く異なる殊勝さでおずおずと差し出された物を覗き見る。机の上にそっと置かれたのは、手の平サイズの小さめな本。どうやらこの街でも使われている公用語の単語帳だった。更に、よく見るとこれは子ども向けの簡単な物で、ノアは重ねて困惑した。
「……えと」
「お前だって、記憶が無いって言っても読み書きはできるんだろ?」
ノアは小さく頷いた。
記憶が無いと言えば大層な事に聞こえるが、ノアはこの次元で人として積み重ねた経験が無かっただけだ。それでもどういう訳か、この世界で生活する上で必要最低限の知識は、問題なく備えていた。
不思議なのは、ヨハンは流暢な発音で公用語を喋っている事。異国の出身で公用語が苦手だと言うなら話は分かるが、そういう訳ではなさそうだ。
言いにくいことは承知の上で、ノアは恐る恐る指摘した。
「でも、これじゃ小学校レベルですよ? あれだけ複雑怪奇な術式をぱっぱらと使ってるじゃないですか」
これでは、あまりにも。
ノアの言わんとしている事を察したのか、ヨハンは『あー』と何やら言い淀むように、がりがりと後頭部をかいた。
「俺は学校なんてもんに行ったことがねぇ」
「え……」
ヨハンの口からさらりと飛び出したその言葉の意味を反芻する。
世間一般で言う当たり前を、当たり前に過ごすことが出来なかった人間はいる。一体どのような生い立ちなら、初等教育すらうけられない環境で育つだろう。様々な憶測が駆け巡り、ノアは顔を青くした。
「俺みたいなヤツなんざ世の中吐いて捨てるほどいる。何でか、この街にはそう言うやつが集まってくる。……だから、そんな顔するくらいならうかつに踏み込まないこったな」
言って、ヨハンは眉尻を下げしょぼくれていたノアの額を軽く指で弾いた。
明らかに地雷と思われる部分に踏み込んだにも関わらず、怒るどころか優しさすら感じられ、ノアはじわりと熱を持った額を撫でる。
「あー、まあ、アレだ。別にお前が気に病む必要は……」
「ヨハンさん!」
「おわっ」
がたん、と突然音を立て身を乗り出すノアに、ヨハンは驚いて目を丸くする。
「僕に出来る事があれば何でも言ってください! 全力でお手伝いしますから!」
「お、おう……」
熱くなったところで、ノアははたと気が付いた。最近知り合ったばかりの自分なんてしゃしゃり出なくとも、ヨハンにはもっと信頼のおける相棒がいるではないか、と。
「そういえば、ダンテさんはこのことご存じなんですか?」
ピクリと、ヨハンの片眉が器用に跳ねた。
「何でそこでアイツの名前が出てくるんだよ」
唸る様な低音。しかし、気分を害したという訳ではなく、どちらかと言えばノアには拗ねているような印象を受けた。ダンテとセットである事を示唆すると、ヨハンはいつも臍を曲げる。
「アイツは俺の事くらい知ってるよ。……そうだ、お前、俺がお前に教えてほしいって頼んだ事、アイツには絶対言うんじゃねぇぞ」
「え、何でですか」
「……お前、どんどん図々しくなるな」
思わずポロリと零れた疑問をぶつけられたヨハンは、あからさまに顰め面を作る。
つい先ほど注意されたばかりなのに、またやってしまった、とノアは気がついた。
しかし、二人に助けられたノアの印象としては、ダンテは非常に面倒見のいい男だった。ヨハンが困っていると知ったなら、無下にはせず当然助けの手を差し伸べるはずである。最近知り合ったばかりのノアより、ダンテの方を頼るのが自然だと思えた。
ノアが抱く疑問は至極当然であると理解できるヨハンは、ヤケクソ気味にがりがりと頭を掻き毟った。
「あーもうくそ。教えてやるよ。これで貸し借り無しだかんな」
貸し借りもなにも、ノアにとっては大きな、返しきれそうにも無いほど大きな借りがあるので気にしなくてもいいと思うのだが、ヨハンは妙なところで律儀さを発揮している。恐らくそこを指摘すれば口を閉ざしてしまうので、この街に住み着いてから段々と強かさを身につけつつあるノアは黙っておく事にした。
「アイツはナイト。俺より年下のくせにチェイサー暦も長い上に、ランクも上だ。……一応相棒だっつってんのに、かっこ悪ぃだろうが。色々と」
ダンテの手を借りずに試験に合格する事。それがヨハンの矜持らしい。
初めて会ったときは何と怖い人だろうと思った。彫刻のように綺麗な外見をしているから、無表情で黙っていられると壁を感じるのだ。
今はこうして話をしてくれる。会話を交わすようになれば、人となりも分かってくる。尋常ではなく短気で乱暴だが、意外と表情は豊かで悪い人ではない。言い辛いであろうこともノアに教えてくれた。
ノアにはそれが言い様もなく嬉しく感じた。認められているみたいで。
「わかりました。約束します。じゃあさっそく始めましょうか」
打ち解けた空気になりかけた時だった。
二人の会話を遮るように、ノアにとっては本日二度目のインターホンが鳴った。
時間が時間だけに、二人は顔を見合わせる。顰め面を作るヨハンは『出るべきではない』と、言外に訴えていた。
約束を取り付けた覚えもないのに夜更けに鳴るインターホンは、誰でも警戒する。当然である。どうしようか逡巡していたノアのスマートフォンが短く鳴った。
「あれ?」
メッセージアプリに届いた内容を確認したノアは、すかさず玄関へ走る。と、思いきや、すぐさま引き返したノアが廊下からひょっこり顔を出した。
「ヨハンさん、それ、仕舞ってください」
それ、と言いながらヨハンが持ってきた単語帳を指差したあと、ノアはすぐ玄関へと小走りしていく。小首を傾げながら指示に従い懐へ戻し、家主の行動に任せるまま大人しく頬杖をついてぼんやりと待っていたヨハンは、ノアが連れて戻って来た人物を見て、かくん、と支えにしていた手から頭を落とした。
「あれ? 何だヨハン、こんなとこにいたのか。お元気?」
噂をすれば何とやら。ノアの後に続くように姿を見せたのは、褐色の肌によく映える白い歯を見せてにっこりと笑みを浮かべ、手をひらひらと振るダンテだった。
「なんでアンタがここに来るんだ。夜はあっちの仕事って言ってたじゃねぇか」
「それがさぁ、ちょっと拾い物しちまって……急遽休み貰ってきた」
ダンテはくるりと背を見せる。ヨハンたちと年齢のそう変わらなそうな翼のある青年が、ぐったりと意識のない様子でダンテの広い背に背負われていた。
「アンタ何してんだ! プじゃねぇんだぞ!?」
ヨハンが焦った様子で怒鳴る。
プとは、正式名称スレイプニル。足が六本あり、もふもふの毛並みのモンスターだ。モンスターとは言え、ワンだかニャンだかニャワンだかと鳴き、人畜無害で可愛らしいとペットとして人気の生き物だ。
「や、分かってんだけどさ……どうしてもほっとけなくて」
いつも快活なダンテには珍しく、バツが悪そうに笑った。その視線に促され、ヨハンはソファに横たえられた青年を見る。
一対の翼を持った青年は、そのこめかみ辺りに角が生えていた。
「……混血種か」
息を飲む様子のヨハンに、ノアは首を傾げる。
「そゆこと。誘拐されかけてたとこ助けたら失神してて。事情があるかもだし、とりあえず気が付くまでは下手なとこ連れてけねぇかなって」
ダンテが太い眉を困らせる。
毛布をかけてやったノアは、ただ事ではない様子の二人を交互に見た。
「あ、あの……、ジェナスとは、何ですか?」
おずおずと尋ねたノアに、ダンテとヨハンは顔を見合わせる。種族のことすら知らなかったノアには、当然の反応だった。
「まあ、ノアは知らないか。翼のある人は見たことあるだろ?」
「あ、はい。フレデリックさんとか」
以前DMOで親切にしてくれた女性捜査官を思い出す。ヴィヴィアンの相棒らしいその女性、スーツの似合う細身のいで立ちに、腰から生えたふかふかの翼があった。
「翼のある種族はオルニットって言うんだけどな、角は生えてなかったろ? 角のある種族っつったらマリリンとかのアグリコラだ」
「あ、はい。そういえば……」
思い返してみれば、フレデリックにも、街を歩くオルニットにも角は無かった。
「混血って、そう言う……?」
「そう。だがちょいとデリケートな問題があってな。街を歩く異種族カップルなんてごまんといるが、種族が違うと、子どもはほぼ出来ないと思っていい」
しかし、今目の前に混血種がいると言うことは、不可能ではないということだろう。
「珍しいもんだから、昔から色々と逸話がある。富を呼ぶとか言って権力のある人間は誘拐してまで手元に置きたがったり、高い魔力を持ってるのがほとんどだからか、新興宗教の儀式の生贄とかって今どき信じらんねぇような理由で命狙われたりな。だから、ジェナスたちはあまり単身で外を出歩かない。まあ身体的特徴が出づらい種とのかけ合いだと、うまく隠れてるヤツもいるみたいだがな」
「そんな……たったそれだけの理由で……」
ダンテの説明を熱心に聞くノアは今も意識のない青年に目をやり、信じられないと眉を垂れさせた。
「降りかかる理不尽なんて当たり前にある。お前だって、ちょっとかわいい顔したガキだって理由だけで誘拐されかけてただろうが」
ヨハンが呆れ気味に首を振った。
この街は治安が悪いところも多いからお前も気をつけろ、とノアに釘を刺す。頷いたところで、ノアははたと気が付いた。
「ていうかこんな大変な事情の人持ち込んで、僕を巻き込む気ですか!?」
「まあ、一蓮托生的な?」
悪びれなくにっこりと笑って親指を立てるダンテに、ノアは理不尽! と叫んだのだった。




