[七章 Belphegor]2
いまいち精彩を欠いているように思われた背中は、水を得た魚のように、夜の冷たい風を切って宙を舞い、黒く光る銃口から連続して激しい閃光を放つ。
無数の銃弾と体の中から細かく爆発する衝撃に、鈍色の体を抉られ叫び声を上げる化け物が、つい先ほどまで死んだと思っていた男の太い腕に鋭く殴りつけられて、叫びは引きつった悲鳴に変わった。
もはや滅茶苦茶に暴れるベルフェゴールは、ヨハンに向けて鞭のように足を振るうが、すかさずその前に飛び出したダンテが、身を盾にしてその一撃を受け止める。ダンテの後ろから飛び出したヨハンがベルフェゴールの腹に銃弾を浴びせると、ベルフェゴールは濁った悲鳴を上げた。
攻撃を受け止めたダンテの脇腹が抉れているのが、少し離れたところにいるノアにも見えて、その一撃が必殺の一撃であることがうかがえる。
しかし抉られた腹は、見る見るうちに肉の繊維が修復され、ダンテは痛みを感じていないかのように笑っていた。
異様さの塊のような恩人の姿を見ていたノアは、彼が生きていた喜びと、イメージと違う獰猛さへの恐怖で、混乱する頭を再起動しようと頭を振る。そうすると視界が少しだけクリアになった気がして、小さく息を吐いた。
「……なんで死なないんだこいつ」
「……アンタが言うとシャレになんねえから、それは言うなダンテ」
暴れるベルフェゴールの細長い腕を捻りあげて押さえつけながら、うんざりしたように言うダンテに、一瞬目を瞬かせたヨハンはため息交じりに言って、ガスマスク越しに眉間を軽く押さえた。
「ッ、危ない!」
ノアの目にしかわからない、膨れ上がるベルフェゴールの魔力が、そのぶよぶよした腹に収束していくのを見て、いまいち緊張感に欠ける二人の背中を、大きな声で叩く。
力なく字面に横たわっていたコーラル色の腹が、ブルブルと痙攣し、その先から血のように赤い、二股に分かれた触手が飛び出した。立ちこめる腐った果実のような匂いに気づいたダンテは、隣に立っていたヨハンをぐるりと抱えこんでベルフェゴールに背を向けた。肉が焼ける音が聞こえ、不快な匂いがダンテの背から漂うと、ヨハンが声を荒げる。
「馬鹿、ダンテやめろ!」
焦った声で言うヨハンに、何でもない様子で口の端を上げたダンテが目で合図する。すると合図を受け取ったヨハンは、口を引き結び引き金に指をかけ直す。
「チッ!どいてろ!」
ヨハンを守っているダンテの体を横に押しのけ、その体の影から身を乗り出して、青く光る銃口をもぞもぞと動く赤い触手へと狙いをつけ引き金を引く。正確に打ち込まれた銃弾は着弾した場所から小規模な爆発が起こり、悲鳴を上げたベルフェゴールはぶよぶよした腹を引きずって泥の地面をのたうった。
爆風から守るように再び自分を覆うほどぐるりと抱き込んできた相棒をなんとか押しのけて、のたうっているベルフェゴールの姿を確認したヨハンの耳に届いた、果実を啜るような音に、視線を落として膝をついたダンテの背を見る。赤い触手が無数の蛭のように背中に張り付き、ジュルジュルと音を立てその肉と血を啜っていた。
悲鳴を上げてのたうっていたベルフェゴールが、痙攣しながら狂ったように笑い始め、それはノアの肌を粟立たせる。
ノアの瞳に映ったのは、虚空の眼窩の奥に見えたのは毒々しい紫色の光。殴られ弾けるように潰れた胸も、傷ついた片方の羽根も、肉腫のようなものがベルフェゴールの傷口を塞いでいく。引きちぎられたもう片方の羽根も、今にもそこから新たな羽根が生えてきそうな程、肉が盛り上がり始めていた。
「おい、冗談じゃねぇぞ……!っ……」
ベルフェゴールの肉体の損傷が、見る見るうちに修復されていくのを見て、頬を引きつらせたヨハンは、膝をついて小さくうめいたダンテの背中に蠢く赤い蛭を見て顔に苦渋の色を浮かべる。
「……っ、クソ!」
一瞬の迷いを断ち切るように声を上げたヨハンは、銃口をダンテの背中に貪りつく蛭に向ける。銃身の周りを青の光がスパークして、銃口から幾何学模様が放射状に円を描いて展開される。すると蛭がダンテの背ごと炎に包まれ、背中に張り付いていた蛭は金切り声を上げて燃え尽きた。肉の焦げる匂いが周囲に漂い、爛れた背中を見つめる青の瞳には苦渋が浮かんでいた。
「っ、悪い、油断した」
歯を見せて笑ったダンテの背中は、瞬時に火傷や爛れなどなかったかのように元に戻っていく。ヨハンはマスクの中で小さく舌打ちをして、鮮やかな腹が炎に包まれ、地面を這いずり暴れているベルフェゴールを睨み据える。
「しっかし、本当にどうやったら死ぬんだあいつ」
「……もう突っ込まねえからな」
首をごきりと鳴らしたダンテは、大仰にため息をついてヨハンを見る。ヨハンはあきれたように息を吐き出して首を振った。そんなとき、冷えた空気の中でも冷や汗が止まらず、震えながらもベルフェゴールを観察していたノアが声を絞り出す。
「目の、光……そうかあれは……!」
蛭がダンテの肉を啜っていたとき、ベルフェゴールの眼窩の奥にあった、ノアの目だけ見えていた紫色の光。右目の奥でもなく、左目の奥でもない。頭の角度が変わるごとにその位置が揺らめくその光は、眼窩ではなくその奥空洞で、ただ一つだけ輝いていた。その光が色を変えたとき、ノアはその正体に気がついたのだった。
「頭を!頭の中心に核があります!」
声を上げた瞬間、何も収まっていない眼窩が、ぎょろりとノアを見た。けたたましい叫び声とともに、長い足がノアの体を貫こうと、槍のように突き出される。
「ノア!」
「っ!」
腕はノアの横を通っただけだったが、少年の小さな体を吹き飛ばすのにあまりある衝撃で、ノアの体は軽々吹き飛ばされて木にぶつかると、小さくうめいて腐敗した地面へうずくまった。
「テメェ……!」
長く伸びきった腕の中心をヨハンの銃弾が捉え、着弾と同時に弾けて爆発すると、ちぎれた腕が音を立てて泥の中に落ちた。
「ギゃァアあァ!ォノれエァあぁああアァぁ!!」
耳障りな叫びを上げたベルフェゴールは、全体が羽根というよりは肉の塊のようになった羽根を自ら引きちぎり、口へ運ぶとそのまま粘着質な音を立てて肉塊を貪り始めた。
その姿を顔を歪めて見たヨハンが先にノアの元へ走っていたダンテを振り返ると、ダンテがノアを抱えて立ち上がるところだった。
ぐちゃぐちゃ、ばき、ぺちゃ。気味の悪い音が辺りに響く中、ノアがぼんやりした頭でダンテの顔を見上げると、視線に気がついたダンテが心配そうにノアの顔をのぞき込む。
「だんてさん……」
ぼうっとして笑顔を向けてくるノアを心配げに見つめたダンテは、体の様子を確かめ大きな怪我でないことを確認すると、ヨハンの方を向いて頷く。
「……すぐ終わらせるから、ここで待ってろ」
ぼんやりしているノアを慎重に木に凭れさせると、ダンテはヨハンを振り返る。感情がうかがえない、無表情のダンテの視線を受け、ヨハンは小さく頷いた。
「ゲ、アあはァはハハははは!!」
ぼたぼたと口元から粘液を滴らせながら、ベルフェゴールが笑った。ちぎれた腕が修復され、さらに4本の足が胸の下から弾けるように飛び出し生える。焼け焦げて所々が破れて粘液をこぼしていた腹も、鮮やかなコーラル色に戻っていた。
撓らせた無数の足が周囲の黒くなった木々を粉砕し、泥を跳ね上げ辺りの視界を奪う。ランダムに振るわれる足のリーチは圧倒的に長く、接近は不可能なように思われた。
「……!チッ、実弾も魔力の弾もどっちもまとめて弾きやがる、いけ好かねえ」
「……俺、ああいう足多い虫苦手なんだよな」
軽口を叩きながらヨハンに視線を送ると、ヨハンも何も言わずにダンテを見る。けたたましい笑いと、辺りを破壊する音が響く中、ダンテはおもむろに左拳をボキリと鳴らしてそのまま肩を回す。ヨハンは靴先でトントンと泥の地面を叩き、銃弾のリロードを行った。ヨハンの手の中で、鈍色に光る銃からガチンと重い音が響く。
それが、合図だった。
「ゲェアははハァはハハは!!ころシてやるァ!あアァああア!!」
ベルフェゴールの咆哮が空気をビリビリと震わせ、その衝撃波で泥が波打つ。木に凭れかかっていたノアははっとして体を起こすと、背中と頭に痛みを感じて手で押さえるが、歯を食いしばって視線を上げた。
星の暗闇の中に漆黒が瞬く。漆黒がまとう青の気配の中を赤い閃光が走り、小さくスパークしていく。
「……ッ!」
重力を感じさせない軽やかさで宙へ飛び上がったヨハンの姿が、月にシルエットとして浮かび上がった。その着地点は、月明かりを浴びながら、獰猛な光を目に宿し、凶暴な笑みを浮かべるダンテの、振りかぶった拳の先。
放物線を描いたヨハンの軌道の上に、ダンテの拳が唸りを上げて突き出される。
「行け!ヨハン!」
突き出されたダンテの拳を足場にして、その拳の勢いを借り弾丸のように打ち出されたヨハンの瞳が、青白く光る。
粘液を滴らせ意味を持たない咆哮を上げたベルフェゴールはその姿を捉え、無数の足をヨハンに向けて振るうが、恐ろしい早さで突撃してくる体を捉えきれず、ヨハンは体を捻ってその一撃をすり抜け、リーチの中に潜り込んだ。
「ギ、ャ、ああぁァああアあああぁァああアアァ!!」
暗闇の中で、マスクの中でヨハンの青い瞳が、叫び声を上げるベルフェゴールの暗い眼窩を鋭くにらみつけた。滑り込んできたヨハンを、長い足で狙うが、動かそうとした足がピクリとも動かないことに気がついてベルフェゴールは足を見る。
めちゃめちゃに振り回していた長い足の数本が、ダンテによって拘束されていた。ベルフェゴールの位置からは、逆光になったダンテの顔がどんな表情をしているのかは見えなかったが、身を切るような鋭い殺気が穏やかでない顔をしていることを感じさせる。そして間合の中に踏み込んできたヨハンから、尋常でないエネルギーの膨らみを感じ、ベルフェゴールは慌てて下を向いた。その眉間にピタリと冷たい銃口が当てられる。
「アああぁァああぁ!」
叫び声を上げて離れようとするが、その体はがっちりホールドされた腕が邪魔で全く動かない。ヨハンがマスクの下で口の端をつり上げて迷いなく引き金にかけた指に力を込めると、銃口の周りに幾何学模様のサークルが放射状に浮かぶ。
激しい破裂音を開幕の合図にして、片翼の戦乙女が青く光を纏い、銃口から帯を残しながら化け物の頭の中心を貫いた。さながら槍の突撃のようなその軌道は、闇を貫いて空へ輝くと、闇に溶けて消えた。
文化など、まして物語など、そんなものを一切知らないノアだったが、満天の星が輝く夜空を青の軌道が貫く様を、見て純粋に美しいと、まるでどこかの神話のようだと思った。
泥の中に沈み、何度か痙攣した後、ベルフェゴールは完全に沈黙して動かなくなった。
「ヨハン!大丈夫か!」
ベルフェゴールの死体を足蹴にして、動かないか確認していたヨハンに、ダンテが駆け寄っていく。その声に振り返ってマスクを外したヨハンは、あきれたように肩眉を上げ、ため息をついた。
「あ?んなもん、大丈夫に決まって……」
「足!骨とかやってないか?俺結構加減しないで殴ったから……」
「そりゃ痛え訳だわ!」
激闘の後でも、すぐに冗談を交えてじゃれ合う二人の背中を、ノアはまぶしそうに見つめていた。しばらくやりとりを見ていたが、唇をかみしめると、その背中に近づき声をかける。
「ヨハンさん、ダンテさん」
「ノア!立てるって事は、大丈夫なんだな?」
「ったく、ヒヤッとさせやがって」
ノアの声に振り返った二人、ダンテは心底から安心した様子で微笑み、ヨハンは眉を顰めはしていたが、口の端をやや上げて首を傾けた。二人の様子に、喉に何か詰まったようにつっかえたノアは、震える手のひらをぐっと握り込み、深々と頭を下げ震える声をなんとか抑えながら口を開く。
「ありがとうございます、ベルフェゴールを、殺してくれて」
急に頭を下げたノアに、疑問符を浮かべた二人は顔を見合わせ首をかしげる。二人が何か言おうとした気配を察して、ノアは慌てて言葉を続ける。
「ヨハンさん、ここに来るまでに、僕がしたお願いのこと、覚えてくださっていますか」
震える声で、必死に絞り出すように言うノアに、ヨハンは眉を顰めて、下げられた頭を見下ろす。事情を知らないダンテは困ったような顔をして、ヨハンに視線を送るが、一瞬チラリと視線を送られて視線をそらしてノアを見た。
何も言わない二人の表情を見るのが恐ろしくて、ノアはなかなか頭を上げることができなかったが、小さく息を吐くと、握った拳をもっと堅く握りしめ、決意を込めて顔を上げる。
ヨハンは、決意を込めて見上げてくるノアの瞳を見つめ返し、月の虹彩を見つけると、初めてノアの顔をしっかりと見たなと、的外れなことを思って、心の中で苦笑いする。崩れそうになるポーカーフェイスを、眉を顰めることで保ってノアの次の言葉を待った。
ヨハンの瞳をのぞき込み、空のように海のように澄んだ青い瞳は、心の底から綺麗だなと、ノアも的外れなことを考えていた。
緩みそうな気持ちを叱咤して、決意をもって美しい瞳を見つめ返し、口を開いた。
「僕を、殺してください」




