[七章 Belphegor]1
ベルフェゴールの長い足の一本が、鞭のようにしなり地面を、周囲の木の幹を抉って吹き飛ばす。
長い足の一撃を、身を翻しながら躱していき、化け物からの攻撃の合間に銃弾をその足の付け根へと、ピンポイントで打ち込んでいく。
そのたびに上がる、あぶくがはじけるような雑音が混ざった絶叫が、公園中に響き渡っていた。
「ぶくぶく太りやがって、中年太りまで再現してんじゃねえよ虫擬きが」
ヨハンの低い声が直接耳に届いた気がして、ノアは思わず物陰で体を震わせる。
だが、辺りを切りつけるような殺気から逃れるように、物陰に縮こまって震えたのも一瞬のことだった。長い息を吐き出して、物陰から顔をのぞかせる。月光の元で化け物に銃弾の雨を降らせながら身を翻す背中を、見つめている月の光彩が青白い光を帯びた。
「アああぁァああぁ!」
咆哮するベルフェゴールの長い腕が振るわれ、数多打ち込まれる銃弾を打ち落とす。舌打ちをしたヨハンは、空になった弾倉を落とし素早く新たな弾倉を充填しようと足のベルトに向かって手を下ろす。
しかし、その隙を見逃さなかったベルフェゴールから、銃弾を弾いたその速度で別の長い足がヨハンに迫った。
「チッ!」
充填し終える前に、ベルフェゴールの攻撃によって、ヨハンの左手の中にある銃にはじき落とされないよう後ろに跳ぶが、口から吐き出された粘液が、ヨハンの左手に持つ銃にかかり、その途端銃身を急速に腐食させる。
銃身がぼろりと崩れそうになるのを見て、ヨハンは手の中の拳銃を放り投げた。カシャンと乾いた音が聞こえ、溶けた銃身をちらりと見ると脳裏に相棒の背中がちらついて、音がなるほど奥歯を噛み締め、鋭い殺意を込めて目の前の化け物を睨み据える。
すかさずもう片方の拳銃で狙いをつけるが、それを待っていたかのように向けられた拳銃を、しなる足で弾き飛ばした。鈍い音をたてて、ヨハンの腕が大きく横に逸れる。
手から弾かれ地面に落ちた拳銃が、カシャンと音をたてる。鋭い攻撃に腕から銃を弾かれ、体勢を崩され無防備になったヨハンの体に、常人の目では追えないほどの速度で、6本の内の別の一本の足が迫った。
―――ギィィン 金属同士がぶつかるような音が、思わず物陰から飛び出したノアの耳に大きく響く。
ベルフェゴールの足の一撃で、ヨハンの体は後ろに大きく弾き飛ばされ転がったが、地面を手で突き、体勢を起こして滑りながらも踏み止まる。そしてベルフェゴールを鋭く睨みつけ、肩で息をするヨハンの手の中には、コンバットナイフが握られていた。それを構え直すと、ヨハンはゆらりと立ち上がる。
ヨハンの体を捉えたように思われた一撃は、黒く冷たい光を放つナイフによって防がれていた。
「銃さえ無けりゃ、殺せると思ったか」
肩を上下させるヨハンは、マスクの中で口の両端を大きく吊り上げ、顔を歪ませて嗤う。
しかし。
「ィハ、ぎゃ、ァ…ハ、は、ギィァアハはははハ!」
醜悪な顔を歪ませて、高らかに笑い始めたベルフェゴールに、ヨハンは小さく舌打ちした。
痙攣する様に嗤うベルフェゴールの口から青い泡が溢れ落ちて地面に触れると、熱しすぎた鉄板に水を落としたような派手な音で芝生を焼く。
「しネ、シヌ、ギャアハハ」
悪辣に嗤うベルフェゴールの背には、巨大な羽根が備わっていた。粘液でテラテラと濡れて光っていた羽根は、戦闘の間に乾き大きく広がった。
薄く発光している腹と同じ色のそれは薄く、ベルフェゴールの体の数倍はあるだろうというほどの大きさ。目の様な大きな模様が羽根の上部中央にあり、夕方の空に浮かんだ月の様にも見えるものだ。
ナイフを構えるヨハンに、ニタリと下卑た笑みを浮かべると、ベルフェゴールは辺りの空気を静かに巻き上げ、夜の空に浮かび上がる。長い手足がだらりと垂れて、揺れていた。
「テメェ逃げてんじゃねぇぞ」
辺りに響き渡る高らかな笑い声の間を縫って、普段の数段低く凍える様な声が、物陰に身を潜めて二人の戦いを見つめていたノアに鮮烈に届く。
化け物からの身体中を走る怯えを振り払う様に、ノアは浮かび上がった敵を見上げる背中に向かって叫ぶ。
「ヨハンさん!こっちです!」
声につられて視線を向けた先に、ノアが手招きするのを見て、ヨハンは舌打ちしてノアの方へ後退をはじめる。徐々に後退していくその姿を見て、またベルフェゴールが嗤った。
「ぃィイァあハはハハハハ!にゲロ、ニゲロ!」
あからさまな挑発に言葉に、普段なら乗るようなヨハンではなかったが、その言葉で後退していた足がピタリと止まる。
「上等だ」
静かな声とは対照的な、苛烈な殺気が向けられると、それを心地良いとでもいうかのように、手足を広げ大きく羽根をはためかせた。ヨハンの周囲に走る青い閃光が激しくスパークしていくのが、ノアの目には見えていた。
「だめだ!!」
しかし、急激に膨れ上がったベルフェゴールの邪悪な気配に、ノアは走り出したヨハンの背中に向かって叫ぶ。その声が背中にかかると同時に、毒々しい羽根が大きく羽ばたき、風が起こる。風に鱗粉が舞い、夜空に煌々と輝く月光を受けてダイアモンドダストのように辺りに輝いた。
――― パシン ガラスにひびが入るような音が周囲に響く、堅く瞑った目を恐る恐る開くと、そこには先ほどまでとは全く別の光景が広がっていた。
周囲にあった木はすべて枯れ果て、どろりとした地面がそこにある。開けた林は、まるで沼地にでもなったようで、草一つ生えていない。黒化した木が風に撫でられるだけで、ボロボロと崩れ始めていた。
「ヨハンさん……!」
「へぇ、これがお前の奥の手ってやつか?」
慌てて姿を探して辺りを見回していると、愉しそうな声が、ノアの耳に滑り込む。首に刃物でも当てられたような冷たい殺気に、体を強ばらせていると、宙に浮かんでいたベルフェゴールが言葉にならない呪詛を撒きながら吠える。腐食に侵された周囲の光景から隔絶されたように、ヨハンが立つ場所から周囲1メートルの範囲だけが、ぽっかりと穴が開いたように腐食されていなかった。
凜とした後ろ姿の周囲を、青い閃光が再びスパークすると、いつの間にか拾い上げられ手の中に戻っていた拳銃が、これまでよりも強い光を放つ。
銃口に集まった青の閃光が収縮し、高らかな銃声とベルフェゴールの絶叫が夜空に響き渡った。夕方に浮かぶ月がぽっかりと口を開け、浮力を片方失ったベルフェゴールの醜く膨れ上がった体が、ベチャリと地に落ちその勢いで泥が跳ねる。泥を跳ねさせのたうつベルフェゴールを、マスクの下で無表情に見下ろしていたヨハンは、何も言わずに再び銃口をベルフェゴールに向ける。
「呆気ねえな」
ヨハンの冷めたつぶやきに、逆上したベルフェゴールが公園中に響き渡るような金切り声を上げて、妙な方向にねじ曲がった腕を滅茶苦茶に振り回した。思わぬところから出た反撃に、背をのけぞらせたヨハンだったが、足下が想定よりぬかるみブーツの底が引っかからずに滑っていく。
完全に体勢を崩したその瞬間を見逃すことなく、ベルフェゴールのしならせた腕の一撃が、ヨハンの体めがけて飛んだ。
「っぐ、ぁ!!」
人のそれとは言いがたい反射神経で取り出したナイフでその腕を受け止めていたが、衝撃に耐えかねて弾き飛ばされ、泥の中に転がって膝をつく。
骨から痛みが広がる右腕を忌々しげに見やり、ヨハンは舌打ちした。
自分の体の三倍ほどもありそうな屈強な大男に、あんなに軽々と立ち回っていたその背中が、今は泥の中にいる。その姿はひとつ精彩を欠くように思えて、ノアは不安を募らせる。いやな予感が、体中を支配して、ヨハンの相棒の、ダンテの、最後の横顔が頭を過ぎる。
「……だめだ……いやだ……!!」
月明かりの逆光の中、醜悪な笑みが浮かんでいた。
「やめろぉぉぉ!!」
喉から血が出そうな程の、悲痛な叫びが夜空に響き渡る。
しかしそんな少年の悲痛な思いをあざ笑うように、醜くゆがんだ笑みを浮かべた化け物はゆったりと、地面に落ち泥で汚れた羽根を、大きく広げていく。甲高い声を上げて引きつったように嗤うベルフェゴールの中身のない眼窩は、羽根が広がっていくのを見て絶望に染まっていく少年を、はっきりとその漆黒の穴の中に狂喜を先立たせてて視ていた。
風が起こる。
ノアは膝をついたまま苦痛に歪ませる横顔を、見ている事ができなかった。唐突に降ってきた絶望感に、足から力が抜けて膝をつく。
しかしそのときは一向に訪れなかった。
「おいおい、何やってんだよヨハン」
聞こえるはずのない声に、弾かれたように俯いていた顔をあげる。
「いつもならこんな雑魚、5分で片付けるのに」
苦痛に歪んでいた横顔は、ベルフェゴールの羽根を両腕で押さえ込んで、冗談めかして笑う顔を、今はただ唖然として見つめていた。
「ダン……テ?」
二人の唖然とする顔を見たダンテは豪快に笑うと、言葉にならない金切り声を上げて暴れるベルフェゴールに笑顔のまま視線を向け、腕に力を込めていく。めき、めき、と枯れ木に負荷ががかかっていくようなそんな音がはっきりと離れているノアの耳にも届いた。
羽根に直接触れているダンテのむき出しの腕が、みるみるうちに赤黒く変わっていき、そこから血が噴き出すが、そんなことを気にもとめていない様子で、ダンテはニヤリと歯を見せて笑う。
「俺の大事な相棒と、罪のない幼気な少年を、よぉくも苛めてくれたな」
肉の繊維が無理矢理引き延ばされ、悲鳴を上げる。ミチ、ブチ、という気味の悪い音と、ベルフェゴールの、うがいをしている時のような雑音混じりの絶叫がその場に響き渡る。そのまま腕に力を込めて、勢いよく腕ごと体を落とすと、ブチャリという音とともに、大きく毒々しい色の羽根が、その根元から引きちぎられた。ベルフェゴールはたまらず、甲高い金切り声を張り上げる。
引きちぎられた羽根の根元から紫色の汁が噴き出して、ダンテのむき出しになった体にかかると、ダンテの皮膚が爛れてどろりと溶け出した。
しかしそんなことも気にしていない様子で、一仕事終えたと息を吐いたダンテが引きちぎった羽根をその場に放り投げると、ドチャっという音をたてて地面の泥を跳ね上げた。
「うるせえ、なっ」
そして、その場でもがきけたたましく叫ぶベルフェゴールの頭を、赤黒く変わって血の滴る腕を大きく振りかぶって殴りつけた。元々大柄なダンテよりも、よほど大きく膨れ上がった体が、いとも簡単に吹き飛ばされる様は、その打撃の重さを物語る。
「おアォおぉォごごギィぃ」
腐敗した泥の上をもみくちゃになって転がり、黒化した木に打ち付けられると、ベルフェゴールは体をのたうたせてうめき声を上げる。そんな姿を一瞥したダンテは、何事もなかったかのようにいつものような笑みを浮かべて、膝をついたままのヨハンに手を差し出した。その腕を唖然と見ていたノアは、また自分の目を疑うことになる。先ほど溶け出したダンテの体が、赤黒くなり腐敗しかけていたはずの腕が、指先から病魔が這い上がるのよりも早く、修復されて元に戻っていったのだ。
「待たせたな。さぁ始めようぜ、ヨハン」
不適に微笑んだダンテの顔を見上げて何か言いたそうにしたヨハンだったが、眉を顰めると口端をつり上げて、差し出された腕をつかみ立ち上がる。手を一振りして、拳銃から泥を振り落とすと、小さく息を漏らす。
「……ハァ、とっとと終わらせるぞ」
ベルフェゴールに向けて構えた拳銃から青い閃光が打ち出され、辺りに響いた銃声が、再開のゴングとなった。
ようやく復帰させられました。ダンテ、おかえり。遅かったな。




