[六章 灰色の群像] 1
初めて、そこで目が覚めたのと同じように、ノアは夕日に照らされた公園でぼんやりとベンチに座っていた。公園全体をただ眺めていたノアは、大きなため息をついた。
「……僕は、一体どうしてここに居るんだろうか」
震える両手で自分を抱きしめ、ため息と共にぽつりと出た言葉は、あの日と同じ言葉だった。日が落ちかける時間帯、静かになって行く公園の中、家を目指す子供たちの明日を約束する言葉が交わされる声を最後に、声も何もかもが去っていくのを聞いて、ノアはため息と言うには、あまりにも悲痛な息を漏らす。
「どうして、か。行くところなんて、無いくせに」
自嘲気味な笑みを浮かべた少年の瞳に、年相応の輝きは無い。
「ここ、だったな」
ノアの中に思い出されるのは初め今座っているベンチに、ぼんやりと座っていた時に、驚くほどの美丈夫が隣に柄悪く座っていたこと。
初めは何て豊富な罵詈雑言を持っているのだろうかと感心し、容赦なく他人を踏みつけ銃口を押し付ける姿は、その容姿が美しいだけに迫力があってとても怖かったなと、ノアはその横顔を思い出しながら口元に笑みを浮かべる。
付き合いは3日もないほどの短い間だったが、その内に、彼が怖いと感じるのは、不器用さがそう見せるだけなのだとノアは感じ始めていた。他人に興味が無さそうにしてはいるが、見ていないようで実はちゃんとノアの事を見てくれていた視線は、繊細ですこしくすぐったさすら感じる優しさがあった。ノアが不安なときは少し乱暴だが背中を叩いてくれ、不意に見せてくれた笑顔には愛嬌があった。
そして、彼との出会いに少し遅れて現れた凶悪な人相の男。
ノアからは見上げるほど高い位置にある顔は厳めしく、恵まれすぎた体格は、圧倒されるほど屈強で、彼が口を開くまでは大層怖かった。それでもそんな容姿からは想像できない程、笑顔が人懐っこいのだとノアは驚いた。相棒にはもちろん、見ず知らずのノアにも甲斐甲斐しく、これも意外なほど美味い料理をふるまう姿は、面倒見の良いお兄さんだった。路上で太い角を小枝のように折り砕いた凶悪な太い腕は、ノアの頭を撫でる時にはいつでも優しかった。落ち込み塞ぎこもうとした少年を慰める言葉は少し青臭くて、ノアは少しだけほほえましく思ったのを思い返す。
さらに記憶の糸を手繰り寄せると、暗い踊り場で照らされた虚ろな瞳がフラッシュバックする。
ノアを逃がすために必死で喉を震わせた、シャノンのか細い声が耳の奥で聞こえる。辺りを照らした光が消える前に見えたダンテの横顔、暗い下水道に最後に反響した声が耳の奥を叩き、ノアはついに耳を両手で押さえる。
何も入っていない胃から、罪悪感と後悔を押しあげられて口元に込み上げ、それでも口からは何も零れ落ちず、ただ深く長い呼吸だけが体の底から外へ押し出されただけだった。
そのままぼうとして、ただ足元を見つめていたが、ふと辺りが急に静かになったのを感じて顔を上げる。
「へ」
口から間の抜けた声がこぼれ、空を見つめる。いや、正しくは空に浮かぶ人影に、視線が釘付けになる。
背中に伸びるワンレンの、白に近い銀髪と、抜けるように白い肌には人の中に流れるような血潮を感じられない。目尻に向かい翼のように広がる睫毛が羽ばたくたびに、その色を変えるオパールの輝きを放つ瞳が輝いた。
男性にも女性にも見えるその人物は、口元に柔らかい笑みを浮かべていたが、ノアにはそれがなぜか薄ら寒く感じて身震いした。神話を描く絵画の中から現れたような神々しさと、人間の根源的恐怖を模ったような禍々しさを、両方併せ持つようなそんな印象。そんな人物は、ゆっくりと空中から降りてきて、ノアの目の前でふわりと止まるが、足は地面についていない。
ノアの惚けた顔を蕩けるような笑みを浮かべて見つめたその人は、ノアが声を発しようとしたのを、自分の唇に指を当てて止めさせる。そしてノアが口を閉じたのを見届けると、また嬉しそうに笑うと口を開いた。
「お前は何だ……この言葉への解は出たか」
男性のようにも、女性のようにも聞こえる、するりと心に滑り込んで擽るような、美しい声だった。何を言っていいのかわからず、黙っていたノアに、その人は片眉を上げて腰に手をやる。
「儂の名前はノイン、かつてドライツェーンと呼ばれたものだ」
若々しい容姿に反して、やけに老成した口調で話す目の前の人物は、今度は人懐こくころころと笑った。
「……僕はアルスマグナの――その欠片、ですね」
「ふむ、及第点にはちと足らぬ」
朗らかに笑ったと思えば、瞬間に首を傾け難しい顔をして見せる。くるくると変わるその表情に、ノアは先程までの恐怖をそのままにしたまま見惚れていた。惚けるノアの頭に手を置くと、わしわしと撫でて口を開く。
「欠片とは、言い得て妙だな。それが目に見えて大きければ大きいほどに、そちらが元だと思ってしまうもの」
「え―――」
静かな言葉に、ノアは目を見開いた。そしてゆっくりと、ノインの方へと視線を向ける。それを見たノインは、満足そうな笑みを浮かべた。
「物事の本質とはかくも、身近で単純なものよな」
楽しげに細められたオパールの瞳を見つめて、まとまらなかった思考が形を持ち、それは確かな解となってノアは急に理解する。胸に手を当て瞳を閉じたノアは、恐る恐る口を開いた。
「もしかして僕は、アルスマグナ……?」
「ふむ、続けるがよい」
言葉が勝手に流れ出すようだと、ノアはどこか他人事のように言葉を続ける。
「顕現するときに肉体とただのエネルギーに分けられて……」
言葉を続けようとするノアの頭の中で、悲鳴と警鐘がガンガンと鳴り響く。それでもノアは目を強く瞑り、記憶の奥の、根源に連なる記憶の糸を手繰り寄せた。
「エネルギーは、ただ摩耗して消えるはずだった。でも、ヒューマを取り込んで生きながらえて……完全な災厄となるために、肉体を探している……」
そこでノアの言葉が止まる。掌を見つめていた視線を持ち上げて、オパールの輝きを持つ瞳を見上げたノアは、眩しそうに眼を細めた。ノアの瞳は動揺と不安に揺れて、滴に沈む月のような形の虹彩は、湖面に映り込む月の様だった。
「僕は、アルスマグナ。ベルフェゴールであり、そうなる筈だったもの」
絞り出された悲痛な声に、ノインは答えない。ただ優しく微笑み、ノアを見つめている。
「……僕は、災厄になんてなりたくないです」
ぽつり、ぽつりと、ノアの口から言葉がこぼれる。
「これ以上苦しめたくないんだ」
膝の上で握ったまだ小さな拳の上に、ぱたりと滴が落ちる。
「シャノンさん、ダンテさん……僕が、僕さえいなければ……」
強く握りしめた拳に、いくつもの滴が落ちる。やがてそれは手の甲から流れ落ち、ズボンを濡らす。ズボンにしみ込んだ滴に、ノアの言葉が、ぽつりとこぼれ落ちた。
「……器が無ければ、彼は消えてなくなりますか?」
顔を上げないままに、ノアは絞り出すように声を出した。
「彼は既に肥えすぎてしまった。最早、自然消滅は望めぬだろう」
とろけるような美しい声が、ノアに残酷な現実を突きつける。苦しそうに嗚咽を漏らすノアを、しばらく見つめていたノインだったが、しばらくしてその震える肩に手を添え、顔を挙げさせせる。涙でぬれた瞳を見開いて見つめてくる、少年のあどけない顔を見つめ返したノインは、その滴を指に掬うところころと笑った。
「お主には、事の顛末を見届ける義務がある」
そう言って、ノアに向けられた笑みは、それは美しい笑みだった。ただ、ノアにはその微笑みが、泣いているようにも、笑っているようにも、怒っているようにも見えた。
「お前が望まずとも、あの希少種は使命を果たすだろうさ」
少年の丸い頬を、白魚のような指が撫ぜて頬に伝った涙の跡をぬぐう。止まった涙の代わりに、投げかけられた言葉の意味に湧いた疑問が、ノアの思考の全てを覆う。
「行こう、お前の結末へ」
白色の丸く小さな光、まるで雪のような光が、ノインとノアの周囲を、ふわりと舞った。ノインはいまだに正鵠を得ない表情のノアの手を取り、その細腕に似合わない力でノアの手を取ったのとは反対の手で、腰に当て引き上げる。そして目を瞬かせるノアを見つめると、薄く色づいた唇で、下弦の月のような綺麗な弧を描いた。
夜空に浮かび上がった二人は、そのまま公園の上空へ。公園全体が見渡すことができる上空で、そのままふわりと止まる。
「何を……」
言いかけたノアの唇に、ノインの白く細い指が添えられる。頬が熱くなるのを感じたノアが唇を引き結ぶと、ノインはコロコロと笑ってその指を自分の唇に寄せ何事かを呟いた。その言葉はノアの知る言葉ではなかったし、夜空を通りすがる風の音で聞こえない。唇が動いたことで何かを言ったのがわかった、と言う程度である。
足元で違和感を覚えたノアは、そちらに視線を向けて大きく目を見開いた。
沈みかかった夕日の中でもしっかりと見えていた公園が、何かに覆われていく。薄く光る透明な膜のようなそれは、公園の外周から伸びてくる。みるみるうちに広がったそれはドーム状になり、公園全体をすっぽりと覆ってしまった。
驚きで体を強張らせるノアの背を、ノインの手が撫でると、はっとして顔を上げる。驚きに染まる顔を見てウインクするノインが、再び足下を指さした。それに導かれてもう一度下を見ると、夕焼けの朱を写す透明の膜はその色を変える。鮮やかな朱を写したそれは、その朱色の太陽が水平線の向こうへ沈むのに合わせて、星空の浮かぶ闇色に。そしてその闇すらも吸い込みそうな、深い黒に染まった。
足下にあった公園が完全に見えなくなり、更に目を見開くノアが恐る恐る見上げてくるのを、ノインは満面の笑みを浮かべて見つめ返し、そうして高らかに笑ったのだった。
2018年の投稿は、これでひとまず終了となります。
次回は14日からの投稿となります。よろしくお願いいたします。




