[ 第五章 暗闇への誘い] 1
「おい、ノア。お前大丈夫か……?」
そう声を掛けたのは、意外にも心配そうに眉を困らせたヨハンだった。
朝日が差し込むイスラフィル本部の応接ソファに座っていたノアは、朝日で透けるような青の瞳が瞬くのを、ぼんやり見つめてから、はたと気づいたように目を丸くした。
「え……あっ、はい!大丈夫です」
「ちゃんと眠れなかったのか?」
ソファーの背もたれから身を乗り出すように、ノアの顔を覗きこんだのは、同じく心配そうな顔をしたダンテだった。
「あ、いや、そんなことは……、あるかも、です」
ない、と言おうとして昨夜の事を思い出し、苦笑いで俯いたノアを見て、ヨハンは非難するような視線と声をダンテに向ける。
「お前が全裸でベッドに入ってくるから、ノアが怯えて眠れなかったってよ」
「えぇ~……?俺の家だぞ、俺のスタンス変える必要あるか……?俺、家の中では服着ない主義だし……」
心外だと言わんばかりに肩を竦めたダンテは、俯いたノアの頭を乱暴にかき混ぜた。それを見ていたヨハンは舌を出し、手を振っておえぇと嘔吐くようなしぐさをする。
「テメーらの組んず解れつを聞くために集まったんじゃねーんだ、黙ってろ」
普段通りの話し声が聞こえていた室内だったが、青筋を立てた美女から落とされた雷に、集まっていた面々は水を打たれたようになる。
「チッ、入口でもぞもぞしてねぇでさっさと入ってこい、誰だ!」
彼女の苛立ちが部屋の空気全体を震わせているかのように、びりびりとした空気感に包まれた部屋のドアが、勢いよく開かれて、そこから毛玉のようなものが転がり込んできた。
「きゃん、きゃいん」
それは丸めた綿のような、むくむくとした子犬であった。あまりに小さいそれは、哀れっぽい鳴き声を上げながら転がり込んできたのだ。
「……何だ毛玉。来てたんならさっさと入りやがれ」
部屋の真ん中までコロコロと転がってきた子犬を、デスクの向こうから睥睨して、ドレイクがドスの聞いた声で言う。それを見上げた子犬はプルプルと震えて蹲り、ふかふかした尾を足の間へと仕舞い込む。
「聞こえなかったのかテメェ、報告を……」
「やあ、イスラフィルの本部はここでよかったかな」
強い怒りに燃えるドレイクの言葉を遮って飛び込んできたのは、穏やかで、それでいて間延びしたような、耳を擽るような男の声だった。男は部屋に入ってくると、プルプルと震える子犬を後ろから持ち上げ、腕の中に収め、その綿毛のように毛並みの良い被毛で覆われた背中撫でる。
「こ、困ります~!アポの確認がまだ……」
「いいアルマ、ソレにあんまり近づくんじゃない」
ゆったりとした速度で部屋の中に入ってくる男の姿を見とめたドレイクは、後ろから追いかけて来ていたアルマを手で制すると、柔和な笑みを浮かべた色黒の男を睨み据えた。男はアルマに子犬を手渡すと、ドレイクたちに向き直り、わざとらしく大仰な仕草でお辞儀する。
「ごきげんよう、ドレイク様。アポ無く尋ねた無礼は、お許しいただけると幸いだ」
「あっ、ミカエルさん」
苛烈な視線を受けた男が笑みを深めると、ソファーからあっけらかんとした声が上がった。ダンテが人好きのする笑みを浮かべ、ミカエルにむかってひらひらと手を振ると、彼はそれに応えて同じように手をひらひらと振って見せた。
そんな様子を見ていたドレイクは大きく息を吐き出して、先ほどまでの苛烈な視線を幾分も和らげる。
「やあ、ダンテ君。昨日は災難だったね」
そう言って微笑んだミカエルに、皮肉気な声が飛ぶ。
「災難だったのは俺の方だけどな」
「これは失礼、ヨハン君の家、残念だったね。良ければ、新しい家を紹介しようか」
「結構だ」
ドレイクの視線に似た、しかしそれよりはよほど冷ややかな視線を、ヨハンは目の前で微笑んでいるミカエルへと向けた。
「それは残念」
肩を竦めたミカエルに、ドレイクは先程とはうって変わった艶やかな笑みを浮かべて立ち上がる。
「高名な情報屋に、わざわざお越しいただけて光栄だ。まさかその顔すら偽りという訳ではないだろう。……まあそこはそれ、そちらのソファにかけてくれ」
手で、ダンテとヨハン、そしてノアが座っているのとは対面したソファを示すと、ミカエルは左胸に右手を置き、優雅にお辞儀をして見せた。
「お目に掛れて光栄です、ドレイク様。お言葉に甘えて、着席させていただきます」
ドレイクの様子が変わったのに合わせ、ミカエルの柔和だった様子も、少し鋭利なものへと変化する。
「様など、ドレイクで結構だ。ミカエル」
「いえ、そこはクライアントとの関係と言うことでご容赦を……」
「連れないことを言うじゃないか、私としてはこれからももう少し親密な……そう、友人のような関係を築いていきたいのだがね」
「ははは、それは願ってもない」
剣呑な空気が静かな部屋を包むなか、両者はお互いに見つめ合う。
するとどちらともなく、くすりと笑いあった。それを合図に、剣呑な空気は霧散していった。朗らかな笑みを浮かべたミカエルが首を傾けると、肩から銀糸がさらりと流れる。
「女帝と名高いあなたにお会いできて、本当に良かったと思います」
「ほう、うれしいね。有名な情報屋にそんな風に言ってもらえるとは」
「ええ、部下の事を心配して激昂できる良き上司は、それだけで信用に足りますから」
そう言ってにっこりと笑ったミカエルに、目を細めていたドレイクは苦々しく鼻の頭に皺を寄せて、笑うことに失敗したような、微かな動揺を示す笑みを浮かべた。
「何の話だか」
「ヨハン君の住む家が襲撃されて激昂するなんて、とても部下思いなのですね。そういった慈愛のある魅力的な女性の為の方が、私も協力のし甲斐があるというものです」
悪意なく純然とした笑みを浮かべるミカエルの言葉に、きまり悪そうに舌打ちをした後、ドレイクはその場からくるりと踵を返し、部屋の奥の扉の前で立ち止まり扉を開けると、彼女の一挙一動を見守っていた一同を振り返る。
「後はお前らで、何とかしておけ。私は寝る」
ドレイクは感情の読み取れない顔をして静かにそう言い、誰かが何か言う前に暗い部屋の中へと入ると、勢いよくドアが閉める。ドアの閉まる音は、広い事務所内にこだまするように響き、次に静かさがその場を包んだ。
ミカエルは朗らかに笑い、ダンテは肩を竦めてヨハンを見て、視線を向けられたヨハンは半眼でドアの方をちらりと見やりため息をつき、ノアは夜空の星が流れたのを見つけたかのように、ドレイクが入って行ったドアを見つめた。
「ふわわ、そんなに暴れないでください。こわ、怖くないですから」
静かな部屋の中、そんなくすぐったそうな柔らかい声に、その場にいた全員がアルマの方を振り返ると、アルマの腕に抱かれていた子犬が、その豊満な胸の上で鼻を鳴らして、短い手足をじたじたと動かしていた。
「アルマさん、そろそろシンザ君を放してあげてはどうかな」
「えぇ?シンザ君と言うと……ということは、もしかしてこの子」
引き続き朗らかに笑っているミカエルの言葉で、アルマが慌てて子犬をソファへ座るミカエルの隣へと降ろす。ミカエルと子犬が座るソファからテーブルを挟み、正面に配置されたソファに並んで座るダンテ、ヨハン、ノアが、顔を突き合わせる形で座った。一瞬の沈黙の後、子犬から人間のような咳ばらいが聞こえてきた。
「ど、ども。ライカンスロープの、シンザです……今日は昨日の件の報告に来ました」
おずおずと聞こえてきた声は、明らかにヨハンたちが昨夜、事件後に会ったヴィスティアの少年のものであり、目を丸くしたダンテとヨハン、そして子犬を興味津々に見つめていたノアはお互いに顔を見合わせた。
「あ、アルマさんすみません、昨晩走り回ったせいでうまく人型を取れなくて、この姿で報告に来たりしちゃって」
「そんな!私こそ気付かないで抱きしめてしまって、すみませんでした」
ピンとたった厚みある三角の耳をぺたりと倒し、申し訳なさそうな声で話す子犬に、アルマは紅潮した両頬の横であわあわと手を振った。お互いに謝りあう二人の様子を見ていたミカエルから、くすりと笑みがこぼれる。
「あぁ、その愛らしい姿にはそんな理由があったんだね」
「うぐ……、で、でもきちんと収穫あったんで、報告させてもらう……ます」
言葉を詰まらせたシンザは、自分を大きく見せようとしているのか、耳をピンと立てて背筋を伸ばす。その姿に笑みを返したミカエルが、ダンテとヨハンの方を振り返ると、二人は顔を見合わせる。
「あ、ああ。じゃあ聞かせてくれ」
「あっ!テメェ、昨日はよくも……!」
ダンテがそう言うと、シンザはダンテを見て唸り声を上げるが、ダンテの横で目を瞬かせたヨハンをちらりと見ると、唸り声を止め、渋々といった様子で口を開いた。
「……まず、昨日の追跡で、臭いがあちこちから臭っていたんで、ベルフェゴールは主に下水道に潜伏しているんだと思います」
そこまで話し、シンザはその時の臭いを思い出したのか、短いマズルに皺を寄せて身を震わせる。
「それについては私も同意見だよ」
そう言ったミカエルは、いつの間にか手に持った本を開き机の上に置く。その場にいた全員が、その本を覗きこんだ。片眉を上げたヨハンが、何か言いたげにダンテを見て、ダンテはその言葉を代弁するように、本からミカエルに視線を移して口を開いた。
「白紙の本、ですか」
何も書かれていないように見えるその本を一度ちらりと見やってから、首を傾けるダンテに、ミカエルは立てた人差し指を唇に当てウインクすると、その指を白紙の本文に落として、ゆっくりとページをなぞる。すると本のページが青白くぼんやりと光りを放ち、ページに何かの文字が浮かびあがっていく。文字を形どる線が解けるよう揺らめいて、また線が結ばれ一つの図が浮かび上がった。
「これがシンザ君が調べてくれたこの街の下水道の地図だ」
「うおすげ……何すかこれカッコいいっすね……」
始めて見た物に対する純粋な驚きに目を輝かせるダンテとシンザ、興味なさ気にしてはいるがページから目が離せないヨハン、そして完全に固まってしまったノア。それぞれの反応を見て、ミカエルは朗らかな声を上げる。
「フフ……これをこの街の地図と合成するとね」
再びミカエルが白いページをなぞると、青白い光で浮き上がった地図に、緑の光で別の地図が重なった。ぴったりと重なった下水の地図を見て、ヨハンとダンテは同時に何かに気づき、ヨハンは苦々しく、ダンテは感心したように唸った。
「なるほど、今回襲撃された場所は全部この下水道の上にあるわけですね」
「じゃあ、下水に乗り込んで探すしかねえって訳か……最高だな」
吐き捨てたヨハンは、背もたれに身を投げ出して天井を見上げた。
「でも仕方ねぇ、行くぞ」
「待ってくれ」
渋々と言った様子で腰を上げようとしたダンテとヨハンを、真剣な顔をしたミカエルが引き留めた。
「出現した場所、時刻、そしてシンザ君が探し回ったというルート……、それらを合わせればどのあたりに潜伏しているかは割り出せると思う」
「何だと……?」
懐疑的な瞳で低い声を出したヨハンに、ミカエルは微笑んで返事をする。
「そう……、たとえばこんな風にね」
そう言って、ミカエルが本のページに手を翳し、そこから掌を立てて腕を持ち上げると、本に浮かび上がっていた地図が宙へと浮かび上がる。ミカエルを訝しんだ視線を送っていたヨハンも、顔を上げたダンテも、その場にいた誰もが、ぽかんとその様子を見ている。
そんな4人分の視線が見守る中、ミカエルは宙に浮かび上がった地図を手から離し、再び無地になったページに手を翳すと、また、今度は別の文字が浮かび上がった。光る文字が浮かぶ本を手元に引き寄せて膝の上に置くと、そのページをタブレットPCのようになぞっていく。
すると、空中に浮かんでいる街の地図に、バツ印が付いたり別の色で塗りつぶされたり等、だんだんと様相を変えていった。そして地図の中で場所を示すように、赤色に光る線が丸を描く。
「さあ、今日は大方、このあたりに出現するのではないかな」
「どうしてここだと」
片眉を上げるダンテの方を見ることなく、ミカエルは宙に浮かぶ地図を手元の本で操作しながら説明を始める。
「ベルフェゴールは何か目的があって移動しているようだ。その目的が何なのかまではわからないが、わずかに残った魔力の痕跡から行動している範囲から予測を立てただけだ。確実にここに出るという確証まではないかな」
「……情報屋ってのは、そんな曖昧な情報で金貰う、気楽な仕事なんだな」
口の端を吊り上げて皮肉めいたことを言ったヨハンに、ミカエルは笑みでもって応える。
「確かに予測だが、ここに出現すると断言しよう。もし出現しなかったなら、依頼料をいただなかなくても結構だ」
笑みを、いままでの柔らかいものではなく、不敵なものへと変えたミカエルに見据えられ、ヨハンは舌打ちをして視線を逸らした。視線を逸らした先で、ダンテと視線がかち合って、眉を顰める。
「……何だよ」
「いや、何も。じゃあ、手早く準備して、そのポイントに行くか」
にかりと笑ったダンテに、ヨハンが顔を顰めていると、ダンテはあっけらかんとそう言ってソファから立ち上がった。
「え」
「ん?」
その様子に一番驚いた様子を見せたのは、不敵な笑みで自信満々に言ったミカエルだった。目を瞬かせるミカエルに、ダンテは首を傾ける。
「え、あの、いいのかい?」
「もちろん」
器用にウインクをしたダンテに続き、ため息を吐いたヨハンもソファから立ち上がる。
「ヨハン君……?」
「まぁ、行って出なけりゃ報酬なしだ。いいな」
困惑が顔中に広がっているミカエルの方は見ずに言ったヨハンに、ダンテは頷いて入口へと向かう。その背を見ていたミカエルは、花が咲いたように笑ったのだった。
「ま、待ってください!僕も、僕も連れて行ってください」
二人が入口へと歩いていこうとすると、また二人を引き留める声が背中に届く。二人が声のする方を見ると、ずっと黙っていたノアが二人を見つめていた。ヨハンとダンテがどちらともなく顔を見合わせると、ヨハンが面倒だと描かれたように顰めた顔をノアに向けて口を開く。
「駄目だ」
「無理を承知でお願いします、役に立ちたいんです!」
考える素振りもなく即答したヨハンだったが、真剣な瞳で見つめてくるノアの視線を受け、ダンテの方を振り返る。その視線を受けダンテは頷くと、ノアの傍へと近づき、腰を曲げ己の顔を近づけた。
「役に立つ?足手まといの間違いじゃねえのか」
表情のないダンテに見据えられるが、ノアはその視線を外さず真っ直ぐダンテの瞳を見つめた。どちらもしばらく沈黙し、静かな緊張感が二人の間に流れる。
「昨日危ない目にあっただろうに……それに、ちょっとはビビれよな」
「そういうの、似合いませんよ」
静かな睨み合いに、先に音を上げたのはダンテで、そう言うと大きなため息を吐いた。ダンテが根を上げたのを見て、ノアは苦笑いを浮かべて首を傾けた。すぐに真剣な顔つきになり、ダンテを正面から見すえたノアが口を開く。
「……多分僕も、お役に立てると思います」
「はぁ?」
ノアの言葉に反応したヨハンは、ちらりとダンテを見てから、ノアに視線を合わせる。ヨハンの面倒がる気配も、怒る気配もない視線が、真剣に見つめてくるノアの視線と交わった。
「どうやら、人が持つ“エネルギー”が、人それぞれの形で僕には見えているようなんです」
「何だって?」
首を傾げるヨハンに、ノアは説明を続ける。
「ヨハンさんからは青白い月光のような光が、ドレイクさんからは苛烈な赤い炎が、ミカエルさんの周りには光球が……、そんなそれぞれのエネルギーのようなものが僕には見えています」
「お前さ、これから俺達に高い壺とか売りつけようとしてないか?」
「やっぱり、これは僕にしか見えないものなんですね……」
ダンテの茶化すような言葉に言い返すこともなく、自身の中で確信を持った様子で俯いて、そして再び二人を見据える。するとダンテが控えめに手を上げながら、おずおずと口を開いた。
「なぁノア、俺は……?」
「それが、不思議なんです。貴方からは全くエネルギーを感じない、魔法が使えないというヒューマですら、少しはエネルギーが見えるのに」
「ま、全く……?」
効果音が聞こえそうなほどショックを受けているダンテに、ノアは力強く頷く。
「全くだってよ!そりゃそうだろうな、こいつマキナすら使えないんだからな」
落ち込むダンテの背中を叩きながら大笑いするヨハンに、ダンテは恨めし気な視線を送る。目の前でじゃれる二人を見ていたノアは、自らの言葉になんとなく違和感を覚え、首を捻る。だが違和感の正体を掴む前に、首を振り二人を見据える。
「どうしてそんなことができるのか、僕にはわかりませんが、エネルギーの塊である、アルスマグナをもっとしっかり見ることができれば、何か分かる……もしかすると何か手がかりがつかめるかもしれません」
真剣な表情で訴えかけるノアに根負けしたのか、ダンテとヨハンはお互いに顔を見合わせて、苦笑いと小さなため息を漏らした。
「今度は勝手にふらふらするんじゃねぇぞ」
「仕方がないな、守ってやるから、俺の傍から離れるなよ」
ヨハンはぶっきらぼうにそう言って、ダンテはノアの頭をなでた。
「じゃあ、行くぞ」
「よ、よろしくお願いします」
目を瞬かせたノアは撫でられた頭を押さえ、ドアへと向かう二人の背を追ったのだった。




