[ 第四章 遭遇、襲撃] 1
ミカエルと別れてから、とっぷりと日が暮れるまで情報を集めて歩き回っていた三人は、外で食事を済ませて、それぞれ自宅へと返って来ていた。ヨハンの顔には疲労の色が浮かび、それを見たノアは心配そうにヨハンの顔を見上げていた。
「あー……疲れた……」
自分を見上げるノアの横を通り、コートも脱がず、どさりと音を立ててソファに腰を落としたヨハンは、上を向いて大きく息を吐き出した。そんな様子を見たノアは、水を注いだグラスをヨハンの前に置く。
「お疲れ様です」
「……何で今日もお前が俺の家に居るんだよ」
ローテーブルに置かれたグラスに手を掛けて、自分をじろりと見上げてくる視線に、ノアは申し訳なさそうな笑みを返した。
「すみません……でもダンテさん、二日間寝てないって言ってたじゃないですか、それでヨハンさんのお家でもう一泊お世話になるってことで」
「そうだったな……まあもういい、適当に風呂とか入れよ」
「ヨハンさんは……」
「俺は一回寝る」
自分を気遣うノアをあしらう様に手を振って、ソファに横になり目を閉じるヨハン。そんなヨハンの不器用な気遣いを感じ取り、ノアは小さくお礼を言って頭を下げ、浴室へと向かった。
◆
天井から水滴が湯船に張られたお湯に落ち、微かな水音が温まった浴室に響く。暖かいお湯に体を沈め、身体の芯がじんわりと温まるのを感じながら、ノアは小さく息を吐き出し、浴槽の縁に顎を乗せた。
「……ここは色々な種族が暮らしてる大都市エリュシオン、ダンテさんはヒューマ、ヨハンさんは……何だろ?後で聞いてみよう。そしてダンテさん曰く僕の種族は多分“ヒューマ”……多分、かぁ」
漠然とした不安を振り払うように頭を振ったノアは、ダンテとヨハンの二人からはぐれた時に現れ、自分を助けてくれたミカエルとした会話の内容を思い出す。
(異次元から来た化物を討伐する、なんて職業が普通に受け入れられてるこの世界には、日常的な危機があるって事だよな……)
「アルスマグナか……エネルギー次元の生命体らしいけど……どうしてこの次元にやってくるんだろう」
(お互い不干渉なら、どちらも平和なのに……)
口に出した疑問にそんな事を思い、ノアは再びため息を吐いた。
(別の次元からエネルギーを取り出して、生活に利用する世界。そのエネルギーについて僕は良く知っている……その事について僕は何の驚きもなかった。この世界の事もチェイサーという職業については知らないけど、エネルギー次元については知っている……?)
考えがまとまる前に、頭に霞がかかるのを感じて、お湯を湯船から掬い顔にかける。肌にあたって弾けた湯が、湯船に落ちて音を立てた。
「なんだろう、何かおかしい……」
思考を邪魔するようにかかる霞は晴れるどころか、どんどん考える力を奪っていく。耳鳴りがまるでバスルームに反響するように、ノアの頭の中で響いた。
「湯あたりしたかな」
胸騒ぎがして、ほこほこと湯気を立てる湯船から身を起こすと、不意に背筋に冷たいものが走る。得体の知れない焦燥感を感じたノアは軽く身震いして、急いでバスルームを後にした。
◆
しんと静まり返った室内で、閉じた瞳を静かに開け、音も立てず体を起こしたヨハンはテーブルの上へと手を伸ばす。その手は結露がテーブルを濡らすほど冷たい水の入ったグラスの横を通り過ぎ、机の上に置いてあった二丁の内、ノアが昨晩手を加えた方の愛銃を握りしめる。するりとソファから立ち上がり、音もなく廊下へと進むと、ヨハンは玄関の扉を静かに睨む。そして。
「ふー……ってうわぁ!ヨハンさ……」
浴室の扉から出て驚きの声を上げるノアの口を手で塞ぎ、驚きに目を見開く少年を己の背へと隠すように、強引に腕を引く。
「どうもおかしい、静かにしてろ。いやに静か……いや静かすぎる」
「やっぱり……、何かあったんですね……?」
「……お前、何か知って……」
入浴中に感じた胸騒ぎと奇妙な感覚が強くなるのを感じながら、ノアが声をヨハンに倣って、声を潜めながら口にした言葉に、ヨハンはノアを肩越しに振り返る。しかしすぐに舌打ちして、ドアへと視線を戻す。
「いや今はいい。とにかくそっから動くんじゃ……」
そうヨハンが言い終わるよりも早く、部屋の照明が落ち、少しの間を持って玄関のドアが激しく叩かれる。
「チッ、こっちは疲れてるってのに、どこのどいつだクソッ!」
舌打ちをして悪態をつきながら、ヨハンは手に持った銃を玄関に向けた。拳銃を握るヨハンの手の内で青色の光が瞬き、その光は銃身の上で幾何学模様を描きながら走り、やがて銃口に向けて収束していく。
しかしその間にも激しくドアを打つ音が、どんどんと大きくなり、金属製の玄関ドアが音を立てて軋み始めた。手の中で淡く青い光を纏う銃をドアに向け、ゆっくりと引き金を引き絞ろうとしたとき、不意に音が止み、ヨハンは眉を顰めて息を殺す。
「……静かになった……?」
ドアの外の気配を窺うが、物音ひとつしない。小さな声で呟いたノアを手で制し、ヨハンは音を立てずに、玄関口へと近づく。
静かに玄関を開けると廊下の灯りは消えていて、辺りに耳を澄ませるが何の物音もせず、人の気配がない。ノアを連れて廊下に出ると、どこかから水滴が滴っているような、水音が聞こえていた。
音の出所を探りながら静かに進むと、音はだんだんと大きくなる。廊下の床には、何かを引きずったような跡が、ヨハンの家の隣の部屋の玄関前から廊下の奥へと続いていた。開け放たれたままの玄関から中を覗くが、暗闇が拡がるばかりで、何も見えない。
何とか階段までたどり着くと、階段の奥から口を開けたまま物を咀嚼するような不快な音と、それに合わせるようにノック音が響いてくる。音と共に、微かな生臭さが階下から漂っていた。
慎重に階段を降りるが、途中の踊り場でノアの腕を引いていたヨハンの動きが止まる。
「おい、ノア。引き返せ、ゆっくりだ……」
ヨハンが声を潜めて、そうノアに言うが、下がる様子はない。目を見開きその光景から目を離せないノアは、頭の中で反響した耳鳴りが大きくなり、激しい頭痛に足が言うことをきかずその場に立ち尽くした。
踊り場には窓があり、外からやけに明るい月明りが差し込んで、そこに立っているモノの形がはっきりと見える。どうやら二人に背を向けているソレは、何かを掴んでいるようだった。
月明りに照らされたブルーグレーの髪は、見る影もなくまばらに抜け落ち、膨れ上がった顔は原型をとどめないほど変形していた。眼窩から零れ落ちそうになっているオリーブの瞳が、ノアの月の浮かんだ瞳とかち合う。膿疱に覆われた唇が大きく開き、ごぼごぼという音と共に、赤黒い吐瀉物がこぼれ、それと同時に何事かを呟いた。
「あ……、あ、にぇ……て……のあ……」
濁った声は、はっきりと聞き取れた言葉ではない。ごぼごぼという音に混ざって聞こえた声は、すぐにぼきり、ぐしゃり、というやけに大きな音にかき消された。
「ぁ……しゃの……さ……」
戦慄く唇が声にならない声で、名前を呼ぼうとして失敗する。変わり果てた姿の体を、大きく変形した腕で掴むソレ。大きいものでは、赤子の拳ほどあろうかという大きさの膿疱で覆われた頭が、エビ反りのように背中側に弛緩して垂れ下がっている。その芋虫のように膨れ上がった首に埋まって、顔は二人の方に向いていた。
見開かれた目は血走って、瞳は白く濁っており、忙しなく左右ばらばらに動いている。体は水に浮かぶ死体のように生白く、ぶよぶよしていてタコのようにも見えた。
古く擦り切れて汚れた服は膿でぬらぬらと光り、それが大きく変形した体に、辛うじて引っかかっているような中で、やけに新しく鮮やかなモスグリーンのマフラーが異質であり、異様だった。
「べ、るふぇ……」
逆さ吊りになって垂れさがった顔を見ると、目は左右が別々にぎょろぎょろとあちこちを忙しなく動いていて、視線が合うことは無い。
戦慄く口元を押さえるが、かちかちと鳴る歯の間からノアのか細い声が漏れ出る。こちらを向いている顔の方とは反対側から、ぐちゃ、ぐちゃ、という音と共に、ずんぐりとした体の奥に、床を打ってノックのような音を立てて、痙攣して跳ねる健康的に焼けた足が見えていた。
「ノア!」
静寂を鋭く裂いたのは、ヨハンの怒声と闇を明く照らした青の閃光、鋭い銃声と辺りを赤く照らし出す爆発音だった。
『るぉぉぉおヲぉぉォあァぁぁァ』
一音一音が引き絞られるような、不快な絶叫が二人に背を向けた化物から迸る。ぐねぐねと身悶える体が階段の手すりにぶつかっては、膿疱が弾け辺りを膿が汚し、焼け焦げた体から立ち上る肉の焼ける臭いが二人の鼻につく。
筋組織が限界まで引き絞られて千切れる、太いロープが千切れていくのに似た音と共に、異常な形をしたからだがぐねりと二人を振り返る。首の付け根には、赤い液体でぬめぬめと光る、暗い玉虫色の螯が見えた。吐き気を催させるような、まとわりつくような悪臭が二人に届く。
『ぶォ、オごおコあああぁァかあァぁあぁァァ!』
ベルフェゴールが叫び、不潔な液体が飛び散った。それを合図にしたように、ヨハンはその場で体を震わせていたノアの腕を強く引き、階段を走って引き返す。それを追って方向を醜悪に歪む四肢を翻すたび、粘着質な水音とぶちぶちと肉が千切れる音が聞こえる。芋虫のような首に埋まった顔が、距離を取った二人を真っ直ぐ見つめていた。
再び閃光が瞬いたかと思うと、こちらを向いたベルフェゴールの顔の中心から小規模な爆発が起こり、絶叫が響き渡る。
「ひでー姿になっちまったもんだな、ロバートさんよ」
軽口を叩き、引き攣った笑顔で階段の上から、悲鳴をあげのたうつベルフェゴールを見下ろしたヨハンは、浅く速い呼吸を繰り返すノアの様子を窺い見ると、内心で舌打ちした。
絶叫をあげながら、おそらく倍ほどにも伸びた腕と、同じように伸びきって変形した足を使い、大きく脹れた腹を引きずりながら緩慢な動きで階段を上ってくる。
閃光が断続的に激しく瞬き、辺りを照らす。断続的に辺りを照らす光が、迫る化物の動きをコマ送りのように見せた。
「……」
銃弾では怯むことなく直進してくる巨体を前に、ヨハンは視線を動かし廊下の壁を見る。そうしてある一点を見つめると、片方の銃をそこに向け、立て続けに2発、発砲する。
―――――オオォォォォォン 異なる高さの混じる音が、何層にもなった警告音が、けたたましく辺りに響き渡る。それはアルスマグナの発生を周囲に警告するための、常備警報装置によるものだった。
「ノア!走れ!!」
前にいるヨハンの声すらうまく聞き取れないほどの、けたたましいサイレンが響き渡る中、呆然と立ち尽くすノアの腕を取り、ヨハンはゆっくりと迫るベルフェゴールに背を向け自室へと走り出した。
引きずられるような形でヨハンの部屋に戻ってきたノアは、その腕を引っ張っていたヨハンが、荒々しくドアを閉める姿をどこかぼんやりと見つめていた。そんなぼんやりとした視線を受けたヨハンは、早足に廊下に佇むノアの所までやってくるとその細かく震える両肩を掴んで壁に押し付ける。
「死にてぇなら余所で死ね!」
焦点の定まらないノアに向かって、叱咤する声が部屋を震わせる。はっとしたノアが慌てて顔を上に向けると、怒声とはかけ離れた冷静な視線がノアを見つめ返していた。
「いいか、生き残りたいなら、俺の傍を離れるな」
わずかに光を宿す青い瞳を見つめながら、ノアはしっかりと頷き、玄関扉一枚に区切られた、内耳に張り付くような絶叫が響き渡る廊下の方を見つめた。醜悪な化物が、膨張した体を引きずる音がだんだんと近づき、ヨハンの部屋のドアの前で止まった。
―――バガァン! 耳を劈く激しい轟音と共に鉄製のドアが、いとも簡単に吹き飛び、銃を構えたヨハンに迫った。
迫るドアを靴の底で受け止めるように蹴り飛ばし、優雅に身をひるがえしたヨハンは、転がった扉だったものの上に着地し、銃口を玄関に向ける。しかしそこに化物の姿はなかった。
「……!バスルームです!」
暗闇の中目を凝らしていたヨハンに、ノアの鋭い声が飛ぶ。咄嗟に飛びのくと、腐食した木製のドアを破り、廊下に化物が流れ出した。飛びのいたヨハンが、空中で一発、二発、立て続けに銃弾を発射すると、ベルフェゴールは体をくねらせ絶叫する。
『あああぁィあああジぎぎぎィぎ!!!』
「っ!一体いつの間にそっちに移動しやがったんだ……!」
銃弾が着弾した場所から、穢れた粘液があふれ出て床を汚す。しつこく纏わりつくような生臭さのある刺激臭が、辺りに漂って部屋に充満した。その様子を見て悪態をついたヨハンは舌打ちをして、緩慢な動きで自分に伸ばされる歪な形の腕を、銃弾で弾き飛ばしながら、部屋の奥へと後退していく。
「ノア!寝室へ下がれ!」
短い指示が飛んだのを聞いて、キッチンから寝室に向かい走ったノアへ伸ばされたベルフェゴールの腕に、ヨハンの放った銃弾が着弾し、それと同時に激しい閃光が弾けた。小規模の爆風ではあるが、その腕を吹き飛ばすには十分なほどの威力で弾き飛ばす。寝室の窓の前まで走ったノアを背に庇い、ずるりずるりと二人を追い詰めようと、呻きながら向かってくるベルフェゴールを銃弾でけん制しながら、ヨハンは寝室へと後退していく。
(このままだと、ジリ貧か……どうする……!?)
銃でけん制を続けていたヨハンの頬を、一筋の汗が伝う。ノアを護りつつ戦うことに焦る思考と、寝不足による疲労感がヨハンを苛立たせ、八つ当たりの様にベルフェゴールの身体をハチの巣にしていく。いくら銃弾を撃ち込んでも、這いずり二人へと手を伸ばすベルフェゴールは止まらない。
「ヨハンさん!」
鳴り響くサイレンの音と、手元から繰り出されるは激しい閃光、ベルフェゴールの不快な叫び声が飛び交う中、自分を呼ぶ声にハッとしてヨハンが肩越しに振り返る。その先で、ノアの真剣な瞳とかち合った。三日月のような特徴的な虹彩が浮かぶ瞳は強い意志を持ち、ヨハンをしっかりと見据えている。
「ガス管を……!」
短かったがはっきりと聞こえた言葉に目を見開き、ヨハンは正面に迫るベルフェゴールの背後が、不自然に揺らめいているのを確認する。
「……!チッ、どうなっても知らねえぞ……!」
舌打ちをして銃口をベルフェゴールの後ろ、キッチンの方へと向けると、ヨハンはノアを振り返り眉を困らせた。
「……、悪いな」
「何」
ヨハンの整った顔が近づき、耳元でささやくように言われた言葉に、疑問符を浮かべたのも束の間。ノアの首筋に圧迫感、そして追うように鋭い痛みが走る。皮膚が裂け血が滲み、流れる感覚は灼熱感を伴って、ノアの身体を痛みが這い回った。自分を抱えた男に、首筋を噛まれたのだとノアが自覚する前に、ヨハンの頭が首筋から離れていく。痛みで霞む視線を恨めし気に向けると、ノアは自分を見つめてくるヨハンの瞳に違和感がある事に気が付く。
「え……」
晴れ渡った空のように澄んだ青い瞳は、今は血のような真紅に染まっていた。
「しっかり掴まれ……」
そう言うが早いか、ヨハンの構えた銃口が火を噴き、ベルフェゴールに向かい銃弾が放たれる。しかし銃弾はベルフェゴールの頭部横をすり抜けて、奥へと消える。其れを感じたベルフェゴールが、不定型な頭のぬらぬらと光る口元に、どろりとした醜悪な笑みを浮かべる。
しかしヨハンはその笑みを見ることもなかったのだろう、自分にしがみつくノアを抱え、銃弾が壁へ到達する間の僅かな瞬間、おそるべきスピードで背後にあった窓を破り、闇の中へと飛び出していた。
銃弾がキッチンの壁にぶつかり、火花を散らすその瞬間。
ヒュゴッという僅かな着火音から、急に鼓膜を破らんばかりの爆発音と共に、熱風と爆風が部屋とベルフェゴールの身体を包み焦がす。
『ぎぎギ、ぶ、がゃああアああぁぁィぁ!!』
激しい絶叫と熱風から、腕の中に抱えたノアを護るように、空中でくるりとしなやかに身を翻し、ヨハンは階下のせり出した窓の柵を掴もうと手を伸ばす。
「……っ!っそがぁ!!」
ノアの背に回した方とは逆の腕で、窓の柵を掴もうと伸ばした指先が空を切る。浮遊感が落下する感覚に変わった頃、ノアは強く目を瞑った。音が鳴るほど歯を噛みしめたヨハンの、赤く染まった瞳が薄く光を放ったかと思うと、3階の高さから落下していくうちにその身を翻して、地面の方へと足を向けた。
――――――ガアアァン! 空中で身を翻し、でまるで猫のように態勢を整えたヨハンは、二階の窓の外にある梯子に手を伸ばし、それを掴む。激しい音が辺りに響き、落下スピードが急激に落ちる。
「……!!」
梯子を掴んだ時とは対照的に、ノアを抱えたまま、ヨハンは静かに地面へと着地した。腕の中で目を瞑り、身を固くしていたノアを見てその無事を確認すると、ヨハンは大きく息を吐き出して、少年の身体を捨てるように地面へと投げ出した。
「ぎゃあ!へ、わ、うわわ……怪我はありませんか、ヨハンさん、あの、僕……」
尻もちをつき、目を白黒させている少年の姿を見て、ヨハンは再び大きなため息を吐いたのだった。




