89 - 限界への挑戦
「佳苗。ちょっと、起きて頂戴」
「ん……」
4月8日、土曜日。
の、朝……。
なんだか久々にだけれど、お母さんに起こされて目を開けて、時計を確認してみるとまだ六時前。
あくびを一つ挟んで、僕は聞く。
「……なにか、ようじ?」
「各務くんと長谷くんという子たちが尋ねてきているのだけど……」
「こんな時間に……?」
何かあったのか……、いや、時間的にこれは、まさか朝練の類いか……?
「眠いなら、今日は遠慮して貰う?」
「んーん。すぐ着替えていくから、ちょっと待ってて貰って」
「ええ、五分くらいでなんとかなるかしら」
「もっと早く済ませるよ」
ベッドから降りてそう答えると、お母さんは解ったわ、と部屋を出ていった。見えなくなったところでふぁん、と錬金術でお着替え完了。
眼鏡も掛けて、っと。
洋輔は……ぐっすり寝てるな、起こすのも可哀想か。昨晩も夜更かししてゲームしてたし、ということで放置。亀ちゃんは……、おや、亀ちゃんも寝てる。洋輔よりも起こすのが可哀想なので、そのまま静かにタオルで顔を拭いてから部屋を出て、階段を降りていざ玄関。
そこには学校指定のものではないジャージを纏った各務くんと長谷くんが居た。
「おはよう、二人とも。ごめんね、待たせちゃった」
「いえ。……すみません、寝てたと聞いて、しまったなあとは思ったんですけど」
「あはは、僕の方こそごめんだよ。この時間だと結構、起きてる日も多いんだけれど、今日はぐっすり寝ちゃっていてね――さてと、立ち話も何だし、お茶でも出そうかという流れでもないね。二人の服装からして、朝練かな?」
「はい」
申し訳なさそうに。
長谷くんはこくりと頷いてそういった。
「お母さん」
「はいはい……ってもう着替えも済ませてるのね。けれど寝癖がついてるわよ」
「ブラシは後で掛けるよ。今更だけど、この二人が各務くんと長谷くん、バレー部の後輩で、近所に引っ越してきた子ね。特に予定は無かったんだけど、たぶん『朝練のランニングのコースで悩んでる』とかそのアタリだと思うから、ちょっと一緒にひとっ走りしてくるよ」
「そう? じゃあ、朝ご飯は軽く用意しておくわ」
「お願い。ということで、一緒に行こうか。運動着じゃないけど普段着だし、これでなんとでもなるでしょ」
特に否定の声もなかったので、運動靴を履いたらそのまま二人と一緒に外に出る。
うーん。
朝って感じの空気だ。
天気は晴れ、運動日和と言うならば運動日和でもある。
「で、本当の要件は何? 案外僕が行ったとおりだった?」
「……大当たりです。知ってていったんじゃないんですか?」
「いやあ。ただの勘だよ。ランニングのコースねえ……」
「はい。渡来先輩なら、結構やってるんじゃないかなって思ったんですけど。……えっと、そんな事は無いって感じですか?」
「うん」
頷く。
即答で。
こんなところで見栄を張っても仕方が無い。
「けれど、僕はずっとこの街で育ってるからね。走り込みのコースは……、思いつくと言えば、思いつく。けど、二人はどのくらいの距離を走るつもりなのかにもよるね」
「それなんですけど。えっと、ぼくたち、渡来さんが走る距離を目安に頑張ろうかって話をずっとしてたんです」
……それは、また。
「なら、僕が疲れるまで……? えっと……、自惚れかとも思われちゃうかも知れないけど、頑張れる?」
「ぼくは頑張ります」
「おれも頑張れます!」
返事は良しと。
ならば一度地獄を見せておくのも良いだろう。
「いいよ。じゃあ、僕が疲れるまでちょっと走ろうか。どうしようも無くなる前に、体力が無くなりそうになったら言うこと。それと、まともに街の中を走るとなると目立つから、河川敷に一端出るよ」
「あ、やっぱり土手なんですね」
「うん。そこをぐるっと行く感じにしようか」
けれど疲れるまでか。
「じゃ、まずは土手まで、身体を起こす意味も兼ねてゆっくり走るから、ついてきてね」
「はい!」
「はい」
各務くんと長谷くんが良い返事をしたので、その場でとんとんと二度三度とジャンプして、軽く屈伸をしたらば息を整える。
じゃあ行こう。
「出発!」
速度は出さずにゆっくりと。
けれど変えずにしっかりと、まずは家から河川敷まで、最短ルートに近い道を取って行く。
途中数匹の野良猫がこちらを伺っていたけれど、忙しいので後にして貰う事にした。
二分も経たずに河川敷の堤防に到着、ここはスロープで上れるので、それを使ってとんとんとんと皆で上り、堤防の向こう、河川敷の整備された道路へと出て、各務くんと長谷くんの様子を確認。
流石にこの程度で脱落するほどじゃあない。息使いも安定している。
「上流方面にまずは走るね」
「はい」
「はい!」
というわけで、上流方面にランニングを開始。信号もなければ飛び出しの危険も限りなく低いので、ちょっと速度を速めておく。
この川には結構良い感じの間隔で橋が掛かっているので、目安にしてもいいだろう。
一つ目の橋を潜ったところ、二人とも余裕な表情だ。
二つ目の橋を潜ったところ、まだまだ大丈夫という表情。
三つ目の橋を潜ったところ、あれ、どこまで行くんだろうと訝しがる顔。
四つ目の橋を潜ったところ、けれどまだ大丈夫そうだ。
だから変化といえるのは、やはり五つ目の橋を潜ったあたり。
長谷くんの息がすこし上がりぎみだ、それでもまだ走れるだろうけれど、『帰り』の事も考えると……。
でもな。疲れるまでって言われちゃったからな。頑張って貰おう。
「ちなみにさっきの橋を上がって行ったすぐさきに美味しいラーメン屋さんがあるんだよね。流石にこの時間じゃあいてないけど」
「そ、そう、です、か……」
各務くんが喋りにくそうに相槌を打つ。
長谷くんと比べれば楽そうだけど、流石に喋りながら走るのは辛いようだ。
このペースだと次の橋で折り返すのが二人の限界かな?
と言っている間に六つ目の橋を潜って、さらに進む。速度は一切緩めない。
「ど、どこ、ま、で?」
「僕が疲れるまでならば、四分の一すら大分遠いよ。頑張れる?」
走りながらの問いかけに走りながら答えると、二人はそれでも頷いた。ガッツはすごいな。なんだか意地悪をしたくなる……ふむ。
あんまり意地悪ばかりすると洋輔に怒られるからな。多少趣向を変えるか。
「じゃ、頑張ろうね」
速度は変えずになおも進む。
七つ目はまだしも、八つ目の橋を潜った頃には、二人とも肩で息をしていた。
朝のランニングにしてはちょっとヘヴィに過ぎるよなあ、これ。
「ところで二人とも、気付いてるとは思うけど、『帰り』も同じ距離あるからね。無理だと感じたら早めにギブしてよ」
「か……えり……? ああ……、」
「うわあ……」
各務くんは絶望気味に、長谷くんはそういえばそうだったあ、と空虚に笑いながら声を漏らした。
そして二人は一度顔を見合わせると同時に、
「ギブです」
「ギブします」
と言った。偉い。
「オッケー。それじゃあ二人とも、ここから速度を大分落として軽く身体を落ち着かせるよ。すぐ先に丁度いい休憩広場があるから、そこで休もう」
「はい……」
「はあい……」
結局二人が頑張ったのは九つ目の橋まであと少しといった所である。
休憩広場に到着すると、二人はベンチにぐたあっと突っ伏して、なんとか息を整えようとしているようだったので、置かれている自動販売機でスポーツドリンクを三つ購入してそれぞれ一本ずつ渡しておく。
「はい、とりあえずはお疲れ様。ここまでで十五キロくらいかな」
「あ、……ありがとう、ございます」
「たすかりました……」
助かるも何もその苦境に追いやったのが僕なのでなんとも言えないけど……。
スポーツドリンクをごくりと飲んで、首元に当てて冷やしているあたり、二人とも結構限界が近かったようだ。
……帰りのことは本当に忘れてたタイプだな、これ。
「……すごいですね。渡来さん、あれだけ走っても全く息が上がってない……」
「すごいというか……いっそ変……」
各務くんは素直に褒めてくれて、長谷くんは本質を突いてきた。
「放っておいたら、どのくらい走れるんですか……?」
「さあ、この頃は本当に試してないからなんとも。ここまでの疲労感からして、たぶん河川敷の舗装道路がなくなるほうが早いだろうね……」
「…………」
「…………」
若干引かれた気がする。
けれど妙な尊敬もされているような、複雑な感情だなこれ……。
「それと、帰りだけれど、安心してね。河川敷は川沿いだからカーブも多くて距離があるけど、普通に街を歩けば大分近いし。それも辛いなら、そこの橋を降りたところからバスも出てる」
「うわあ凄く魅力的」
「でも頑張るって言った手前、頑張ります」
「心がけは良いけれど、無理をして怪我をするんじゃつまらないよ。大人しくバス使う?」
「いえ」
「大丈夫です」
長谷くんと各務くんはそれでも愚直に言う。
偉いなあ。僕だったら二つ返事どころか自分からバスに乗ることを提案しただろう。バスがなければタクシーとか。
「なら、休憩は長めに取ろう。ゆっくり帰るにしたってね」
「はい」
「はあい」
……しかしなんというか、返事が重なるようで微妙に重ならないことが多いなこの二人。
僕と洋輔もそうだったのかな?
あんまり思い出せないものだなあ……。
「いやあ。けれど、なんだかすごく納得。これだけ走っても余裕なんだから、試合で疲れないかあ……」
「だなあ。……渡来先輩を目安に走るって、今にして思えば無理な目標って感じ」
「いや二人とも。朝のランニングに十五キロって、走らせた僕が言うのもなんだけど、走りすぎだと思うよ」
ならば走らせないで下さい、と長谷くんは視線で訴えかけてきた。
各務くんは目を閉じている。たぶん目は口ほどにものを言うということを本能的に悟っているのだろう。
「僕みたいに走れるようになったところで、時間はかかるしさ。毎朝やるとなると、ロスが多すぎる」
「……それは、確かに」
「おすすめの距離とか、あります?」
「うーん。それは僕が助言できない分野だなあ……僕、『普通の尺度』でさえ微妙だから」
「そうですか……」
「けどまあ、あくまで『僕が助言できない』ってだけだけどね」
「え?」
当然のように持ってきていたスマホを使って来島くんにアプリを使ってアプローチ。起きてるかな? と思ったら、すぐに既読がついて返事も来た。
通話できるかな、と聞いてみると、すぐに着信が。
『もしもし、おはよう。珍しいな、七時前に電話なんて』
「ごめんね、妙な時間に」
『ん……あれ、このノイズ。もしかして渡来、今は外か?』
「うん。後輩と一緒にランニング十五キロくらいしてた」
『ランニングとは……いやそれ、ハーフマラソンじゃねえの?』
「僕は疲れなかったよ?」
『お前の後輩がへばってるってことは理解したよ。で、何の用事だ』
「そうそう。朝のランニングのおすすめの距離とか時間ってある? って聞かれたんだけど、僕の規準だと凄いことになるかなーと思って、ならばその辺がっつり管理されてた来島くんが良いかなって」
『なるほど。その後輩って新入生、つまりは中一で、男子……だよな。身長はどのくらいだ?』
「今の僕よりちょっと低いくらい。体型は来島くんのほうが近いね」
『朝のランニングって言ってたけど、習慣化するって意味だよな』
「たぶんそうだね」
『で、佳苗の後輩ってことは運動部でいいな』
「うん」
『朝のランニングを以前にもやってた経験者なら七キロ。そうじゃないなら五キロ。七キロで物足りなくても十キロにする必要はねえし、十五キロはちょっとやりすぎだな』
ダメ出しされた。
割と強い口調で。
『今の中一なら十二から十三歳だろ? そのくらいに筋肉を変な付け方すると、バランスを崩しやすい……って、ユースでは良く言われるよ。だから俺が変な助言をするのも良くないと思うけど、少なくとも十五はダメ。論外。五で十分だよ五で。やるにしても七。十は必要ない。これが俺からできるアドバイス』
「そっか。ありがとう、来島くん。二人とも、聞こえてた?」
「はい。ありがとうございます、えっと……来島先輩?」
「ありがとうございます、先輩。…………。あの。間違いだったら失礼なんですけど、もしかして、来島与和先輩ですか……?」
おや。
なんだか二人がきょとんとしていたなあとは思っていたけど、もしかして知り合いなのかな?
『ん、そうだよ。俺のこと知ってるんだ?』
「はい。よく噂で聞いてました」
「治田誠司って名前、知りませんか?」
『嫌って程知ってる……、ああ、そうか、お前ら隣の県からの引っ越し組か』
…………?
なんで名前だけで解るんだろう。
『もしかして治田と小学校が同じだったか?』
「そうなんです」
「来島くん、どういうこと?」
『そのままの意味だよ。そいつらの先輩が俺の好敵手なんだ』
なるほど、そういう因果もあるものか。
『にしても、佳苗の周りにいると本当に、いろいろ妙な縁ができるな……』
「あはは、本当にね。僕もびっくりだよ。……ま、今日は朝っぱらから助言頼んじゃってごめんね」
『ん、気にすんなー。そろそろ朝飯だから切るぜ。あと、俺の連絡先が知りたいなら、そこの渡来に聞いてくれ。渡来、助言代わりにそのくらいの雑用は頼んで良いよな?』
「うん。ありがとう」
『どういたしまして。そんじゃわたあめとその後輩達、また来週な!』
「ちょっと待って。わたあめ――って、もう切れてるし」
人のことをわたあめと呼ぶのはどうかと思う。
いや絶対にダメとは言わないけどなんかイラっとする。
「来島先輩って、渡来先輩と仲が……えっと、良い……?」
「僕はそのつもりだし、あっちもそのつもりでいてくれるみたいだけど、来島くんは変なあだ名を付けてくるのがちょっと欠点だよね……」
ま、それはそれ、これはこれか。
「連絡先は後でメモって教えるよ。それのほうが良いでしょう」
「はい。ありがとうございます」
「どういたしまして」
この二人はまだスマフォなどは持っていない組なのだ。
といっても、今月中に買うとも言っていたから、それまでの不便と受け入れよう。
「息も整ったみたいだし、そろそろゆっくり帰ろう。八時頃には着くでしょ」
「それでも八時なんですね……」
「ハーフマラソン……かあ……。案外やってみると、走れるもんなんですね」
「毎日でも?」
「ごめんなさい。調子こきました」
とまあ。
そんな漫才のようなことも出来る程度に回復したので、堤防を越えて街の道を普通に歩いて行くことに。
「近道だけどわかりにくいルートと、解りやすいけど滅茶苦茶遠回りのルート、どっちつかずで普通なルートならどれがいい?」
「普通でお願いします」
「了解。帰りは歩きだから、普通に着いてきてね」
僕のお願いに二人は頷く。
これなら大丈夫だろう、と堤防側から歩行者用道路に一歩進んだその時、堤防の向かいの公園から、ボールが飛び出てきて――右手方向からは車が来ていて、そして、ボールを追いかけて幼い男の子が飛び出してきている。
「あ――」
それに、
「え――」
各務くんも長谷くんも気付く。
車は既にブレーキを踏んでいる、いるけれど、これは。
気がつけば後先も考えず、僕は地面を強く蹴っていた。




