母
私は養女らしい。
それを知ったのは、私の祖母を名乗る人の言葉だった。
母の葬式で初めてその存在を知った人は、その人生が透けるような、気難しい顔をしていた。
「血の繋がらない娘に見送られるなんて、とんだ皮肉ね」
父は強い目で祖母を睨んでいた。少し狼狽えた老人は、悔し紛れに鼻を鳴らして、簡単に焼香をして、さっさと出て行った。
それが、五年前のこと。
「あの人があなたの母親よ」
そう言われて、人差し指の先を追った。一番に感じたのは、本当だろうか、という疑念だった。その人は、とても美しい人だった。とても私とは似ていない。
「信じられないって顔ね」
彼女は笑った。母――まだそうとは思えないが、便宜上そう呼ぶことにする――のことを教えてくれたのは、彼女だった。この人はこの幼稚園の園長で、母の恩師であるという。母のことが知りたいと訪ねて来た私に、存外あっさりと情報を与えてしまった。分からず仕舞いで帰ることも覚悟していたのに。
「いえ、あの、似てないなぁと思って……」
「そうね。あなたはお父さん似なのかしら。でも、よく見て。目の形が一緒よ」
どきりとして、母を見た。子供たちと戯れる姿は、やはり美しかった。彼女と私が並んで歩いていたら、私は大層見劣りするだろう。
「さあ、中に戻りましょう。みどりは、あなたと話す気はないから」
息が詰まるような心地がした。園長が私の様子を窺うように、ちらと視線をよこす。
やはり、私は捨てられたんだろうか。
クリーム色の壁紙が貼られた園内は、所々ラクガキで汚れていた。ふと覗き込んだ部屋では、床いっぱいに引かれた布団で、小さな子供たちが静かに眠っている。
園長室に戻ると、彼女はすっかり冷めた茶器を下げた。揺れる茶色の水面を見て、緊張で口をつけることすらしていなかったことを思い出す。それを気にした風もなく、園長は新しいお茶を煎れ始めた。
「みどりから大体のことは聞いてるわ。あなたが来たら、全部教えてあげて欲しいって言われてるの。だけど、細かいところまでは分からない。私が知ってる全部を、できる限り話すわ。それで許してね」
目の前にカップが置かれた。深い赤色が揺れている。ハーブティーだというそれは、ほんのり酸っぱいような味がした。
園長はひとつ息をつくと、じっと私を見つめた。
「どこからどこまで、知りたいの?」
「すべてを」
短く答えると、園長はわずかに微笑んだ。
「いいわ。私の知る全てを教えましょう」
みどりは、同級生の真さんという人とお付き合いしていたの。ええ、あなたのお父様ね。二十三歳までその関係は続いて、ある日、みどりの妊娠が分かったの。ええ、あなたのことよ。……でも、ふたりは結婚できなかった。
真さんのご実家は老舗で、ご両親はもっといい家柄の娘さんを迎えて、お店を大きくしたかったらしいの。そのための縁談話も進めていたらしいわ。でも、みどりの妊娠が分かってしまった。ご両親はそれを知った上で、ある娘さんとの縁談を、強引に押し進めていったそうよ。真さんは拒否し続けたけど、ついには折れたわ。縁談を受ける代わりに、みどりと、あなたの保護を約束されたから。
みどりは母子家庭だったの。お母様もその少し前に亡くなって、天涯孤独も同然だった。真さんと結婚しないで子供を育てるなんて、現実的じゃなかったのよ。真さんは、とにかくみどりと子供の安全を取ったのね。……方法は間違っていたけれど。
実質、みどりは父親不明の母子家庭になったわ。その上、愛人という肩書きもついた。ええ、だって、そうでしょう? 事実だわ。
真さんは妻を迎えたわ。ご両親は、いつかみどりとの関係は破綻するだろうと踏んでいた。でも、その予想は外れたわ。
子供は元気に育って、二歳になった。その頃には、真さんと奥さんの夫婦生活は荒れ始めた。奥さんは、真さんに愛人がいるということを知らなかったのよ。
奥さんは怒り狂ったわ。当然よね。騙されていたんだもの。奥さんはみどりを探し出して、散々罵声を浴びせたわ。毎日のように執拗に追いかけ回して、みどりはほとんどノイローゼのようになってしまった。
それでも、ふたりは別れを選ばなかった。それほど愛していたのね。
真さんはみどりに誠実だったわ。ずっと一緒にいられるわけではないから、どうしたって守りきれない部分もあったけれど、いつでも寄り添っていたの。一緒に戦ってくれた。だから、みどりは今も真さんを愛しているし、信じてる。きっと、真さんも方もね。
でもね、人間ってそんなに強くないのよ。
真さんは疲れすぎてしまった。家業が傾き始めていたこと、ご両親からの理解が得られないこと、奥さんとの確執、その他にも色々。そうして、心が疲れてしまった。簡単に言えば、鬱になってしまったの。
そうして、子供が三歳の誕生日を迎えてしばらくした頃、みどりが逮捕されたわ。
「……はい?」
一瞬、聞き間違えたのかと思った。園長は困ったように笑っている。
「逮捕?」
「ええ。逮捕されたの。殺人未遂で」
さつじん、という言葉の縁をなぞって、やっと意味を理解しても、まだ分からなかった。
「ここから先の話は、みどりもあまり詳しく話してくれなかったの。思い出すのも辛いって言って。だから、私の想像で補っている部分もいくつかある。全てが事実ではないかもしれない。それだけは覚えていてね」
真さんは、みどりや子供と一緒にいる時だけは、症状が軽くなったそうよ。唯一ストレスのない環境だったからかしらね。だから、みどりも鬱を発症していたことにしばらく気がつかなかったそうよ。それでも、違和感はあったみたい。そうね……その頃から、真さんはゆっくりと壊れていってしまった、と言ってたかしら。とても……ええ、辛かったんだと思うわ。
その日、真さんが疲れた様子で家に泊まりに来たものだから、みどりは真さんの好物を作ろうと思って、あなたを連れて買い物に出かけていたそうよ。その帰り道に、奥さんと鉢合わせしてしまった。その時初めて、奥さんは二人の間に子供がいることを知ったみたい。奥さんは子供が欲しくて仕方がなかったらしいから、感情が抑えきれなくなったのね。それで、その……奥さんは持っていた鞄を振り上げて、あなたに叩きつけようとしたの。それを咄嗟にかばったみどりは背中を丸めて、必死にあなたを守ったそうよ。その衝撃で鞄の金具が外れて、それがちょうどみどりの頬に当たって切り傷ができて……血が出ているのを見て、奥さんは怖じ気づいた。最後に泣きそうな目で「ごめんなさい」と言って走っていったのが可哀想だったって、言ってたわ。きっと、奥さんも辛かったの。誰も彼も、被害者なのよ。
家に帰ると、真さんはひどく取り乱した。事情は分からなくても、異様な雰囲気は伝わってしまうのね。あなたは泣きはらした目でみどりにしがみついていたし、みどりはどうしてか怪我をしているし。隠そうって方が無理があるわ。真さんは何があったが何度も聞いたそうだけど、みどりは絶対に答えなかったそうよ。
でもね、隠し通すなんて無理だったわ。小さなあなたは、ずっと辛そうにして、すっかり外に出なくなってしまったみどりを心配して、知っている簡単な言葉を必死に繋げて、事のあらましを話した。それが本当なのか奥さんに問いただして、事実だと分かったあと、真さんは実家に戻らなくなったわ。絶縁しようとしていたみたい。
そうして、事件は起こったの。みどりが真さんの首を絞めて、殺そうとした。それを、開いていた窓から偶然見つけたお隣さんが通報して、逮捕されたのよ。
「どうしてそんなことを……」
「さあ……。肝心な部分だけ、みどりは話してくれないの。真さんは悪くない。きっと誰も、疲れすぎていたんだって、それだけ」
園長は目を伏せ、ゆるりと首を振った。
さっぱり分からなかった。母を知りたくて来たのに、余計に分からなくなった。
「さっきも言ったけれど、みどりはあなたに会う気はないわ。もっと詳しい話を聞きたいなら、あなたのお父様に聞いてちょうだい」
園長は立ち上がり、机の引き出しから小さな箱を取り出した。薄汚れて、くすんだ色合いのそれは、だいぶ古い品物のようだった。
「これを見せれば、きっと話してくださるわ。みどりから預かっているものよ。いつかあなたが来たら、渡して欲しいと頼まれていたの。何が入っているのかは知らないけれど、とても大切そうにしてた」
それは両手にすっぽりと収まるほどの大きさで、少々の重みがあった。底の布地は少し破れていて、指にざらりとした感触を残す。
「いただいていいんですか?」
「ええ。それはずっと前から、あなたのものよ」
園長は、私が角を曲がるまで見送ってくれた。子供たちの声が遠ざかっていく。
「勘違いしないでちょうだいね。みどりはあなたに会う資格がないと思っているだけなの。決して会いたくないと思っているわけじゃないわ。……許してあげて」
その言葉を反芻して、知らなければ、と思う。許すためには、すべてを知らなければ。
「ただいま」
「おかえり。遅かったね」
アパートの薄い扉が開いて、疲れた顔をした父が帰ってきた。同僚に誘われて、夕食は済ませてきたらしい。
「話があるの」
気を遣う気はなかった。父は臆病なところがあるから、真っ直ぐに聞かなければ、私の知りたいことを教えてくれない。
父は、人を傷つけることをひどく怖がる。過去の残骸だ。
父は、机の上にぽつんと置かれた箱に気づいて、食い入るように見つめていた。異様に光る目玉が恐ろしい。いつも温和な父にそんなことを思ったのは、初めてだった。
私たちは、小さな机を間に挟んで向き合った。緊張のあまり、正座を崩せないでいる。足の指がピリピリと痛んだ。
「みどりか」
「うん」
「聞いたのか」
「うん」
「バカだと思ったろ」
「うん」
だよな、と独りごちた父は、視線を下げた。
「どこまで知った?」
「ほとんど全部を。でも、なんでみどりさんが逮捕されたのかは分からなかった」
ぐ、となにかを飲み込んだ音が、やたらと大きく響いた。ひどく疲れた顔をした父は、一瞬で何歳も老け込んだように見えた。
「どうしてそんなことをしたのか知りたい。遠目で見たみどりさんはすごく優しそうで、だれかを殺そうとするような人には見えなかった。……なによりも、自分を産んでくれた人が、そんな人だなんて思いたくない。なにか理由があるなら、知りたい」
傷つく覚悟はあるか。父は言った。すでにそれが答えなんだと思って、わずかに視線を下げる。でも、私は知らなければいけない。ぐるりと動いたような錯覚を覚えて、腹部を抑えた。
「みどりは、とても優しい人だった。母子家庭で育って、言いたいことも言えず、ワガママを知らないで生きてきた節がある。割に強かで、どんなことが起こっても肝が据わっていた。……そういうところは、お前はみどりに似てるよ」
優しく私を見る目は、私自身ではなく、その奥にいる誰かを見ていた。
「事件の前の晩、俺は茜と言い争いをした」
「茜って、誰?」
「お前の母さんだよ。育ての親。……そこは聞いてなかったのか?」
聞いてない、と首を振ると、父は少し狼狽えたようだった。
園長の言っていた「奥さん」とは、私が五年前に見送った母のことらしい。
頭が混乱した。いつでも優しかった母。時々怒るとすごく怖かった。でも、大好きだった。
そんな人が、あの半ば騙されて嫁入りした、可哀想な「奥さん」。
父は私の反応に、どう対応していいか分からないようだった。
「話して。ぜんぶ」
そう言うと、父は静かに語り始めた。
事件の前の晩、俺は茜と言い争いをした。発端は、俺が離婚を切り出したからだった。俺は疲れ切っていて、いっそ実家と縁を切ってしまおうと思っていた。ずるずると答えを先延ばしにして、みどりのことも、茜のことも、両親とのことも、ぜんぶ中途半端になっていたから。両親の身勝手さと、茜からの愛の重さが辛かった。いや、茜は悪くない。俺が受け取るばかりで返せなかっただけだ。茜は騙されて俺なんかのところに来てしまった被害者で、償わなければいけない人だった。愛するひとじゃない。そんな歪な関係じゃ、崩壊するのは当たり前だった。
いや、いや、これは言い訳だ。忘れてくれ。これだから――。
話を戻そうか。茜と言い争いをして、俺はみどりの家に泊まった。その頃には、実家に戻る日の方が少なかった。お前はやたらとご機嫌で、なにをしてもケラケラ笑ってたよ。
翌日、俺は昼頃まで寝こけていた。実家では深く眠れなかったから、いつもそうだった。みどりとお前は出かけていた。書き置きで買い物に行っていることが分かったから、おれはただ待っていた。
みどりが帰って来たとき、二人ともボロボロだった。みどりは頬に切り傷を負って憔悴しているし、お前は泣きべそをかいてしがみついていた。みどりは震えていて、お前を抱いたまましばらく離さなかった。そんな様子で、絶対になにかあったはずなのに、みどりは「なんでもない」と言い張って聞かなかった。
それから、俺は仕事場には行っても、実家には帰らなくなった。何日経ってもみどりはなにも言わなかったが、見るからに憔悴して、家から出なくなった。それを心配していたお前が、こっそり教えてくれたんだ。その日、なにがあったか。
俺は話をつけなければならないと思って、実家に戻った。怒っていたし、悲しくもあった。茜は本来、とても元気で優しい人だった。そんな傷害事件になりかねないことをする人じゃなかった。……そうしたのは俺だ。
茜は真っ青な顔で俺を迎えた。怪我をさせてすまないと頭を下げられて、堪らない気持ちになった……。
そこで、俺はやっと茜の気持ちを知った。茜は本当に俺を愛してくれていたんだ。幼い頃に一度会ったことがあって、初恋だと言っていた。その後何人かと付き合ったこともあるそうだけど、女性にとっての初恋はとても大切なものなんだと言われた。そんな人との縁談が来たら、誰だって喜んでしまうものなんだと。夢を見てしまったと。
不妊症だとも告げられた。ずっと一人で病院に通っていたらしい。義母に不妊症であることを相談したら、急に扱いが変わったらしい。そこで、自分が子供を産む以外望まれていない人間なのだと分かったんだと。俺にそれを告白して、義母と同じように冷たい態度を取られたら生きていけないと、相談できないままでいたらしい。
茜の両親は仲が良くて、彼女はずっとそれに憧れていた。愛する人と子供をもうけて、幸せな家庭を築くのが夢だった。俺はそれも壊したんだと知った。
茜は泣かなかったよ。
茜と全部を話した後、俺はみどりの家に帰った。玄関を開ける前から、お前の泣きわめく声が聞こえた。みどりはお前を抱き上げて、必死に宥めていた。ふたりがかりでお前をあやして、やっと泣き疲れて眠った頃、みどりが可哀想なくらい疲れた顔をしていることに気づいた。
みどりはぼんやりした声で、最近こういう事が多いのだと漏らした。なにをしても泣き止まなくて、自分の顔を見ると余計に泣き出すのだと。何度口を塞いでしまいそうになったか分からないと。
みどりは重度の育児ノイローゼだった。笑っているのを見ると愛しくて堪らないのに、泣き続けて止まらない時は、手をかけてしまいそうになるんだと。
一方は子供が愛しくて憎いと、また一方は子供が欲しくて堪らないと泣いていた。
その時にちょうど、親父から電話がかかってきてしまった。出ないままでいたら、留守電になった。倒産の手続きを済ませた、仕事が山積みだから早く戻れ、と聞こえた。しばらく前から、家業が怪しかった。徐々に傾いていて、俺も忙殺されることがあった。倒産したということは、重すぎる借金ができたということだ。お前はまだ小さくて手がかかるから、みどりはまともに仕事をできないだろう。今の生活も、実家からの援助を受けてやっと余裕を持てるくらいのものだ。でも、倒産となれば、その先は見えている。
俺は謝った。一言、ごめんと言った。みどりは薄く笑って許した。それが苦しくて仕方なかった……。これは後から分かったことだが、俺はその頃から鬱を発症していたらしい。考えることが多すぎて、自分では気づかなかった。それで、死にたいと、言ったんだ。殺してくれと。みどりに。頼んだ。
後の記憶は少し薄い。白いモヤがかかったようにしか思い出せない。みどりが俺の首に手をかけて、力を込めて、目の前が一瞬黒くなった。遠くで悲鳴が聞こえて、顔に温かいなにかがかかった気がする。多分、泣いていたんだと思う。
「そうして、みどりは逮捕された。現行犯だったから、庇いようがなかった。みどりはまともな釈明をしなくて、俺の証言でやっと懲役がついた。みどりは一度精神科の病院に入院して、お前は俺たちが引き取ることになった。それからは、お前が一番よく知ってるだろうが、借金を返しながら慎ましく暮らした。茜は俺から離れていかなかった。それどころか、お前を我が子のように愛してくれた。感謝してもしきれない」
父の話は、それで終わった。
みんな正しいことをしようとしていた。でも、選択を間違えた。
それだけだった。
体が裂けそうに痛い。自分の絶叫が遠い。声をかけてくれる看護師さんの言葉に頷き、必死に息を整える。
忙しなく飛び込んできた人に手を伸ばし、その手を握りしめた。頑張れ、という言葉に返すこともできないまま、息を詰める。
地獄のような時間だった。このまま死ぬんじゃないかと、本気で思った。
長い時間が経って、部屋中に産声が響いた。
私は天使を抱いて、泣いた。
やっぱり、私はふたりのような母になりたい。
墓前に手を合わせて、短く祈りの言葉を呟いた。
お母さん。私、お母さんになったよ。
この後、もうひとりのお母さんと会うの。
すごく緊張してる。怖い。
でも、あの人も私のお母さんだから。
見ててね。