Ⅶ 備―リユニオン―
大日本帝国の中で最先端の大都市と呼ばれる東京とは打って代わり、日本らしい伝統的な街並みを残す古都、――京都。
それにそぐわない西洋人が、隣の日本男児に対し先程からぎゃあぎゃあと騒ぎ立てているのは、当たり前のように周りの注目を一身に集めていた。
そもそも西洋人で無くとも大勢の人が賑わう場所で怒声を響かせたならば、どんな人であろうと驚いて必ず振り向くものだろう。ぼくも絶対見ちゃう。
「だからッ! あんた何度言ったら分かるのよ! ここは左でしょう!? なに、馬鹿なの!?」
「いやいや、絶対右! サラこそ分かってないよな?」
「はぁ? 私を誰だと思ってんの!?」
「ねえ、これさっきから何してんの……?」
諦念を込めた眼差しで二人を見ながら、正直あの二人と知り合いだと思われたくない為少し離れたところで隣に凛と立つ真白な少女に問うた。
対する彼女は、こてん、と右に頭を傾け、
「どうやら論争をしているようです。――次に行く美味しい茶屋についての」
「本当に何してんの!?」
はあ、と溜息を吐きながらこめかみに手を当てる。ちょっと厠へ行ってただけでこれだよ。……全く、呑気なものだ。
「ねえあんた! ……なんだっけ」
「と! き! ひ! と!」
「なんでもいいわよそんなもん。あんたも左よね? そうでしょう?」
どうでも良くないし威圧感が物凄く半端じゃない。これって脅迫って言うんでしょ、それくらい知ってるぞ。
第一、こんな事をしている場合ではないのだ。二人が余裕を持ちすぎてるだけで、ぼくの内心はずっとヒヤヒヤしている。っていうかこの二人目立ちすぎじゃない? ミスキャストじゃない?
どうしてこうなったのか……、と本気で頭を抱えつつ。
――事の発端は一週間ほど前に遡る。
☆
――『グレゴリオシリーズ拾弐番機、糸蓮の守護』だ。
ざわつく喫茶店の中、神妙な面持ちを浮かべたボックス席がある。
周りは気にもしないが、その少年少女が座るボックス席に漂う空気は恐ろしく真剣そのものだ。
「――守護? なぜ――いや、原因はあのテロリストでしょう? それでどうして守護対象が糸蓮になるのです?」
「そう、そこだ。お前も心当たりはあるだろうが、あのテロリスト共の目的は人ではなく人形、及び人形に関する施設の破壊。全国各地で細々と活動してるせいで認知度はねえが、私らみたいな上層部に近い奴らには注意喚起がきてたんだ」
「東京、何ていう大都市に、いきなり周知されるような爆破テロとして現れてきたのが気掛かりね。……それに対応できなかったことは、申し訳ないと思っているの。新人に敵の対峙を任せてしまったのは得策ではなかったわ」
「え、いやいや! 動けるのはぼくしかいなかったし、君の判断は間違っていなかった。――むしろありがとう。君がいたからぼくも糸蓮も立ち上がれたんだよ」
「……いえ」
「おーおー、青春だねえ。でも、現実は厄介ごとがまだ多く残っている。奴らに糸蓮が見つかってしまった。いくらポンコツな時仁くんでも私の人形の特異さは分かるだろう? ――つまりは、そういうことだ。安心しろ、助っ人は頼んである」
――師匠の笑みは、現状が重く伸し掛るぼくの心を少しだけ、ほんの少しだけ緩和させた。
☆
時仁の頭は悪くない。
むしろ、単純な頭の回転だけで言えば、あのサラ・アイズリーさえ凌ぐだろう。
……だが、それを活かすには本人の自覚が著しく足りていない上、それをサポートすべき糸蓮には一般常識と知識が欠けている。サラはその年で比べる必要もなく優秀だが、圧倒的に実践経験が足りない。
――だからまだ華子の策略で踊らせることができる。まだ、彼らを騙せる段階にいる。その段階を抜けるのも時間の問題だ。何しろ彼らは伸び代の化け物。華子のこの真意を隠しに隠した説明に疑問を抱くのはきっと、近い未来のことだ。
それでも、それが結果的に彼らを守ることができる選択というのならば、大人である華子が背負うべきことなのだろう。
子供はまだ、大人に守られていればいい。背負うのは大人だけでいい。
……そう思うのは、ただの偽善だろうか。
「――あなたも難儀なお人ですね」
三咲奏はその場に似合わない優しい微笑みを浮かべながら、華子の前にほのかに湯気のたった紅茶を差し出した。
上品なカップの側に添えられている一口サイズの菓子は男である奏の、何故か備わった女子力の賜物だろう。
少し濃い目のアールグレイに角砂糖二つ。
頭を使う主人のために少し甘めに淹れる紅茶も、もう慣れた。料理が苦手な、主人から生み出された仕事仲間よりも長い時間側にいるのだ。華子のことは、自分のことのように分かる。
「なあに、この道を進むと決めた時から私の道は茨の道さ。覚悟は、できてた筈なんだがなあ」
「正しくは、『グレゴリオシリーズの完成』を目指したときでしょう。そして糸蓮は完成してしまった。――本当に、あの子たちに真実を話さなくても良かったんですか? 今なら、まだ――」
間に合うのでは、と言い切る前に、華子は奏にストップをかけた。
額を片手で覆い、ふるふると弱々しく頭を振るその様子は、まだ華子が躊躇していることを示す。
即断即決、勇猛果敢。誰よりも自分を信じ、自分の信念を貫いてきた華子には珍しい迷いだ。でもその根本は彼らの未来のため。辛く冷酷な決断を華子は求められていた。
言わなければ、彼らは未来で、――自分が居ないかもしれない未来で子供だけで悩まなければいけないかもしれない。けれど言ったなら言ったで優しい彼らは自分自身を守れない。彼らを守れる大人は、現在華子しかいないのだ。
だからこそ――
華子の手が硬い拳に変わった。爪が食い込むほど強く握られた技師の手は、小刻みに震えて痛々しい。
「――言えるわけが、ないだろう……!」
喉から絞り出した華子の悲痛な声に、奏は目を伏せる。
奏は彼らのことを好いてはいる。
――けれど優し気な見た目に反し、奏はそれほど優しい人間ではない。優先順位がしっかりとしていて、決して覆ることはない。
「……そう、ですね。『本当は敵の方が正しい』なんて、あなたが彼らに言えるはずがない」
でも、それでも。と先を紡ごうとした言葉を奏は呑み込んだ。
沈黙が場を支配するが、双方の心の軋む音が聞こえるようだった。
「本当に、あなたは難儀なお人です」
奏は華子のことなら自分のことのように分かる。
けれど奏の優先順位は変わらない。華子の気持ちは手に取るように分かれど、それに同意はできない。
奏が一番大切なのは『華子の幸せ』なのだから。
「私は何があろうとあなたについていきますよ」
そう言って奏は華子の側から離れていった。
華子は何も言わず俯いている。
差し出された紅茶は既に冷め切っていた。
☆
――三日後に人形遣い協団に。
それだけ伝えられて、非日常は途端に日常に戻った。
満月が街の人工的な光に負けず劣らず爛々と輝いている。良く知る帰り道をぼんやりしながら歩いているだけで先ほどまでの非日常が遠く思えた。
日常というには、非日常の元凶である人形の同居人は相変わらず側にいて、少しばかり複雑な感情が湧き上がってくるが毎食出てくる安上がりで美味しい飯の魅力には抗えない。
三日後にはまた非日常に戻るとしても、あまり実感が湧かなかったからかもしれない。
事実、ぼくにとってはあの人形遣い協団襲撃事件も桜庭さんの言葉も師匠の言った糸蓮の守護も、全部全部実感が湧かないのだ。
アイズリーの彼女は流石こういう事態に慣れているのか落ち着いていたけれど、やっぱりぼくには無理。
情報を咀嚼して内容は理解している。妙に頭は冷静で、彼女とは意味合いが違うが落ち着いてもいる。しかし心が、ついていかない。
ていうか、そもそも何で主人差し置いて主人が人形を守らなくちゃいけないんだ? という当然の疑問があるのだが。まあ、それは師匠の人形だから……、と自己完結。
「はあ」
「? どうしたんですか、トキヒト」
「ううん、なんでもない。今日は疲れたから軽く食べて行こうか」
「私が作りますよ?」
「いや、いいよ。君も疲れただろう、一緒に食べよう」
糸蓮は元々大きい目を更に見開いて、とても驚いているようだった。
本当に不可解なことを聞いたみたいに不思議そうに首を傾げて、小さく「なぜ?」と零す。
確かに今までのぼくなら糸蓮に一緒に食べようなんて言わなかっただろうからなあ。
しかし糸蓮のその姿が妙に人間じみていて、ぼくは思わず声に出して笑ってしまった。
糸蓮は不意の所作の端々が人間らしくて意識していないと彼女が人形だってことを忘れそうになってしまう。それではいけない、と心の弱い部分が叫んでいるのに、今の糸蓮は赤ん坊のように真っ白で何も知らないから、ついつい人間と同じように接してしまうのだ。
……これを見越して師匠がぼくに人形をよこしたのなら、やはりぼくは師匠に一生敵わないのだと思う。
まあ、簡潔に言うと非日常から日常に帰って来たとき、急に吹っ切れてしまったのだ。
「ご飯を食べて、お風呂に入って、今日はゆっくり眠ってしまおう」
一息。
「ぼくはどう頑張ってもやっぱり人形が好きではないから、いっそのこと師匠の言う通り君をできるだけ人間と同じように接しようと思うんだ。多分、ぼくは君という人形を信じ切ることはできない。――だから、君が人間になってほしい」
糸蓮は何も言わず静かにぼくの言葉を聞いていた。
糸蓮には好きではないとやんわり言ったが、ぼくはどうしても人形が嫌いで、受け入れることはできないし信じることはできない。
一度裏切られたぼくの心の傷は、そう簡単に癒えてくれないから。だからもういっそのこと糸蓮に人間になってもらえばいいと思った。
彼女自身で考えて、行動を起こして、ぼくのやることが間違いだとそう彼女が断じれば。ぼくを切り捨ててくれるようになってくれれば、ぼくはきっと糸蓮という彼女自身を信じれる。
「できるんだろう?」
――だって師匠ができると言っていたのだ。
師匠の言葉は迷いがない。師匠ができると言えばそれはきっとできることだし、できなくてもできるようにするのが師匠の力だ。できない筈がない。
師匠はもうぼくを逃がすつもりはなくて、アイズリーの彼女もぼくが糸蓮から逃げることを許さないだろう。桜庭さんもきっと同じだ。前後左右囲まれて逃げれないんだったら、もういっそ糸蓮の方が変わってしまえばいい。
傲慢かもしれない、自分勝手かもしれない、でもぼくは変われないから。
だから、不敵に笑って見せた。
できるだろう、と。君は変われるだろう、と。
「――当然です。葉守華子が作った、そしてあなたの、最高の人形なのですから。……今は無理でも、必ず」
満月を背に、糸蓮は美しく笑った。白の糸は月明かりを浴びて更に白銀に輝き舞った。
それにぼくも笑えて、静かに糸蓮に告げる。
「『約束』だ」
「はい、『約束』ですね」
それはまるで神聖な儀式のようで。
それと同時に、幼い子供同士が契を交わす、遠い未来の指切りのようでもあった。
「行こうか、糸蓮。お腹すいちゃった」
「はい、行きましょう、トキヒト」
☆
――あっという間に三日が過ぎた。
二日目の夜、ぼくは遠足の前日は眠れなくなる人間なので手間取るかと思いきや全然そんなことはなく、むしろ自分が驚くほどぐっすり眠れた。熟睡である。
そしてがっつり胃袋を掴まれた糸蓮の朝ご飯を食べて、待ち合わせまでゆとりある時間を使ってゆっくりと支度する。この先の非日常を除けばとても穏やかな朝だ。普段でもこんな穏やかな朝は中々ないのに。なんだ、嵐の前の静けさか。怖っ。
いつも通りの服にいつもとは違う、やっと支給された真新しい人形遣いのコートを羽織る。三枚の桜の花弁がそれを表していた。
よし、身支度は整ったし、忘れ物はない。少し早いけど、早いに越したことはないし、そろそろ行くか。
「覚悟はいい? 糸蓮」
「もちろん。どこまでもトキヒトと共に」
勢いよく扉を開けて、いざ出発だ! となったとき、ぼくのアパートの壁に凭れ掛かるあまりに不釣り合いな彼女と目が合った。
不遜な態度で、不機嫌にぼくを睨みつける彼女は、淑女にあるまじき大股でぼくへと向かって来る。その迫力に思わず目をそらすと、彼女の肩に乗っている人形と目が合ったので挨拶の意を込めて手を振ってみる。――殴られた。
「な、なにするんだよ!? いってぇ!」
「普通主人差し置いて人形の方に挨拶するかしら。もちろん海のように心の広い私と、その崇高なるパートナーだから許すけれど、そうだというのならこの国のマナーは面白いマナーね。笑えるわ。――あ、糸蓮さん、おはよう。いい天気ね」
「おはようございます、あいずりー様。今日は洗濯日和ですね」
「ええ。今日のようないい日には布団を干したいのだけれど、残念だわ」
「アイズリーさんもぼくに挨拶してないからね!?」
ぼくの意見は無視された。
ええ……。こんな華麗に無視されることってあるの……? と怒りよりも先に戦慄していると、さて、とアイズリーの彼女から先に要件を切り出してきた。
「この任務、私も担当することになりました。私の場合、グレゴリオシリーズ拾弐番機・糸蓮の守護と共に貴方のサポート。ですからこの度の長期任務、私も同行します」
桜四枚半としての事務的な口調の割に、彼女の表情はまざまざと上から目線で「精々私の足手まといにはなるんじゃねーぞポンコツ」と伝えてくる。
僕自身の至らない実力は自分で十分に把握してるので何も言えない。
糸蓮はその表情の真意に気づかず「よろしくお願いします」と素直に頭を下げてるからなおさらだ。
それでも彼女の存在はすごく心強いので取り敢えずぼくも頭を下げておく。
頼もしいのに……! 頼もしいのに、何でこんなに不安なんだ……!?
「あ、もしかして君が先生の言っていた助っ人なの?」
単純に思いついたことを聞いてみた。三日前、師匠は助っ人を頼んだ、と言っていたけれどその場に彼女は居たし、彼女だったとしたらその場で言うだろうから別の人だと思っていたのだが。
だから一応聞いてみたのだが案の定な返事が返ってきた。
「いいえ。私もその件については聞かされていないわ。人形遣い協団の方で合流の予定らしい、と」
「あいずりー様もご存じないんですか?」
「ええ。腕は立つと先生はおっしゃっていたから、足を引っ張るとは思えないけれど」
どうして足を引っ張るでこっちを見たんですかねえ……。いや、理由は分かるけどさ……。
そうか、助っ人は別にいるということは基本四人で行動することになるのか。この濃いメンバーと上手く付き合っていければバランスのいい編成だと思う。……ただなあ。
「とりあえず人形遣い協団に行こうか。この時間の東京駅はきっと混むから早めに行こう」
「そうですね、行きましょう」
「ちょっと、あんたが仕切らないでくれる!?」
この任務本当に大丈夫だろうか。
☆
なんとか無事に人形遣い協団には着いた。
途中ぼくが人ごみに流されたり絡まれたり転んだり流されたりしたけど、一応待ち合わせ時間にはギリギリ間に合ったのでセーフだろう。
以前と比べるとやはりボロボロの人形遣い協団だが、政府から復興金と人手を借りてるらしく、まだ半壊して三日目ながらほんの少しだけ元の形が見え始めている。
ぼくの責任では決してないけれど、関わった問題が解決しかけているのは単純に安心した。
あの大事件で負傷者は多数あれど重傷者はなし、死傷者もいないのだから、建物の半壊一つの犠牲だけで済んで今思うとよかったのかもしれない。
それに既に人形遣い協団としての機能は最低限復帰していて、人形遣いたちの仕事には影響が出ていないのだという。それは偏に桜庭さんの協団長としての技量だろう。
あの悲劇を三日と立たず復興してみせるのは並大抵の能力じゃあ無理だ。
あの柔らかい雰囲気で流されがちになってしまうが、あの人もあの人で食えない何かを腹に飼っている。
先日の軟禁の件で嫌なほど実感した。――あの人は信頼できる人だけれど、信用すべき人ではない。
でもきっと、そう思っているのはぼくだけだということも、分かっているつもりだ。
「いらっしゃい、サラ君、時仁君。華子君から任務の内容は聞いているよ。さあ、こちらへ。君たちの助っ人はもう到着しているから、案内するよ」
ギリギリ被害を免れた立て付けのおかしいあの扉を押すと、中からぼくたちに気づいた桜庭さんが何も言わずとも目的の元へ促してくれた。
まるでぼくたちを軟禁したとは思えないほど“異常に”普通に接してくる彼に、勝手に身構えてしまう身体を気づかれないように必死に隠した。糸蓮にはばれているかもしれないけれど。
協団の中は襲撃事件の名残で酷いことになっていて、よくもまあこれで死傷者がでなかったな、と事件の幸運さに感嘆する。
爆発でいやにだだっ広くなってしまった廊下を歩いていくと、しばらくして協団長の部屋らしき所に辿り着いた。
「ここだよ」
開かれた扉の奥にいるぼくたちの目当ての人物を探そうと目線を動かすと、糸蓮が端にある一人掛けのソファーを示した。
「助っ人、とはあなたのこと?」
彼女のころころした鈴のような声。
でもぼくからすると猫を被っているのだといるのだと分かる声。多分、今のぼくは相当おかしな顔をしているのではないだろうか。
助っ人、と呼ばれた、――十代後半の青年、だろうか。少なくともぼくたちよりは年上だろう青年が振り返る。
その時漸く把握できた青年の容姿に、ぼくは愕然とした。
大雑把に切り揃えられた艶々しい黒髪、深海のような蒼い瞳。その眼に映る、一度見たら忘れることのできない強い強い光。春夏秋冬問わず身につけられる、動く度靡く紺青のマフラーが彼の象徴として強く記憶に刻まれている。その驚くほどの美丈夫を、ぼくは知っていた。
ぼくとは違う理由で固まっている彼女を差し置いて、ぼくは思い切り叫んだ。
「――コウくん!?」
「あれっ!? とっきーじゃん!!?」
「「なんでここにいんの!?」」
はもった。