Ⅲ 思―フライトゥ―
鳴り響く戦闘開始の合図と共に、ヘルムと呼ばれた恐竜型の人形と糸蓮が同時に飛び出した。
ぼくには到底目に追えない速さで行われる戦闘のそれらを、彼女はまるで当然のように静観している。
ざわざわとしていた野次馬はシン、と静まり返り冷たく張り詰めた空気の中、ヘルムと糸蓮の激しい戦闘の足跡だけが刻まれていた。
――ああ、不味い。
彼女の言葉も、この現状も、何もが理解出来ずにいる中でそれだけが唯一ぼくが分かることだった。
どんな選択肢が最良か、考えるほど泥沼に嵌る思考を軽く頭を振って振り払う。そうでもしないと、忘れようと鍵を何重にも掛けた厳重な過去の記憶がぼくの頭の中を静かにゆっくりと蝕んでいきそうな気がしたから。
――ああ、本当に、不味いな。これは。
焦りと、不安、そして負けるかもしれないことへの奥底にあるほんの少しの期待が、この勝負に決定的な何かを及ぼしたのかもしれない。
何も出来ないぼくを置いてけぼりに、細い糸で守っていた脆い均衡がとうとう崩れた。
――ヘルムの重い重い一撃が、糸蓮の柔らかい腹部にめり込んだのだ。
☆
ヘルムのその巨体は動き回るのに不便だ。
だから糸蓮はなるべく後ろに回り込み、敵の隙を突くようにしていた。
身体の小さな彼女は軽快なステップを刻み、誰の目にも止まらない速度を叩き出している。
その速度を保ちつつ、ザッと砂埃を舞い上げ後ろに回り、加速を生かした蹴りを入れる。
ガッ
「――!」
糸蓮の目が少しだけ見開いた。
確実に入ったかのように思われたそれは、ヘルムの方翼だけで見事に受け止められていたのだ。
しかしそれも束の間、遠心力を利用し、彼は自身の尾を彼女に叩きつけた。
「糸蓮ッ!!」
めりめり。凡そ普通の人間では聞くことのない音がぼくの耳に鮮明に届いた。
叩きつけられた時と同じ速度のまま、彼女は観衆へと吹っ飛んでいく。
ドォン!!
耳を劈くような轟音を上げる。
糸蓮を中心に壁にヒビが入り、パラパラと瓦礫を落としていた。もくもくと砂埃が舞い上がる中、ごふり、と人形のくせに血でも吐きそうな息を吐き出して糸蓮は地面に膝をつく。
「かっは、げほっ」
「糸蓮! 大丈夫!?」
「……っ、この程度、心配には及びません」
彼女の強い眼差しが、ヘルムを見据える。
――だから、嫌だったんだ。
師匠の人形は戦闘機能も勿論高性能に作られてはいるが決して戦闘特化という訳ではない。あくまでコンセプトは“人間”であって、純粋な戦闘用人形ではないのだ。
しかしヘルムと呼ばれた人形はパッと見戦闘特化型だ。本気で戦うのなら、人形の相性からして分が悪すぎる。
こんな後出しの言い訳を言ったところで今が変わるわけではないけれど、そう思わずにはいられない。
最初から結果が決まっていた。分かっていた決闘に誰が本気になるものか。
負けることなんて分かりきっていただろうにあの時のぼくは場に流されてしまったのか。断ることなんて今 考えれば幾らでも出来ただろうに……!
『君は決断力が弱い』
――うるさいな、そんなこと分かってる。
『時仁、そんなんだから見捨てられるんだ』
――ちょっと黙っててくれ。
『ごしゅ……じ、……!』
彼女の断末魔が脳内で響いた。
徐々に糸蓮の姿がぼやけて、彼女はあの子に成り代わる。
その瞬間、ぶわっと一気に冷や汗が流れだした。
じくじくと後悔と恐怖が胸に押し寄せ、ぼくは耐えるように眉を寄せる。
「――ハッ」
彼女の方から聞こえた鼻で嗤う嘲笑いが、虚となりかけた心に響いた。
「今の貴方じゃ私に勝つことなんて百パーセント無理ね」
「……そんなの、当たり前じゃないか」
彼女は桜四枚半の天才で、ぼくは只の新人のパペッターだ。
どれだけぼくと君との間に経験と技術と才能に開きがあると思っているのか。
本来なら関わるはずのなかった縁、こうやって戦うことすらあり得なかったはずの存在に勝てるわけがないだろう。
声にこそ出さなかった。言い訳だと十二分に分かっていた。でも糸蓮が膝を曲げた今、ぼくは既に諦めかけていたのだ。
「――いいえ。当たり前じゃないわ。言ったでしょう、『今の貴方じゃ』、と。どれだけ技術に開きがあろうが、経験に差があろうが。例えそれが天才だろうとね、“相棒を信じて戦う”者に私は百パーセントなんて数字は出さないわよ」
彼女の眼光がきらりと光る。
強い、強過ぎる意思の塊。ぼくは何故か全てを見透かされるような気がして、ふいっと目を逸らした。
「実際に百パーセントなんて、それこそあり得ないもの」
ふわりと紫の髪が揺れる。
隠れていた眉根が下がっているのが見えた。
なんて強い言葉だろう。
だからこそ彼女がぼくに心底失望していることが伝わってくる。
なんで彼女が初対面のぼくを目の敵にするのか全然分からないけれど、それでも“負けしかない”から“負けてもいい”と思えるくらい、彼女は圧倒的に強者の風格を身に纏っていた。
一方、腹部を攻撃された糸蓮は、なおもヘルムに向かっていく。
その姿がどうしても惨めに思えて仕方がない。
多分、今のぼくは酷い顔をしている。
「……糸蓮!」
「はいっ、トキヒト!」
きっと糸蓮は、次の攻撃の指示を待っているんだろう。ぼくを信頼してくれている、そんな声だ。
――だからぼくはとても弱い。
「逃げて!」
「!?」
糸蓮の驚愕に揺らぐ瞳。その一切曇りのない瞳が、ぼくの目を射抜く。
裏切られたような、そんな顔をしていた。
「くぁッ!」
「糸蓮!!」
ズドォンという重い地響きが轟いた。
一瞬の隙を突き、ヘルムは自身の方足を糸蓮に向かって振り下ろしたのだ。
ヘルムの巨体の重さを利用して、全身でのしかかる。
ミシミシと伝わってくる音。
それを聞くのが嫌で嫌でたまらない。
「――ッ!」
思わずぼくは耳と目を塞いだ。
「ッ! とても残念だわ……! なんであんたなんかが先生の――」
「トキ、ヒト」
彼女の言葉に被せるように糸蓮がぼくの名を呼んだ。
目を瞑っている間に、ヘルムは足を退けたのか、そこにはボロボロに横たわっている糸蓮の姿があった。
ギギギ、と膝をつき足を伸ばそうとぎこちない動きをしながらも、まだ戦えるのだと立ち上がろうとする姿が見える。
糸蓮の顔には諦めなんて感情は一欠片さえない。短い間だけれども、良く見た無機質で真っ直ぐな瞳がぼくに訴えるようにじっと見つめていた。
「ちょっと、私の話を遮るんじゃ――」
「少々お黙りください。私は時仁と会話をしております」
「な、んですって!?」
「ですから、少々お静か願います。淑女でしょう、声を張り上げないでくださいませ」
「うっさいわね! 何で貴女にそんなこと言われなきゃいけ――」
「それで、トキヒト」
「話を聞け!!」
張り詰めていた空気が、一気に溶けた。
彼女は糸蓮のペースに乗せられ、キャンキャンと糸蓮に噛み付いている。その様子を見せつけられて、ぼくは大分彼女のペースに巻き込まれていたのだと知る。
野次馬も急な空気の転換に困惑が段々と解けてまたわいわいと騒がしい話し声が戻った。
肩の力が少し抜ける。
「――ああそっか」
ぼそりと呟き、ふう、と相手側に気づかれないよう深呼吸をすると、その時漸くまともな精神状態が戻った気がした。
彼女のペースに飲まれて彼女の掌で転がされるくらいなら、ぼくもまた一つの選択肢を選ぼうと思う。
ぼくだって、決して性格が良いという訳ではない。なら最後に彼女の度肝を抜いた顔くらい見たいじゃないか……!
そう結論付けて、ぼくは立会人を引き受けてくれていた桜庭さんを呼ぶため右手を挙げる。
「桜庭さん。いえ、ギルドマスター。先ほどは決闘を受けたなら拒否することは出来ないと仰いましたが、それは人形遣い協団の除籍を持ってしても、ですか?」
「んなっ!」
彼女の驚いた声を尻目に桜庭さんはふ、と考え、その後目を見開いた。ぼくの顔を凝視してまさか、と呟く。
「出来なくはない。しかしまさか、本気かね?」
「ええ。ぼくは人形遣い協団の除籍に伴い、この決闘を――」
「トキヒト! 私はこの決闘を降りる気などありません!」
ぼくの唯一彼女の度肝を抜くはずだった選択肢は、当の本人――糸蓮の初めて聞いた鋭い声によって遮られた。
「ふんっ。だ、そうよ?」
ぼくはなおも得意げな顔をする彼女に苦い顔をする。
それよりも、糸蓮の方が気になる。勝手に決闘を受けた時点であった違和感。何が糸蓮をそんなにさせるのか。
「なんで? だってきみはもう、そんなにもボロボロなんだ。ぼくはきみを守る義務がある。きみを傷つける決闘を辞退できるならそれに越したことはないじゃないか」
これがぼくの本音。
ぼくは糸蓮の持ち主として糸蓮を守る義務があるのだ。
別にぼくはギルドに入りたくて入った訳ではないし、師匠になら事情を説明して納得して貰えば良い。師匠は怒るだろうけれど、きっと許してくれるから。怪我なんかしないで帰っても良いじゃないか。
「それなら、私は服従人形として、貴方を守る義務があります。けれど、それを決めるのはトキヒトではありません。決闘を引き受けたのも私です。ならば、辞退するかを決めるのもきっと私です。私が戦うのに、トキヒトが諦めた顔で俯かないでください。どうか……信じてください」
先ほど裏切られたことをよっぽど根に持っているのか、それとも彼女を動かす何かがあるのか。
鈴の音のように、凛と、糸蓮は立った。
「負けても除籍、辞退しても除籍となれば、最後だけでも私を信じて待っていてはくれませんか。最後まで、トキヒト、……マスターのために戦わせてください」
そう、お手本のように綺麗に頭を下げた糸蓮にぼくは戸惑った。ぼくに、糸蓮を止める術は持たないこと。“決めるのはぼくでない”。はっきりと言われてしまえば、もうどうしようもなかった。――きっと絆されてしまったのだろう。
負けた時の師匠の言い訳も、精一杯戦ったのだと言えば怒られないから。糸蓮が我儘を言うから。そう勝手に言い訳も並べて、ぼくが糸蓮の主人として立っても良いための免罪符を無理やり持ってきた。
「――わかった。とりあえず、今だけは糸蓮を信じるよ。最後まで戦って、どうせなら勝っておいで! どのみち逝く先は同じだ!」
「承知いたしました!」
気合を入れるために大きな声で自らを鼓舞する。パァン、と頬を叩き、目の前の決闘相手である彼女を見つめる。もう逃げないから、という意思を告げるために、力強く。
「……へえ、思ったより良い目をするじゃない。百パーセントという言葉は撤回してあげるわ。私もヘルムも待ちくたびれたもの。精々私たちを楽しませてよね、『元神童』人形遣いさん?」
「!? きみ、それどこで――」
――ドッガアアァァアンン!!!!!
「な、何だ!?」
再戦の合図が鳴ろうとした時。
恐らくギルドの入り口であろう場所から轟音と共に黒煙が上がった。
それを見た桜庭さんの顔色が険しくなり、怒号を上げる。
「二人とも、決闘は一時中断! 念の為そのまま戦闘態勢に入って!」
「はいッ!」
「えっ、ちょっと待っ――!?」
観衆は桜庭さんの的確な指示に応じて散り散りになっていく中、いまいち状況が掴めていないぼくがしどろもどろになっていた。
「しょうがないわね、また今度相手してあげるわ」
「ええ、緊急時です。再戦は後ほど」
「ほらポンコツ! 行くわよ」
黒煙に向かって彼女が走り出す。
それを合図に、ヘルムもまた小さくなってサラの腕に着地した。
……多分ポンコツはぼくのことなんだろうな。
そう思いながら、ぼくは大人しく付いていくことにした。