プロローグ 逢―フェイタリズム―
「時仁」
閉じていた目を開け、隣に立つ青年を見上げた。
彼は太陽の眩しさに目を細めながら、ぼくを見下ろしている。
穏やかな風が優しく頬を撫で、小高い丘の草木を揺らす。
「なに? 兄さん」
ぼくは多分、大好きな兄に向かって、笑顔で問いかけたんだろう。
しかし兄は違った。いつも暖かな笑みを浮かべていた兄の顔は、罪悪感で満ち溢れていて。
ぼくと同じ赤い髪を風に漂わせ、優しい兄には似合わない泣きそうな顔でぼくに告げた。
「許してくれるか?」
☆
ジリリリリとけたたましい目覚まし時計の音が室内に鳴り響く。
その煩い音を頼りに、手探りで机に置いてあった目覚まし時計を止めた。
いつも寝ている布団とは違う硬い感触に首を傾げる。——ああ、そうだ思い出した。昨夜は面白い本を見つけて、深夜まで読みふけっていたんだ。それで寝落ちして机に突っ伏した状態のままで寝ていたのか。しかし、体のあちこちが痛い。特に腰が。
変な体勢で寝ていたせいか満足に寝られず、眠気が酷い。今これに負けると二度寝という素晴らしい微睡みの奥に吸い寄せられ……
「ッ! やばい、寝るとこだった!!」
バッと勢い良く時計を見る。
止めた時はそんなに見てなかった。しかしよく見てみれば、七時半。
まだ、大丈夫。ほっとしながら何の意図もなしに懐中時計に手をやり、カチリと蓋を開けた。
「……?」
ちょっと現状が理解出来ない。
懐中時計の指す針は八時ちょうど。それに対して、無造作に机に置いてある長年使い倒した目覚まし時計の秒針は止まっている。自分の顔から血の気が引いたのが分かった。
お下がりで、亡くなったが生前は最高の技師と呼ばれた人が作った永久時計。一度回すと永遠に時を刻み続ける、我が家の家宝の一つ。
この懐中時計は正確だ。それは何よりもぼくが知っている。狂っている筈がない。
だからぼくはこう思う。
もう終わった。
あの人とのの約束の時間に遅れて無事である筈がない。
待ち合わせの時間は八時半なのだ。
場所は大通りの喫茶店で、ここから三十分以上はかかる場所である。
遅刻は確実。ひとまず、急いで準備をしなくては。
壁にかけてある服を無造作に掴み、頭から被る。
が、髪が引っかかった。
「あー! もー!」
取ろうと試みるが、焦っているせいで余計に取れない。
暫く格闘すること五分くらい。まさかのところで時間を食った。今この瞬間も時は進んでいる。一秒でも無駄に出来ない状況なのに。
一応荷物は昨日のうちに簡単に揃えて鞄に詰めておいた。先にやることは後の幸だ。もうこれからこれを我が家の教訓にしよう。
昨日の自分ありがとうと心の内で拝んでおく。
「寝坊するし髪ちょっとじんじんするし痛いし遅れるし……!」
鞄を手に取り扉から弾き出されるように飛び出した。
隣の部屋から「うるさいぞー!」と声が聞こえてきたが、気にしている暇なんて無い。
ぼくは走り出した。
☆
「それが遅れた理由か?」
「舐めないでください、まだ有りますよ!」
「ほう?」
「その後黒猫の大渋滞に会うし、鳥の糞が降ってくるし、更には家の二階から水が降ってくるし、自転車が石に躓いてまさかのパンクを起こし、」
「分かったもういい」
額に手を当て、諦めたようにため息を吐く女性。
胸にサラシを巻き、その上から白衣を着ている。中々のセンス(勿論褒めてない)をした彼女はぼくの師匠であり、最年少でトップレベルの人形技師になったという実績を持つ。この業界で知らぬ者はいないという、今や世界一の人形技師である、葉守華子だ。
彼女は腕を組み直し、その美しい顔に深い眉間の皺を刻みながらこちらを見た。
「相変わらず不幸の塊だなお前は。それでそんなにボロボロなのか」
そう、ぼくの今の状態は全身びしょ濡れ、所々に泥が付き、終いには袖が少し破けていた。
ぼくは恥ずかしそうに頭をかき、やけくそになりながら言う。
「もうっ! 褒めないでください!」
「褒めてねーよ褒めたくもないわ」
「でも華子さん。時仁は急いで来てくれましたよ」
華子の隣に座った男性が、苦笑いをしながらまあまあと収めてくれた。燕尾服を着ていて、職業は執事。つまり、三咲奏は華子さんの執事だ。
「で、その結果が一時間遅刻ってどういう了見だっつー話だ」
「お、おっしゃる通りです……」
「もういい……。お前、奢れよ?」
「うっす……」
しょぼんと肩を落とし、伝票を手に取る。
書かれているものは、珈琲、紅茶、サンドイッチ、ケーキと……
「――多くないです?」
「文句あるのか」
「いやこれは流石に払えないんですけど……」
「あ、私の分は払わなくてもいいよ、時仁」
「三咲さんは何頼みました?」
「紅茶」
「オゥ……」
一番安いのじゃねーか。
☆
「ありがとうございましたー!」
店員の軽やかな声が背後から聞こえる。
その輝かしい笑顔とは正反対に、ぼくは涙を流した。貧乏学生であるぼくの有り金全て毟られてしまった。
……今月、どう生きていこうか。
「さて、まずは歩きながら説明しようか、少年」
レンガで出来たタイル張りの歩道を、華子さんが長い足を伸ばし大股で前へ歩き始めた。その後から三咲さんが礼儀正しく付いていく。
それを見てどっちが女か分かったもんじゃないな、と思いながらぼくも遅れを取らないように歩き出す。
「お前はオーベイドールを知っているか?」
「もちろんです。今や世界中に広まる人形の事。師匠が作っているのもそうですよね」
「正解だ。服従人形。主人の言うことを何でも聞き入れる従者である」
「……何の脈絡もありませんね。いきなり何故そんなことを聞いて来るんですか」
「お前はオーベイドールが嫌いと、以前そう言っていたな」
「ええ」
喫茶店から徒歩五分。華子さんの家はとても近い。その為あの喫茶店は華子の行きつけだ。
彼女は家の横に隣接された倉庫のような建物の扉を開け、中に入る。それに続くように付いていく。薄暗い室内は鉄や油の匂いがほんのりと漂い、少し懐かしく思った。
「手を出してごらん、少年」
「なんです?」
芝居掛かった口調に嫌な予感がしつつも素直に手を出した。
差し出した手のひらに、ころんと置かれた一つの金属にギョッとする。
きらきらと光る赤と白の小さな宝石が埋め込まれ、雪の結晶の模様が刻まれている、人形を巻く時に使うゼンマイだ。——嫌な予感が当たってしまった。
そのゼンマイが指す意味は。
「ッ、師匠!?」
「何だ」
「何だはこっちの台詞です! こんなもの渡されたってぼくには……!」
「君には今から私の最後の作品であり、最高傑作であるオーベイドール、グレゴリオシリーズ拾弐番機、糸蓮のマスターになってもらうつもりでな」
そう、マスター登録には、その人形専用のゼンマイを巻く必要がある。
巻いてしまえば後は簡単。安物だと追加で回さなければならないが、高級品などは自動歯車が永久的に回り続ける。
故障や、壊すことでもしない限り止められないのだ。
ぼくはその意味を知った上で、いや知っているからこそ拒否をした。
「無理です! 誰か他の人にやってもらってください!」
「問答無用」
「あんた本当に人の話を聞かねぇな! ぼくには、あなたの最終作品を持つ権利なんかありません! もう、嫌なんです!」
華子さんは一瞬動きを止め、それからわなわなと震えだした。
ぼくは少し、マズイと思った。この人が怒ると雷様なんて目じゃないくらいに恐ろしい。
「私が貰って欲しいと言ってるんだから貰え! 最高傑作だぞ? 私の、葉守華子の最高傑作を要らない!? ……それに、お前はあいつに復讐したいんだろう?」
しかし予想とは違い、華子さんは単に声を荒らげただけだった。
真剣な表情。瞳が真っ直ぐにぼくを射抜く。
「ッ……また来ます」
「待て! 時仁、こいつにはお前が必要だ!! いいか!? 今は、今はそれだけ覚えとけ!!」
聞こえない。聞いて堪るか。
ぼくはその場から逃げ出した。
復讐。その言葉が胸に突き刺さる。
別にぼくは復讐を求めてる訳じゃないし、できるなんて思ってもいない。
ただ、そう、会いたいだけなのだ。
☆
夢、だろうか。
「……ト、……キ、ト……」
鈴のような声がぼくの耳を優しく撫でる。
何処かで聞いたことのある。これは二度目の感覚だ。
こそばゆく、しかし心地いい。
よく聞こうと耳を澄ます。
「トキヒト」
どうやら名前を呼んでいるようだった。
誰の声だか分からないが、取り敢えず返事をしようと口を動かす。
が、声が出なかった。
びっくりして喉を触ろうとするも、そこにあるのは無。むしろ手がない状態だ。
(今のぼくは、実態がない……のかな)
思うことは出来た。見ることも出来る。
ならば声の主を探そうじゃないか。少しの好奇心に突き動かされて、辺りを見渡す。
見渡す限り真っ白な世界で、ぼくは声の主を探した。
本能に近い感覚。きっととても近くに居るはずなんだ。
「トキヒト」
もう一度、名前を呼ばれる。
同時にさらりと美しい白い糸がぼくの頬をくすぐる感触を覚えさせた。
見つけた。きみはぼくの、ぼくの?
――なんだろう。
思考を彷徨う中、彼女の声がぼくより先に発せられた。
「どこまででも、貴方のお側に。私は貴方の――」
ぱちりと目が覚めた。
白い白い、とても真っ白な夢を見ていた、気がする。
とても曖昧な記憶は、夢だったと確信させる。
でも一つだけ、すごく美しかったということは分かった。
数分後、目覚ましが鳴る。
珍しく早く起きたのだと思った。
昨日よりも落ち着いて、ぼくは家を出る支度をしながら、昨日聞いた人形の名を思い出す。
「糸蓮……」
ぽつりと、昨日華子さんが言っていたオーベイドールの名を口にしてみた。
それは何となくとても美しく感じて。
そうだな、そうかもしれない。
ぼくの足は自然に、華子さんの作業場へと向かった。
☆
「遅いぜ、少年」
華子さんがぼくの顔を見た途端に、ニヒルな笑みを浮かべた。まるで、ぼくが来るのを分かっていたみたいに。
本当に、食えないお人だよなあ……。
「ぼくが来ないとは思わなかったんですか」
「そりゃ有り得ないぜ、お人好しくん? その証拠にお前は今、ここにいる」
華子さんは相変わらず笑っていた。余裕そうな表情を崩すことなく、彼女はもう一度ぼくに問いかける。
「私の最高傑作、糸蓮のマスターになるつもりはないかい?」
だがぼくは、その言葉を待っていた。
師匠に言われたからじゃない。単に気が変わったからだ。
オーベイドールは今も苦手だ。苦手だが、遠くで見ているのと近くで見ているのとは違う。
ああ多分、決定的なのは夢だろうな。
どこまででも真っ白な夢は、この先何があろうと自分次第だと言っているように思えた。
子供のようだけれど、少しわくわくした。
「糸蓮は、あの人に会わせてくれるんですか」
「ああ、私が作ったんだ。できないことなんてないさ」
「あの人に、手が届くんですか?」
「もちろんだ。保証しよう」
「……やります」
顔を上げる。そのぼくの瞳は、決意に満ち溢れていたと思う。
華子さんはそれに少し驚きながら、同意するように満足気に頷き、部屋の机に被せられた布を、勢いよく取った。
ふわりとなびく布に合わせ、埃が舞う。
現れたのは、一つの硝子の箱だった。
全てが硝子でできたその箱の中で眠る、一体のドール。
「!」
まるでそれは、天使が現れたようだった。
薄暗い室内、鼻につく鉄や油の匂い、きらきらと光る埃さえもが、彼女の美しさを引き立たせていた。
雪のように白い肌。流れるような白い髪。瞑られた瞳。胸の上で重ねられた手。
硝子の箱に入っている彼女は、眠り姫の様に、生きているかのように思えた。
「どうだ?」
「とても……とても綺麗だ」
無意識に笑みが零れる。未知の存在に会ったような、好奇心溢れる笑みを、多分ぼくはしていた。
ガチャリと箱の蓋を開け、そして彼女を抱き起こす。
ぐったりと眠ったままの彼女は十分な重さがあり、本当に人のようだった。
手の上で滑ってしまう真白の髪を何とか持ち上げ、首筋を確認する。
そこには雪の結晶の絵と亥の字が書いてあり、扉のように開くようになっていた。
それを開け、ゼンマイを突き刺し、ゆっくりと巻いていく。
カチカチと巻く音だけが室内に響き渡った。
やがてカチリ、と終わりを示す音が鳴った。
ゼンマイを抜き、蓋を閉じる。そしてもう一度寝かせ、起きるのを待った。
一分もしない内に、眠っていた彼女がぴくりと体を震わせた。
『マスター認証確認、起動します』
機械音が彼女の中から聞こえる。それと同時に、深紅の瞳がゆっくりと姿を表した。
雪の積もる地面にぽとりと、赤い色を落としたようだった。
「おはよう、糸蓮」
ぼくは彼女に微笑みかける。糸蓮はむくりと起き上がり、ぼくを真っ直ぐに見た。
目が合った瞬間、ぼくは更に引き寄せられる。
それほど、魅力的だと言えよう。
「貴方が、私のマスターですか?」
幼げのある顔。小さく開かれた口から発せられたのは、鈴が鳴るような、凛とした声だった。
そして何処かで聞いたような、懐かしいような声。
ぼくはこくりと頷く。
「ああ、ぼくは鎮目時仁。君のマスターだ」
「時仁、トキヒトですね。分かりました私のマスター。命のまま、グレゴリオシリーズ拾弐番機、糸蓮。貴方に全てを捧げましょう」
彼女はその場で正座し、まるで手本のようにお辞儀をした。
そしてぼくに忠誠の言葉を並べる。
無機質で、完璧で、美しく、そして儚い。
安定していて且つ、不安定。
彼女はそんな存在だった。
一連の流れを見届けた華子さんが、口を開く。
「あんがとうな時仁。そしてもう一つ頼みがあるんだが、聞いてくれるか?」
「はぁ、何でしょう」
「そいつに、心というものを教えてやってくれねぇか。こいつはまだ未完成。私の作品のテーマは“人間”だって知ってるだろ? こいつは私の作品の中で一番人間に近いんだ。しかし人形では人間に近くとも遠い存在。そこで、だ。心というものが有れば、少しは近くなるのではないかと考えてな」
「でも、どうすれば?」
「簡単だ。そいつが笑うようになればいいさ。心から。本当に」
ちらりと糸蓮の方を見る。彼女はきょとんとした顔で首を傾げていた。
「さあ、是非感想を聞こうじゃないか」
「……全く、災難ですよ。昨日も今日も」
「ははっ、そうか! いつも通りじゃねーか! だが出会いと言うものは決してマイナスじゃない。これからのお前に期待しているよ、鎮目時仁くん?」
微笑みながらこちらを見下ろす華子さんに、ぼくはいつもの笑みを見せた。
「はい!」