更なる異世界
ザガートから告げられた内容は、雪菜にとって然程重要ではなかった。
確かに魔物がいて魔法がある世界で、何の力もない上に満足に歩くことさえも出来ない雪菜が生きていくのは大変なことだろう。それでも雪菜にこの世界に残るという選択肢は有り得ないのだ。
ザガートは皇帝の記憶から雪菜のことを消してくれた。そのことについて雪菜は全く疑っていない。しかし、皇帝以外にも雪菜の存在を知っている人は大勢いる。彼等にとって雪菜は、皇帝の慈悲にすがって生きる娼婦なのだと、この2年で雪菜は嫌というほど教え込まれた。中には、皇帝が飽きたら自分が面倒をみてやろうと面と向かって言ってきた者もいるのだ。
雪菜は相手の顔を覚えていない。しかし、相手は雪菜のことを覚えているかもしれない。その事が雪菜にはとても恐ろしい。相手が代わるだけで、またあの地獄のような日々に戻されてしまうかもしれないのだ。他国に行っても、この世界にいる限り、この恐怖から逃れることは出来ないだろう。それを思えば、ここ以上に命の危険に晒されるとしても、ザガートの世界の方が何倍も良いと思えた。
ザガートは本人も自己申告していたが人間社会は良くわからないらしい。そして自分の側は危険だと言っている。だから雪菜の為にもこの世界で生きる方が良いと言ってくれているのはわかっているが、元の世界に帰れなくてもこの世界から離れられるなら、その方が良い。それに何となくだが、雪菜にはザガートが自分を傷付けるようなことはしないだろうという確信があった。初めて会った相手だというのに、ザガートなら大丈夫だという絶対的な安心感があった。その為か、まだ出会って数時間だというのにザガートの傍はとても居心地が良い。
きっと迷惑をいっぱいかけてしまうと思う。しばらくはザガートに頼りきりの生活になるだろう。申し訳ないとは思うが、それでもザガートのそばにいたい感情の方が勝った。
「私を、ザガートさんの住む世界に連れていって下さい」
断られても、頷いてくれるまで食い下がってやる。そんな決意を胸に雪菜はザガートを真っ直ぐ見つめた。
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ザガートは混乱していた。あらゆるデメリットを知りながら自分と共に来ることを望んだ雪菜にもだが、それ以上にアッサリ頷いた自分自身が信じられなかった。
雪菜が連れていって欲しいと言った途端、ザガートの全身を包んだのは紛れもない歓喜。そのまま何を考えるでもなく口からは勝手に了承の返事が出てしまっていた。
自分の愚行に気付いて撤回しようにも、満面の笑みでザガートに御礼を言う雪菜に今更駄目だと言えるはずもなく、そのまま自分の巣に雪菜を連れ帰ってきてしまった。
そして珍しそうに周囲を見回す雪菜を眺めながら、内心これからどうするべきかと頭を抱えているのだった。
答えの出ないままに自問自答を続けるザガートが我にかえったのは、雪菜がくしゃみをした時だった。
ザガートの巣はほぼ自然のままの洞窟だ。そこに枯れ葉などを敷き詰めて寝床にしているだけのシンプルなもの。魔物であるザガートは人間ほど外気温に左右されないし、多少気になれば術でどうにかする程度。雨風をある程度凌げればそれでいいという目的の巣は、人間である雪菜には厳しすぎる場所だ。
その上雪菜が来ているのは皇帝の趣味らしい薄い布の上衣だけで、防寒性は全く期待できそうになかった。
しかし、ザガートには家に住むという概念はないし、服も自身の鱗を変化させたものなので着替えなど持ち合わせていない。どうするべきか悩んだザガートは何時もの手を使うことにした。
困ったときの友人頼み。問題の丸投げである。
取り合えず、雪菜を寝床に座らせて適当にその辺に生っている果実を渡す。ザガートがたまに食べるその実は、食べると体が少し温まるものなので少しは楽になるだろうという配慮だった。
雪菜が果実を受け取ったのを確認してから友人に呼び掛けようとしたザガートだったが、慌てて思念に魔力をのせて相手に叩きつけた。
《直ぐに来い!》
ザガートの後ろでは顔面蒼白の雪菜が血を吐き、喉を押さえて痙攣しながら倒れていた。