気紛れ
ザガートは蛇の本性を持つ魔物だ。
ザガートの住む世界には人間と魔物が存在し、特に強い魔物が住む森を、人間たちは『魔の森』と呼んでいる。ザガートはその魔の森の中でも屈指の実力者だ。
魔物の社会は実力主義の弱肉強食が基本だ。弱者であれば日々を怯えて過ごさねばならないだろうが、圧倒的な強者であるザガートはその強さ故に退屈していた。
態々喧嘩を売り歩くほどの若さも熱意もなく、この頃ではザガートの名が広まりすぎて喧嘩を売られることも減ってきた。数少ない挑戦者達も無鉄砲な若者か実力差のわからない人間ばかりときては、ザガートが楽しめるような戦いにはならない現状。
心底退屈で、適当に国でも潰してきたら気が晴れるだろうかと思い始めた頃、昔馴染みの魔物からそんなにも暇なら異世界でも行ってきたらどうだと言われた。
ザガートは魔の森の中でも古株で、かなりの年月を生きている。しかし、異世界の存在なんて今まで1度も聞いたことがない。胡散臭そうに見るザガートの様子など知らない振りの昔馴染みが言うことには、極稀にこの世界と異世界の壁が薄れ、行き来できるようになる場所があるという。ただし、世界は常に変動しているようで、どんな世界に行けるかは行ってみないとわからないし、望む世界に行けるかどうかは完全に運頼りになる。
帰りはどうするんだと聞けば、目印を置いていけば良いと気軽に返された。経験から言うと、行くのは手間がかかるが帰るだけなら一瞬らしい。
多少疑わしいところはあるが、そもそもうんざりするほど長く生きてきたのだから今更生に執着もない。ただ簡単に死ぬのは立場が許さないから生き続けてきただけだ。これで何かあっても困るのは自分ではない。
ザガートは自分よりも遥かに弱いくせに、この森の最長老である友人の案に乗ることにした。
そうしてやって来た異世界は、確かに目新しくあったがザガートにとっては退屈な世界だった。まず、魔物が存在しない。魔法もない人間が支配する世界は、ザガートの目にはただ脆弱なだけに見えた。
期待外れだと早々に帰ろうとしたザガートはしかし、不思議な声を聞いた気がして立ち止まった。それは鼓膜を震わせる音ではなく、魂に直接響くような不思議な声だった。
その声に惹かれるままに飛んだ先にいたのは、喉に鋏を当てて、今にも突き刺しそうな様子の娘。何故かその娘が死ぬのは嫌だと思ったザガートは、気が付けば娘に声をかけていた。
生気のない顔で全てがどうでも良いと言わんばかりの雰囲気をこれでもかというほど漂わせている娘は、それでもザガートの問いに素直に答えた。
聞かされた話は、言ってしまえばよくある悲劇だ。繰り返される人の歴史の中で、彼女のような目にあった女性は表舞台には出てこないだけで数え切れないほど存在してきただろう。
しかし、ザガートは目の前の娘の苦しみを下らないとは思えなかった。寧ろ、娘が自分に会うまで命を繋いでいてくれたことに感謝した。
自分の胸に芽生えた感情に戸惑いながらも、それは不快なものではなかった。そして気が付けばザガートは娘に提案していた。
「それなら、俺が逃がしてやろうか?」
ザガートにとって、雪菜1人この宮殿から逃がすことなど簡単なことだ。雪菜が望むなら好きなところに連れていってやろう。自然とそう思える程に自分が雪菜を気に入っていることに、ザガートはまだ気付いていなかった。