始まり
東雲 雪菜にとって一番の不幸は、不本意にも異世界に落ちてしまった事だろう。
いつも通りの朝、いつものように自宅を出た雪菜は何故か異世界にいた。それもその世界で強大な権力を持つ国の宮殿の中庭にだ。
直ぐに不振人物として捕らえられた雪菜は本来なら直ぐにでも拷問を受け、処刑される筈であった。しかし、気紛れから雪菜を一目見て気に入った皇帝の一言によって、雪菜は望まないままに後宮入りを果たすことになった。16歳の誕生日を迎えたばかりの冬のことだった。
虚ろな目をした雪菜は、今日も皇帝に好きなように体を貪られて啼いている。この世界に来てから2年。雪菜の何がそんなにも気に入ったというのか、皇帝は1日も欠かさずに雪菜のもとを訪れている。
昨夜も散々雪菜の体を弄んだというのに、皇帝は目覚めてからも中々雪菜を離そうとはしなかった。雪菜の声が出なくなり、反応がなくなりかけた頃になって漸く迎えに来た側近に連れられて政務へと向かう。これから夜までが僅かに与えられた雪菜の自由時間だ。
しかし、体力の限界まで皇帝の相手をさせられている雪菜は昼過ぎまで起き上がることは出来ず、寝て起きて食事をしたら直ぐに皇帝が来るような毎日だった。
そんな日々を2年も送っている雪菜の心は、もうボロボロになっていた。
最初の頃は泣いて抵抗した。だが、特別に運動をしていたわけでもない普通の高校生であった雪菜の力では、武人でもある皇帝には到底敵わなかった。
それでも諦めようとしない雪菜に皇帝は、宮中から雪菜より幼い使用人たちを集めて雪菜の世話係とし、もしも雪菜が逃げたら彼らを処刑すると脅してきた。
雪菜と彼らには当然だが全く面識もなく、無関係の存在だが、何の罪もない子どもが自分のせいで死ぬと言われて動じないほど雪菜は冷血ではない。結果として雪菜は2年間大人しく皇帝に飼われ続けている。
だが、それももう限界だった。皇帝からの異常な執着もそうだが、その周りからの悪意も雪菜を苦しめていた。
皇帝には義務として迎えた正妃がいる。それも雪菜が来る3日前に迎えられたばかりの正妃が。彼女は元々皇帝を慕っており、長年の思いが漸く成就したばかりで幸せの絶頂だった。それが、どこの誰とも知れない不振な娘にいきなり想い人を奪われたのだ。悔しくないわけがない。
正妃としての待遇は受けている。公務もしっかりとこなして周囲の信頼も厚い。しかし、想う相手は自分のことを見てはくれず、閨の訪れも全くない。つもり積もった様々な想いは、憎悪となって雪菜に向かった。
正妃は物理的に雪菜を害することはない。そんな真似をすれば、毎夜雪菜の体を貪る皇帝にばれない筈がないからだ。だから雪菜が受ける嫌がらせは精神的にダメージを受けるものばかりだった。
ある日、雪菜が隔離されている宮に迷い込んできた猫がいた。雪菜はその猫をとても可愛がっていたが、その猫は突然姿を消し、無惨な姿で送りつけられてきた。
別の日には食事に虫が混ぜられ、更に別の日には雪菜の世話係の中でも特に親しくしていた者が正妃付きへと移動になり、その数ヶ月後に精神を病んで故郷に帰ったと知らされた。
望まない寵愛に、向けられる悪意。堪えきれなくなった雪菜はある日、目覚めてから唐突に思った。
そうだ、全部終わりにしちゃおう。
雪菜が大人しくしていた為か、だいぶ監視の目は緩んでいた。今は部屋に雪菜1人だけ。
そっと、引出しの中にある裁縫箱から裁断用の鋏を取り出す。これは正妃付きになった娘が最後に雪菜にくれたもの。彼女はきっとこんなつもりでくれたのではないのだろうけど、自分の最期には相応しいと雪菜は思った。
ゆっくりと刃先を喉元に当てようとしたとき、聞こえるはずのない声が聞こえた。
「お前、死ぬのか?」
窓辺にはいつの間にか見たことのない男が立っていて、雪菜は驚いた。ここは後宮の一画だ。皇帝以外の男は立ち入り禁止の筈である。少なくとも雪菜は今まで見たことはない。
それに男の容姿も異様だった。この世界の住人は雪菜が見た限り、雪菜と同じように暗い色の髪と目をしているが、目の前の男は白い髪に金色の目をしている。まるで蛇みたい、と雪菜は思った。
「あなたは、誰?」
悠長に質問している場合ではないと理性は訴えるが、雪菜は目の前の男は自分に危害を加える存在ではないと、何となくだが感じていた。
「俺か?俺の名はザガートだ」
ザガート。名前の響きも聞きなれないものだ。少なくともこの国の人間ではないことは確かだろう。
雪菜が考え込んでいると、少し苛ついたような声が飛んできた。
「俺はお前の質問に答えたのに、自分は答えないつもりか?」
一瞬何の事かと思ったが、そういえば最初に聞かれていたなと思い出す。
「そうだよ、私は今から死ぬの。邪魔しないでね」
突然の侵入者に驚いて忘れていたが、考えるまでもなく雪菜に残された自由時間は少ない。急がなければ誰かしらがここに来てしまうし、そうなれば鋏は取り上げられてしまう可能性が高い。
「唯でさえ短命な人間の癖に、何でそんなに死にたがるんだ?」
心底不思議でたまらないといった様子のザガートの言葉に、雪菜は疲れたような笑顔で答えた。
「死にたいわけじゃないよ。でも、もう堪えられないの」
そうして雪菜は自分の身に起きたことを語り始めた。別にこの男に理解してもらいたかったわけではないけど、誰にも聞いてもらえなかった雪菜の苦しみを、この男なら聞いてくれるのではないかと思ったのだ。たとえ飢えることも、寒さに震えることもない、贅沢な生活をさせてもらっていても、雪菜にとってこの生活は堪えられないことなのだ。しかし、この国の人々からすればそれは持てるものの傲慢でしかない。だから雪菜は今まで誰にも弱音を漏らすことが出来なかった。
そんな雪菜の話を最後まで聞いてくれたザガートは、何でもないことのように言った。
「それなら、俺が逃がしてやろうか?」