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カバンに財布と携帯電話。
鍵、iPod、充電器。
それからβ刺激薬。
外出中に発作が出れば、薬に頼る事しかできない。
誰を上がらせるわけでもないのに、小綺麗にした部屋の隅で。
僕は準備を進めていた。
金曜深夜の習慣だ。
時計は既に一時半。
そろそろ夜も更けてきた。
僕は灯りを消してから、靴を履き、部屋の外に出る。
ガチリと金属音が鳴り、鍵が完全に締められる。
神経質にガチャガチャと、僕はそのドアを押して引いて、開かないことを確認すると、ようやく廊下を歩き出す。
すたすた、すたすた。
かつかつ、かつかつ。
切れかけ蛍光灯の下、不気味に暗い階段を、一段一段丁寧に、僕は静かに踏みつ
ける。
かんかん、かんかん。
ぎっぎっ、ぎっぎっ。
なるだけ音を立てぬよう、だけれど自然に聴こえるよう、僕は地面を踏みつける。
スニーカーで捉え、蹴りつける。
すたすた、すたすた。
すたすた、すたすた。
僕は歩く。
頭の中の地図を引き出し、道をなぞって僕は歩く。
夏も過ぎ、秋になると、出掛ける人はあまりない。
まるで僕だけの空間だ。
まるで僕だけの街並みだ。
すたすた、すたすた。
すたすた、すたすた。
今日はどんな道を行こうか。
行ったことのない道がいいかな。
引っ越してから半年となると、そんな道はもう少ないか。
すたすた、すたすた。
すたすた、すたすた。
僕は歩く。
今日はドクペ自販機ルート。
僕の頭の地図を広げて、公園までのナビゲーション。
ゆっくり、ゆっくり、一歩ずつ。
僕は地面を踏みつける。
あそこの家主は夜型だ。
その電柱には張り紙がある。
ラインナップが変わったな。
あの街灯はまだ故障中。
僕は気付いた情報を、頭の地図に書き込んでいく。
すたすた、すたすた。
すたすた、すたすた。
お目当ての自販機には、絶対に売り切れない商品がある。
おそらくは、僕しか買わない、僕しか飲みたくない。
お世辞にも、美味しいなんて言えないし、むしろ不味い。
それでも時々飲みたくなる。
不味いと知って、なおも買う。
硬貨をいくつかを飲み込ませ、煌々と光るボタンを押す。
ガコンと大きな音が鳴り、僕はその缶を取り出した。
もちろん今日も不味いんだろうな。
そう考えると、わくわくした。
すたすた、すたすた。
すたすた、すたすた。
僕は歩く。
例の自販機を後にして。
カバンに缶を詰め込んで。
地図の更新を進めながら。
秋はとても良い季節だ。
だんだん涼しくなっていく。
夏とは違って蚊も少ないし、人に出くわす心配も少ない。
素敵な季節。
素晴らしい季節。
一人の季節。
良い季節。
行き先は公園。
無意識のナビ。
いろんな事を考えながら、だけれど何も考えずに。
外を散歩しているようで、本当は脳内を歩いてる。
僕は街だ。
僕は夜だ。
すたすた、すたすた。
すたすた、すたすた。
この公園の、奥の方。
街灯の無い場所がある。
ベンチはいくつか並んでいるが、光源などは何もない。
すたすた、すたすた。
すたすた、すた?
誰かいる。
ベンチに座って、うずくまって。
暗いからよくわからないけれど。
僕の定位置に人がいる。
けほけほ、けほけほ。
発作だろうか。
けれどもそれは僕じゃない。
ベンチに座った、あの人だ。
すたすた、すたすた。
あの人も、一人だったら、同じかな。
僕の公園に入ってくるのは、虫酸が走るほど嫌だけど。
深夜なのだから、許してあげよう。
すたすた、けほけほ。
すたすた、すた。
座っているのは女性かな。
色素の薄い、髪の毛だ。
あんまり好きでは無いけれど。
大講堂のグラデーション。
後ろにいくほど薄くなる。
似合ってないし、傷んでる。
あと、うるさい。
だからあんまり、好きでは無い。
けほけほ、けほけほ。
けほけほ、けほけほ。
「大丈夫ですか?」
咳してばかりで、返事がない。
けほけほ、けほけほ。
けほけほ、けほけほ。
「吸入、ありますか?」
けほけほ、ふるふる。
咳き込みながら、首を振る。
僕はカバンの内ポケット、貴重品入れの奥の方から、セレベントなんかを取り出して、それを彼女に差し出した。
急な喘息発作には、とりあえずには効くはずだ。
「使い方、わかりますか?」
けほけほ、ふるふる。
今度は縦に首を振る。
ああ、良かった。
救急車なんて呼ばれたら、静かな夜が台無しだ。
彼女はそれを受けとると、咳き込みながら僕を見た。
暗くて何も見えないが、たぶん整った顔だろう。
けほけほ、けほけほ。
「大丈夫。新品なので」
少なくとも。
僕は他人の吸入器を、金輪際使いたくはない。
けほけほ、けほけほ。
かちっ、すぅっ。
ドライパウダーを吸い込んで、彼女の発作は収まってくる。
でもどうしよう、吸入器。
僕のが無いや、どうしよう。
でもまた買えば、それでいいか。
アレは彼女の物にしよう。
けほ、けほ。
けほけほ、けほ。
彼女はうずくまったまま。
発作が起きているときは、座った方が楽だから。
けほ、けほ。
けほ。
「少しよくなってきましたね」
咳はだんだん落ち着いて、彼女も少し楽そうだ。
何か飲むもの、あればいいけど。
水を飲んだら、大分楽になる。
そういえば。
さっき買った、あのジュース。
たぶん口には、合わないけれど。
けほ。
けほ?
「これでも飲んで、安静に。あんまり美味しくないですが。手持ちがこれしか無いもので」
けほ、けほ。
かちっ、ぷしゅっ。
なんとも言えないクスリの匂い。
いいや、毒かもしれないな。
とにかく、彼女はその缶を、一口飲もうと傾けた。
ごく、ごく。
ごく。
「……けほ」
「美味しくないなら正直に」
「……あまり、好きにはなれません」
「なるほど。僕も同じです」
「……それならどうして?」
「不味いからです」
けほけほ、けほ。
けほ。
「不味くて悪化しましたかね」
「……でも、痰は切れました」
「それなら良かった、でも安静に」
「……はい、ありがとうございます」
彼女は弱々しい声で、僕の質問に答えてくれる。
僕から誰かと会話するのは、ずいぶん久しぶりかもしれない。
だけれども。
なんだか心が弾むのだ。
彼女は夜の一部だから。
「……どうしてわざわざ不味いモノを?」
「好奇心とか、そういうのです」
「……怖いもの見たさもありますか?」
「ええ、もちろん、そうですね」
くすくす、くすくす。
けほけほ、くすくす。
おかしな事はわかってる。
自分自身、なんで買うのかわからない。
僕だって、くすくす笑ってしまいたい。
くすくす、くすくす。
くすくす、けほ。
「……ごめんなさい、笑ってしまって」
「おかしいですよね、こんなこと。僕でも笑ってしまいます」
「……でも、なぜか、もっと飲みたくなりますね」
僕もそう。
不味いからこそ、もう一口。
彼女も同じ、もう一口。
愚かかな。
愚かだからこそ。
ごく、ごく。
ごくごく、けほ。
「……やっぱり美味しくないですね」
「僕自身、何度も飲んでみていますが、慣れはしたものの、好きではないです」
「……美味しいわけでは無いけれど、何度も飲みたくなる味です」
なぜだろう。
なぜだか彼女は心地よい。
彼女は夜で、僕は夜。
夜は僕のものなのだから、彼女もきっと、僕のもの。
そうか。
僕も彼女の夜のもの。
きっと僕も、彼女のもの。
ごくごく、ごくごく。
ごくごく、けほ。
「……よくここへ?」
「ええ、そうです。いつも散歩で、ここへ来ます」
「……こんな夜中に?」
「夜中だからこそ」
「……夜は好きですか?」
「ええ、もちろん」
「……私も夜は、大好きです」
三段論法、ナルシズム?
いいや、確かに。
彼女は夜で、僕も夜。
なるほど、そうか、そうなのか。
ごく、けほ。
「なんだかあなたは夜のようだ」
「……あなたもずいぶん夜ですね」
「そうですか?」
「……そうですよ」
ああ、なんて。
なんて、素敵なんだろう。
「不思議ですね」
「……そうですね」
「会って間もないはずなのに」
「……なぜだか落ち着く。不思議です」
ごく、ごくごく。
ごくごく、ごく。
「……発作はずいぶん収まりました」
「あまり、無理はなさらずに」
「……ありがとう。私はそろそろ、帰らなければ」
「そうですか。送って行きたいところですが、電灯の下であなたを見るのは、些か無粋な気がします」
「……私もきっと、同じです。明るいところは、嫌いですから」
すた。
彼女は立ち上がる。
「……ここに来れば、会えますか?」
「金曜深夜で、晴れていれば」
「……あなたともっと、話したい」
「僕もあなたと、話したい」
もっと。
もっと夜に触れてみたい。
「……それでは、これで」
「よい夜を」
「……よい夜を」
すたすた、すたすた。
すたすた、すたすた。
彼女は夜に溶けていく。
そして見えなくなっていく。
すたすた、すたすた。
すたすた、すた。
足音ですら、消えていく。
きっと彼女は、夜だから。
僕はカバンに手を入れる。
引き出したのは、iPod。
金曜深夜はこの席で、好きな音楽を聴きながら、気が済むまで、夜と溶け合う。
じゃかじゃか、すぅっ。
きゅうっ、じゃかじゃか。
フレットノイズ。
ああ、なんて。
なんて素敵なんだろう。
きっと彼女も、この夜に、溶けているなら、僕らは一つだ。
ああ、素敵だ。
とても、素敵だ。