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最終話 そっち側にいる君の声は聴こえない

休日明けの、三日後


「いってきます」


『い』『っ』『て』『ら』『っ』『しゃ』『い』


 あれから弟は早起きして、自分で朝ご飯を作るようになった。いつか俺から家事全ての仕事を奪っていくらしい。これがほんとの家事場泥棒…何言ってんだ俺は。

 いつものように通学をするため駅に行って、電車に乗り込む。場所はいつもの特等席。…あの子はどんな顔をするだろう。怒った顔を見せるだろうか。それとも、笑顔で許してくれてたりするんだろうか。

 しかし、いくら待っても君は来てくれなかった。人混みをかき分けてくることもなかった。…こういう日が無かったわけじゃない。俺は明日、また君に会えることを願った。今なら手話で話せる。謝ることだって…できる。



 けれども、次の日も、その次の日も、君は反対側の電車の中には現れなかった。そうして五日間、結局一秒たりとも君を見ることはなかった。

 …何かあったのか?もしくは本当に怒って、別の車両に乗っているのか。

 このまま、あの曖昧な出会いのまで終わらせたくない。ちゃんと謝らなければ。俺にはその義務がある。弟と向き合っていく上で、通らなきゃいけない道だ。


 だから休日の日、俺はそっち側の電車に乗り込み、君が降りた駅へと向かった。

 家は知らないし、探すのも無理。近所の街に住んでいたとしても広すぎる。

 なので別の方向から攻めることにした。

 あの後、色々調べてみたんだ。彼女の降りた駅に、私服の学校はなかった。中学校が二つほど、近くに一つ、遠くに一つあったがどちらも制服の学校だった。

 ならあの子はどこに通っているのか。少し考えれば簡単な話で、多分手話教室か、病院のどちらか。地図で探してみると、君から逃げたあの場所。

 近くに病院があるのを見つけたんだ。


「えーと…ここだ。」


 病院に到着して…到着して?

 どうすんだよだからさ…。相変わらず自分の計画性の無さに引く。まず名前を知らん。第一知っていたところで全く関係のない俺にどういう理屈で彼女のいる場所を教えてくれるというのだ。

 家族ならまだしも。


「結局またベンチか…。」


 病院敷地内になんか一般の人でも入っていい公園みたいなところがあったので、そこで座ってどうするか考えることにした。あの子が来るまで待つか?

 それが一番楽だが…休日に来るのかどうかも怪しいのに。

 いや待とう。俺にはそれしかできない。

 幸い、もしも君が逃げたことを許してくれて、会話できることがあったらと本を持ってきているのだ。あの二冊の『野球と芝生と柴犬』。『暮れる頃に咲く花の正体』を。


「…あの、隣良いですか。」

「え、あ、はい。そりゃ…俺のベンチではないので…。」


 読むのも久しぶりだったから、一ページ目から集中して読もうと本を開くと、おばさ…いやお姉さん……素直にいこう、おばさんがベンチの空いた場所に座って来た。びっくりして変なことを言ってしまう。

 …よく見たらベンチここしかない。


「…。」

「…。」


 気まずすぎる。…泣いてるし…。なんかたまにこっち見てくるし。邪魔になりそうだから退くか…。

 立ち上がろうとしたその時だった。


「あの…その本。」

「え?あぁ…。これですか?」

「それです。…二つとも…好きな、本なのですか?」

「まぁ…好きって言うより大切な本です。」

「…そうなんですか。…あの、間違っていたら申し訳ないんですが…。」

「はい…?」

「藍川麻衣という子を、知りませんか?」


 藍川麻衣…。聞いたことないな。学校にそういう女の子の友達がいないか、脳内検索をしたが当たりはしなかった。けど俺の名前にちょっと似てるかも。


「すいません、聞いたことないですね…。」

「そうですか…。なら勘違いです。すいませんでした。」

「いやいや、謝る事じゃないですよ。…じゃあ俺は行きますね。」

「はい…。」





 待て。


 …藍川麻衣…あいかわまい……まい……


 My……


「…あの子は、自分の服を何度も…指を指していた。」


 あれは…『私の』、じゃなくて……自分の…名前を…?


 まさか。


「あ、あの!!」


 突然俺が振り向いて大きな声を出したもんだから、おばさんはひどく驚いたような顔をした。


「すいません大きな声をだして。…その、これこそ勘違いなら申し訳ないんですが…藍川麻衣って子。もしかして…声を出せなかったり、しますか。」


 俺がそう、聞いた瞬間。おばさんは隠すように流していた涙を、土砂降りのように流し始めた。


「はい…そうです…。麻衣は…私の…娘で。」

「そうだったですか!」


 なんたる偶然、神様が俺に味方してくれたか。

 これならあの子に会える。


そう考えた刹那。その時間の先、俺は全身の細胞を停止させた。

出来る事なら…そんな事実を、聞きたくはなかった。




「二日前に…亡くなって…。」

「……は?」


 何を…言っているんだ、この人は。

 彼女が…亡くなった?二日前に…?

 気が滅入るよりも、事情が気になった。どうして彼女が死ななきゃいけなかったのか。知りたかった。


「なんで、彼女は…。」

「元々、病気だったんです。癌で…体中にもう広がっちゃってて…どうしようもない状態で。」


 そんな馬鹿な…。全然そうは…見えなかった。

 だが聞いたことがある。癌患者だったとしても、普通の人と何ら変わらないように見えるって。癌は…目に見えない病気だと。


「喋れなかったのは、そのせい…?」

「いえ、厳密には…違って。また別の病気を元々娘は患ってたんです。それで…構音障害という上手く喋れない、言葉が出せない喉になってしまって…。私が最後、麻衣の声を聞いたのは…あの子が小学五年生の時でした。」


 小学五年生…。弟と同じ歳か。ただでさえ辛いはずなのに、そこに…癌。

 重たすぎる。彼女が見ていた世界は…一体何色だったんだ。


「中学三年生になってから…癌が見つかって。とっくに手遅れで…。」

「…はい。」

「そして…二日前…。突然だったんです。倒れて…そのまま……うっ…うぅう…」

「………もう大丈夫です。あの…はい。わかりました。麻衣さんの事…教えてくれてありがとうございます。」


 …俺は君の声を聞くどころか…会話することもできないで…終わってしまったのか。

 もう、そっち側にいってしまった君の声を、俺は聴く事ができない…


「あの、これを…もらってはくれませんか。」

「え?」


 あの子のお母さんが渡してくれたのは、一枚の手紙。それと…少し季節の早いマフラーだった。


「これは…?」

「あなたの話は、娘から教えてはもらってたんです。電車の向こう側…面白い人がいるって。本人はなんとなく…気づいてたのかも。亡くなる前の…平日の夜。突然『マフラーを編んで、手紙も書いたから、前に言ってた人にいつか渡してほしい』って。そんなの自分で渡せばいいって、そもそも知らないし…。でも、娘は強情で…ね。まさかこんなことになるなんて、その時は……。」

「…受け取ります。俺がもらって良いものなら…。」

「はい…。この場所であなたに会えてよかった。娘の…麻衣の心残りだったでしょうから。」


 おばさんはその二つを残して、ベンチから立ち上がり去っていった。今日は病院で手続きがあったらしいが、まだ向き合えずここから動けなかったらしい。

 けれど、心残りの俺に会えたからと、さっきよりは前向きに病院へと足を運んでいった。大人ってのは強いな…。


「読むか…。」


 彼女からの手紙は、茶色い封筒に綺麗に包まれていた。

 開かれる場所を止めてあったのは、クマのシール。可愛い。

 ゆっくりと、手紙を開く。目線とまっすぐ平行に。

 きっと、濡らしてしまうから。




『名前も知らない、私の好きな人へ。


 初めまして…の人に手紙を送るなんて、なんだか不思議な気分。でも、初めまして。ちゃんと挨拶した事は、ないもんね。


 言いたいことが一つあります。


 私の事は気にせず、あなたには前に進んでほしい。


 私は小学生中学年くらいに、声が出しにくくなった。


 歌が好きだったの。


 お母さんもお父さんも友達も褒めてくれてた。


 今はもう…なくなっちゃった。


全部


 前を向いて…歩けなかった。


 だけど、またすぐに私は歩いた。


立ち止まったら…お母さんたちが悲しむから、私は無理して歩いたの。


 でもその後…癌なんかになっちゃって。


 あと寿命は一年ないです、って。


 信じられなかった。喉がなくなっちゃうことより、死ぬ方が怖かった。


 急に世界が真っ暗になって…いつ死ぬかわからないから。寝るのが怖かった。


 朝が来ることが…怖かった。


生きることを諦めたかけたの。


いっそ楽になった方がマシなんじゃないか。


何回そう考えたか、わかんない。


 でもね、でも。聞いて聞いて。


 君のおかげで、朝が楽しみになったんだよ。


 毎日のように、行きたくない病院に、通うため乗ってた電車の中。


気づいてたよ、ちらちら見てくるの


 反対側の電車の中で、君が持っていた本。『暮れる頃に咲く花の正体』


 ふと思ったの。あの人の真似したらどうなるかなって。


 病院に同じ本があったから、次の日持って行って君に見せつけるように読んでみた。


 その日の君の驚いた顔は忘れらないや。一生ね。


 それからも君と本を読む朝は楽しかった。野球の本、被った時は私も驚いた。


 野球がしたくなったから、お医者さんに無理言って…ジャージで行って。


 あの日の君の羨ましそうな顔。傑作だった。


 あ、でも君本読むの遅くない?中々野球の本読み終わらないんだから。


 何周もしたんだよ。今音読できちゃうかも。待ってたんだよ、ずっと。


 ……ごめんね、長くなっちゃった。


 とにかく感謝してるの。


 君がいてくれたから、真っ暗な毎日が光り輝いたの。


 君のせいで、諦めてたのに。


『生きたい』って思っちゃったんだよ。


死ぬ前に、希望を持てた。持たせてくれた。


あなたと話してみたいって…考えちゃったの。未練、全部捨てたのに。


最後に見る景色が、絶望じゃなくなったの、ほんとだよ。感謝してる。


 私の真っ黒な人生に、綺麗で真っ白なピリオドをつけてくれて


 ありがとう。


 藍川麻衣より



 PS・名前気づいてよバカ』





読み終わってすぐ、頭の中に浮かんだのは君のしたり顔だった。




 ……重たい、罰…だな。

 俺は知らなかった…何もかも。君がそんな病気だったことも、どこに通っていたかさえも…まず名前だって知らなかった。君がこの世を去ってから。知ったんだから…。


君がもうこの世界を去っている事を知らなければ。毎朝、今日はいないか、今日もいないかと。電車の中で期待しながら君を待つ日常。

別の車両に乗ってるんじゃないか、自転車で通学するようになったんじゃないかと。君の事を想うことは変わらずとも、真逆の朝を送れていたんじゃないか。

まだ、そっちの方が幾分か楽だったかもしれない。

受け入れられない現実から、目を背きたい…。


でももう…知ってしまった。


「…マフラー編めたのも知らなかったな。器用だったのか。…ん、花の刺繍。これは、ガーベラか?」


 赤色のマフラー、小さくピンク色のガーベラが刺繍されていた。

 君が好きな花だろうか。


「俺なんかが君の希望…だったのか…。」


 一度は君を嫌ったのに。それでも…君は俺を希望と呼んでくれるのだろうか。


「…わからない。わからないけど…もう一人、俺を希望と思ってくれてるやつがいる。」


 弟の為に、俺は生きていかなきゃいけない。君の分も背負って、弟と一緒に生きる。

 自分の事は全部後回しだ。…今さら自分の罪がどうとかは言わないけど、多分そうやって生きる道しか、俺には残されてないんだと思う。


「………でもやっぱり、君と一度でいいから……あれ。」


 立ち上がると、手紙が入っていた封筒からもう一枚何かが落ちた。

 さっき読んだ手紙よりもさらに小さかった。


「なんだ?」



『正直こっちは読んでほしくない…でも君の自由だから…うん。


 もしかしたら、君が私の事好きだったかもしれない!…なんて。


 そうだったらいいんだけど。…でも逃げられちゃったもんね、私。


 気持ちが悪かったかな、やっぱり。ごめん。


 だけど考えちゃうよ。もしもの話。


 だから今から書くのは、君がただ照れくさくて逃げちゃった、って仮定のお話ね。


 私に何かあって…会えなくなったら


落ち込んで、動けなくなったら


思い出すのは私じゃなくて、今から書く通りの手にして。


私と君との、あのサイン。


 そしたら多分、君は動けるから。


私が君の、人生の障害に、ならないように。』



 俺は手紙に書いてある通り、手を動かした。


「小指と薬指、中指を曲げて…人差し指はまっすぐ前に。親指は…自分から見て左斜め…前に。出す。」


 君とのいつもの挨拶。でも違う…これにはちゃんと、他の意味がある。


『進塁打』

 それは自分がアウトになってでも、先に進んだ走者を進ませることのできた打撃。


「……わかった、わかってる。進むよ…進む…けど。今日だけは…ごめん。」


 俺はベンチに座らず、しゃがんで、声をかみ殺して……涙を流した。


「今日だけは……立ち止まらせてほしい…うっ…ぐすっ…うぅうう…。」



 手の形は、そのままに。

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