第五話 俺は無責任身勝手障害者
理解できてしまう、その手の動きの意味。無駄なことだと後悔して学んだアレ。弟との…意思疎通の手段。大好きな君が見せたのは、確かに"手話"だった。
「……は、はは………嘘、だろ。」
追いつかない頭、恥ずかしそうに顔を赤らめる君。
伝わらなかったと思っているようだ。
そんなことはない。伝わっている、伝わりすぎている。本来君が伝えたいこと以上の事で、十分に頭は満たされている。この感情が何なのか…。
嬉しくもないし、かといって死ぬほど落胆しているわけでもない。
ただただ…横になりたかった。しゃがみたかった。うつ伏せになりたかった。
なんでもいいから…動きたくて仕方がなかった。
あふれ出す心境が体を抑制できない。
そうか…そうなんだな…。
君も…そっち、側なのか…。
「…ごめん。」
「!!」
俺は背を向けて走ってしまった。逃げたんだ、俺は。警察に捕まる覚悟はできていたのに、こんなにも予想外な一撃は…耐えられなかった。
「………はぁ、はぁ。」
さっき走ったにしては、随分と元気よく勢いよく。彼女から離れるように行く当てもなく駆けだした。
今流れている汗は走り疲れているという理由だけじゃないことがわかった。
知らない街を無我夢中に走る恐怖より、君と正面から向き合った時、自分が何を思うのか。考えるだけでも…怖かった。そんな不気味さに抗えない…汗だ。
最後、一瞬だけ見た君は、あのサインを作っていた。
・・・
どれくらいの時間、ここに座っていたのだろう。まずもってこの公園のベンチに座るまでの記憶がない。…てかどこだよここ。
「……。」
口が開きっぱなしなのがわかる。さっき通り過ぎていった子供にめちゃくちゃ見られたから今俺の顔は随分と面白いものになっている事だろう。
彼女も弟と同じ、心因性失声症なのか。それともまた別の…いや、何が原因かは関係ない。電車で扉の窓二枚越しにいつも見ていた君が、同じ本を持ってきてくれた君が、あの…少しイラっとくるけど可愛さが帳消しにしてくるしたり顔をする君が。
障害者だという事を…未だに受け入れられなかった。見間違い…なんかじゃないことを証明しているのが、他でもない自分だという皮肉。
自分が最も嫌っている、『障害』を…大好きな君が…か。
「…はぁ。」
上を見上げ、右手で君とのサインを、小指と薬指と中指を曲げて、人差し指は前に。親指は自分から見て左にするサイン。朝の挨拶のように見せあったのがもはや懐かしい…。
ふと焦点を手ではなく空に向けると、日が暮れていることに気付いた。綺麗なオレンジ色だ。程よく心を照らしてはくれない景色、空まで俺を慰めてはくれないらしい。…帰るか、とりあえず。
とはいえ知らない町、どうやって帰ろうかと周りを見渡していると一軒のコンビニエンスストアを見つけた。同時に自らの空腹に気付く。
そういえば朝から何も、食べてなかったか…。
「ありがとうございました~。」
「…。」
コンビニ店員にわざわざどういたしまして、と返す人っているのだろうか。いたとしても最近日本語を学んだ外国人とかだろうか。…いや外国の人もそこまで馬鹿じゃないか?
「うま。」
歩きながら食べるのもあれなので、外で立って食うことにした。夕飯はちゃんと作るつもりなので、あまり多くは買わなかった。今から帰れば…まぁ間に合うだろ。あの出来事があっても、弟を見放したりはしない自分につくづく面倒くささを感じる。なんだかんだ弟の事を大切には…しようとしてるだけか。
久しぶりにコンビニのおにぎりを食べると、味の濃さに驚く。…そういえばどこか外のご飯を食べること自体、懐かしいな。外食なんて…贅沢なことはしなくなった。第一、移動する足がない。
「……どうすれば…。」
思わずしゃがんでしまう。食べたら元気が出るかと思ったが、そう簡単に体は上手くできてない。ずっと鉛のように、足枷を感じさせる体の重たさは変わらなかった。
今朝見た彼女には何も感じなかったのに、今はどうしようもない嫌悪感が生まれてしまっている。『普通』に見えていたあの子が、突然得体のしれない『異常』な何かだと認識してしまっているんだ。
障害者というだけで、人を嫌うなんて。これじゃどっちが……
「…ごくん。」
考えないことにした。今は…とにかく帰ろう。家に。寝たら何か変わってるとは思わないけど、他にやるべきことがない。
ゴミを袋の中にしまい、立ち上がった…その時だった。
「…貴方、最低ですね。」
「え?」
いきなり横から吹っ飛んで来た罵声に驚き顔を向けると、自分より背の小さい…中学生…にぎりぎり見えるくらいの女の子がいた。年下だろうか。
美味しそうに…とは言えないがアイスをバクバクと食べている。腕からぶら下げたレジ袋の中にはいくつかのおにぎりが見えた。
「すいませんいきなり初対面の人に。でも、そう思ったので。今、自分で何言ったかわかってます?」
さっき考えていたことが口に出ていたようだ。そりゃまずい…。
「えーと…ごめん無意識で。俺なんて言ってた?」
「障害者ってだけで人を嫌う、と言ってました。」
「そ、そっか…。嫌な気持ちにさせたなら、本当にごめ……ん?」
もう一度謝ろうとすると、目の前に小さな手のひらが広がった。
「何度も謝らないでください。そういう…悪いと思ってないくせに、とりあえず相手の為に謝る人。自分を大切にしてないんだか、守ってるんだかよくわかんない。中途半端な人。私、大嫌いです。」
「…そ…れは…。」
厳しい言葉だが、正論だった。一切関係のない人に対してなら、いくらでもプライドを捨ててるくせに…謝って自分が間違ってたと、君が正しいと言って怒りを安易に鎮めようとしている。この子…的確だな。
「そうだね。なら…ありがとう?」
「それはそれでよくわかりませんけど…まぁいいです。…貴方、何歳ですか?」
「15歳だ。」
「年下かよ。なら早く行って。敬意もないのに敬語で話しちゃったじゃん。」
「あ、はい…。…何歳なんですかそっちは。」
「女性に年齢聞くとかあり得ない。嫌いそういう人。……じゅうはちだけど。」
年上らしい女の子…女の人は、馬鹿にするような笑い顔でそう答えてきた。どうしよう。ひっぱたきたいこの笑顔。
「…見えないですね。」
「違ういつまでも若いって事。」
アイスを食べ終わったのか、カップをゴミ箱に入れて次はレジ袋からおにぎりを取り出して食べ始めた。鮭のおにぎりだった。
「それで、何かあったの?」
「人に聞かせるような話じゃ…。」
「遠慮しなくていいよ。する意味が分からない。無駄な遠慮する人嫌い。良いからご飯のお供に聞かせて。」
「不味くなりますよ?」
「不味くなったらぶっ飛ばす。はい、どーぞ。」
「んな勝手な話ないですよ…。」
「…だいじょーぶだって。それに…。本当に美味しくないご飯は、もう食べたことあるから…。」
「え?」
後半は小さな声過ぎて、よく聞き取れなかった。
「なんでもない。良いから話して。」
「そこまで言うなら…まぁ…。」
俺は電車で見かけたあの子のことから、弟が心因性失声症であること。電車での言葉のないやり取り、俺が弟に対してどう思ってるか。そして今朝あった出来事を、知らない年上に全然見えない年上の女の人に話した。
普通絶対話さないような内容。今さっきであった、何のわだかまりもない新品な関係だからこそ、むしろ話しやすかった。その人は何も言わず、おにぎりを食べながら聞いてくれたけど、たまに苦虫を嚙み潰したような顔をしてくるからこっちは怯えながら話す羽目になった。
「で…落ち込んで今に至ります。」
「…情けな。」
「うっ。」
「まとまりなさすぎ。やる気なさすぎ。中途半端にしかも変な方向にやる気伸ばしすぎ。後、普通に片方の電車の中の子追いかけるとか、犯罪だよ。ストーカー。」
「で、ですよね…。」
「でもまぁ…そこまではまだいいよ。」
「あ、良いんですか…。」
良くないと思うんだけど。
「私が一番嫌になったの、その自分を悲しい主人公みたいに見てるとこ。大っ嫌い。虫酸が走るよ。虫さんトコトコだよ。」
「ちょっと何言ってるかわかんないんですけど…。」
「なんかこう…あーわからん!めんどくさいアンタ!」
「重々承知ではあります…。」
…なんでこんな突然俺は説教を受けてるんだ?自分より背の低い女の人に…。
「あ、わかった。人生最悪な目にあった、みたいな顔してるけどはたから見たら全然そんなことない。あんたが勝手に勘違いして、勝手に撃沈して、勝手に落ち込んでるだけ。周り何もしてない。弟さん悪くないし、その…何。エンジェルさん。」
「えんじぇるさん。」
「そうエンジェルさんも悪くない。悪いのはアンタ。もっと言えばその自分可哀想的な思考回路。それが悪い。」
「…。」
その通りで、自分でもわかってたはず。なのに…自分で言うのと誰かに言われるのでは、まるでショックが違った。己を傷つけてるつもりだったのに、やわらかいクッションに身を投げていただけ。対して今の言葉は正に銃で撃たれたような衝撃だった。
「ったく…。私の方がよっぽど人生最悪を経験してるよ。やったことある?多対一野球拳。あれ辛いんだよ?どうやっても勝てないもん。三連勝に可能性を感じても意味ないから。無理無理。」
「なんですかそれ…。」
「あー思い出したらイライラしてきた。アイス食べる!じゃあね!」
「ま、待ってください…!俺は、どうしたら…良いんですか。」
話を聞いてきたのなら、この先俺がどうすればいいかのアドバイスだけでも教えてほしい。この苦しみから、解放してほしい。
ただ聞きは許せない。
「何、奢ってくれるの?わーいありがと。」
「現金な人ですね…。良いですよ奢りますから。」
「うわナンパ?さっき壮絶に女の子問題でやられたのに?変わり身早。嫌い。そういう人。」
「……!…いやだから、俺は!!」
思わず語気が強くなる。煽られたイラつきを我慢できないなんて子供すぎるだろ…。少し怒鳴ったような声を上げてしまった。離れたところで煙草を吸っていたおじさんが目を見張っている。
やってしまったと、俺は慌てたが…
「…ふん、やるじゃん。嫌いじゃないよ。年齢関係なく怒れる人。自分の為、でもね。」
「んっ…?!」
コンビニの光に少し照らされただけで、良く見えない彼女の表情。子供の用にしか思えなかった言動と見た目が突然と大人びて、ドキっとしてしまった。
「アイスはいらない。言葉は上げる。…どうしようもないなら、死ぬしかない。」
「し、死ぬ…?」
「そう。一番楽。死ぬのがね。逃げじゃないよ。誰の責任でもないから、負い目を感じる必要もない。死んだら何もかも関係ないしね。首吊ればいい。あ、飛び降りてもいいよ。」
「…そうか…死ねば…いいのか。」
思ったことをそのまま口に出した。そりゃ…死ぬほど生きているのが嫌ではあった。好きな子も、弟も…俺の世界を形成しているすべてが嫌になった。光だと思ってた君が、闇に染まった。立っている場所がなくなる錯覚。
楽になりたかった。
「あら素直。良いね、案外いい子じゃん。縄買ってく?」
「…多分家にあります。」
「そう。良かった。じゃあ楽になってきな。」
「はい。あと、これ。アイス代。」
「いらないって言ったのに。」
「いや、背中を押してくれたんで。」
「…まぁ、くれるのならもらっとくけど。」
女の人はお金を受け取って、それ以上話すことはないと言ったようにまたおにぎりを食べだした。俺は頭を下げて、家へとまっすぐ向かった。なんだ、案外簡単な事じゃないか。答えは至ってシンプルだった。何も考えたくないほど…世界が絶望に満ちてるんならさっさと離れてしまえばいい。しがみつく理由なんて…
ふと、脳裏によぎったのは、あの日の帰り道。
弟がいじめられていて…サインを作っていた、あの光景。
「…関係ない。」
…だから、なんだってんだ。
・・・
コンビニエンスストアで、光に照らされながら一人の少女はまだおにぎりをほおばっていた。
「……あ。睦美さん。」
「やぁ待たせた。お腹は膨れた?」
「はい。財布が空になる程度には。」
「君へのお小遣いはもう少し減らした方が良いかもな…。ん?なんだ、アイス二つも食べたのか?」
「これは…まぁちょっと悩み事を聞いてあげたお礼に、買ってくれた人がいて。」
「へぇ。リメに話を。そりゃとんだ人選ミスだ。」
「なんてこと言うんですか。むしろこんなアイス一つじゃ足りないくらいです。」
「相変わらずの自意識過剰だね。で、なんてアドバイスしたの?」
「めんどくさい事で悩んでたので、死ねば楽になるよって。」
「ぶっ……あほか!何言ってんだ!」
「いや、合ってるでしょう。」
「あのさぁ…本当にそれでその子が死んじゃったらどうするの。」
「…死にませんよ、あのへこたれは。」
「さっき出会ったような口ぶりなのによく言えるね…。」
「見ればわかります。自分から死を選ぶなんて…。そんなことできる人、中々いませんから。」
「…君もできなかったからね。」
「できないんじゃないです、やらないんです私は。…そうやって昔の話を持ってくる人は
「きらいでーす、だろ。口癖口癖。思ってないくせに。優しさはあるけどわかりにくいんだよなぁ、リメってば。」
「…アイスもう一個。」
「ダメだよ、お腹壊す。…でもやっぱり信じられない。他人キライのリメがアドバイスなんて。そりゃめちゃくちゃなアドバイスだけど。」
「まぁ、あーゆー人は嫌いじゃなかった。それだけです。」
「相変わらず好きとは言わないねぇ…。言ってもいいんだよ?睦月さん大好きって。」
「睦月さん大嫌い。」
「はぁ…。」
私は、愛されない人生だったから。適当に振りまくほど『好き』を持っていない。
そんな安くないのだ、私の『好き』は。
…すでに一つ、数少ない一つを、渡してしまっているんだけど。
・・・
帰ってすぐ、自室の机の椅子を真ん中に置いた。弟はまだ帰ってきていなかった。思ったより早く家に戻ってこれたな。…良かった。
探したら縄はすぐに見つかった。一応なんでもあるからな…この家。
「…よし。」
部屋の真ん中に縄をひっかけて、下に椅子。俺はその椅子の上に、ゆっくりと乗っかった。あとは…首にかけて椅子を蹴れば…。
「…怖くは…あるか。流石に。」
腕が震えて、縄がつかめない。息が荒くなるのがわかる。
…決めろ。終われ。それで楽になる。
もう弟に苦しむことも…あの子の事を考えなくて済むんだ。
これで、全部…解決…
ガチャン、バタン
…!!…は、早く首に
トタン、トタン
首に…
ガチャ
…
次の瞬間、何か小さな物が思いきり俺を押した。まだ縄は首にかかっていなかったから。椅子から俺は飛んで行って…丁度、ベットに倒れ込んだ。
「……」
すぐにその俺を押した小さな何かが、俺に抱き着いてきた。
「…ごめん。」
このまま、横になっていたら…涙が流れそうで。俺は弟をぎゅっと抱きしめながら立ち上がった。
『な』『に』『を』
「…俺が悪いんだ。ごめん…ごめんな…。」
視界がぼやける中、何かを言おうとする弟の手に集中した。
少し開いた下向きの左手の上を、右手がくるんと撫でるように一回転。
…『大切』、って意味だ。
…俺が、か。
「……ごめんなぁ…。お前には…俺しかいないのに…。」
もう何も取り繕うことができなかった。
俺は弟をもう一度強く抱きしめる。
何が…死ねば楽になる、だ。コイツ残して死んで、楽になんかなれるもんか。
そりゃ…好きにはなれない。嫌いだよ、大嫌いだ。
でも……弟なんだ。
普通だろうが変だろうが関係ない。俺にとっては、家族に変わりないじゃないか。
どうして…どうして気づけなかった。俺にとっても…唯一の、家族なのに…。
俺はとにかく泣いた。涙が流れて…流れて…汚れてしまった俺を、洗い流すように液体が流れ落ちていった。弟は服が濡れていっても、何も言わず、強く抱きしめ返してくれた。
兄が弟に泣きつくなんて、かっこ悪い姿だが…もう我慢のしようがなかった。プライドなんて、すでに捨てていた。死ぬよりは…マシだった。
「はぁ…すまん。」
『大』『丈』『夫』
「あぁ、もう大丈夫だ。悪かったな。…二度とこんなことはしないから。」
『う』『ん』
立ち上がって夕飯を作ろうとして、思い出した。
…まだ謝らなきゃいけないことがある。
「そうだ。それと…ごめん。俺、お前が同じ学校の子にいじめられてるとこ見てたのに…助けなかった。本当にごめん。」
弟に向かって、俺は思い切り頭を下げた。
すると、ぽんぽんと肩を叩かれたから、顔を上げてまた手に集中した。
『し』『っ』『て』『た』
「え…?」
『ぼ』『く』『の』『こ』『と』
弟はゆっくり、わかりやすいように伝えてくれる。
『お』『に』『い』『ちゃ』『ん』『は』『関』『係』『な』『い』
「…自分一人の、問題だって…言いたいのか。」
弟は強く頷いた。その表情は、多分今の自分と比べたらよっぽどかっこいいだろう。
『だ』『か』『ら』『大』『丈』『夫』
「…!!……はぁ……ごめん…。俺の方がだせぇよな。あぁ…。」
あの子に全てを言うと決めて、逃げた無責任
死ぬと一度決めたくせに、結局できなかった身勝手
弟より十分に異常だ。俺は…そうだな。無責任身勝手障害か…。
「…飯にするか。」
『う』『ん』
その日は少し会話も交えながらの食卓を広げた。心をさらけ出しきった後の会話は、気が楽で、案外楽しかった。




