第四話 洗浄不可の鏡
無理して食べたら、戻してしまう事は明らかだったから夕飯はすぐに切り上げ、風呂にも長くは入らずベッドに潜り込んだ。少し寒い。これが悪寒、だろうか。
「…助けてれば、俺はあの子に会えたのか?」
我ながら、最低最悪だ。口に出して、答えを同時に出してしまっていた。
もし自分の心に嘘をついてでも弟を助ければ、あの子に会えるとしたらどうする。と、そういう今さら意味のない取引があったとしたら。俺はすぐに乗るだろう。
だがその場合、弟と、あの子が関わることになる。
「…ダメだな。それなら飲まない。」
嫌だった。あの子に会えたとしても、やっぱり嫌だった。どうしてもそれだけは避けようとしている辺り、ろくな人間じゃない事は明らかだな。こんな人間…あの子は、どう見るだろう。わかってるくせに。あの子は助けた。弟が障害者だという事を知らずに助けたんだとしても、その後すぐに気付けたはずだ。にも拘わらず彼女は弟の手当てをしてあげている。助けた子の兄が、俺だと知ったら…喜ぶんだろうか。
それとも、弟を見捨てた人間として…軽蔑するだろうか。
俺はあの子じゃないから、わからない。わかりたくない。
「はぁ…。なんで俺はこうも一貫性がないんだよ…。」
弟が嫌いなら、突き通せよ…。変に同情を沸くな…。
あの子が好きなら、彼女の期待通り動けよ…。無駄なプライドを投げ捨てるだけの器量はあってくれ…。
…畜生。
結局、夜の幕はとっくに下りていようとも、瞼はとっくに降りていようとも、思考が止まることはなかった。
・・・
…なんであんな遅く寝た記憶があるのに、習慣ってのは人をいつも通りの時間に起こすのだろう。おかげで弟が起きるより早く、目が覚めたが眠すぎる。
「ふわぁああ……ん?」
朝ご飯の準備をしようと、キッチンに入ると机の上に紙袋が置いてあるのが見えた。なんだ?
「どうして」
『暮れる頃に咲く花の正体』、だった。紙袋は…開かれた痕跡がない。テープで紙が破かれた様子がない。つまり…新品?
ふと、自室の本棚を見てみればやっぱり同じ本がもう一冊あった。誰が?…弟が?この本を?
「…別にこの本を触られたから嫌って訳じゃ…ない。」
触れられたのは、思い出。一瞬でも踏み込まれたような気がしたから…。
「はぁ…。ため息ばっか、こりゃすぐ老けるな、俺。」
新品の文庫本を、よく確認せず紙袋に戻し自室の机の上に置いてキッチンに戻った。本は安い。しかし何の収入もない小学生が買うには少々高額と言えなくもない値段だ。それを俺の為に買うなんて…もったいないことを。
「信頼でも買うつもりだったのか?」
わからないことばかりだな…。Myの意味も、弟の真意も。何もかもわからないまま、俺は家を出た。
「いってきます。」
声は小さく、弟に気付かれないように。朝ご飯は少し食べた。昨日、あまり食べれなかったから。
・・・
バツが悪いからって、いつもとは違う車両に乗る自分。あの子の不安そうな顔が目に浮かぶ。馬鹿だなぁ…。俺って、本当に。
「…でも、あの本を読まなくて済むか。」
もう何周も読んだ、『野球と芝生と柴犬』。彼女がまだ読んでいるからと、また持ってきていた。意外と読むの遅いんだよな…。『暮れる頃に咲く花の正体』はすぐに読み終わっていたイメージ。違ったジャンルを読んでいるからか?やっぱり彼女には合わないジャンルな気がしたけど、あながち間違っていなかったのかもしれない。
だが今日は気にしなくていい。彼女からは見えない場所に立っているんだ。
図書室で借りた本をカバンから取り出す。今なら何の躊躇もなく読める。すっかり本好きになっている自分に驚きだな。
久しぶりに転校生の顔を思い出した。あいつのおかげで、俺はあの子と少しだけ接点を持てたと言える。
「……待てよ。」
転校生との会話を、思い出した。一部分だけ。
【本を日ごろから嗜んでる人ってさ。どんな小説でも読むスピード変わらないらしい。頭の中に入れていくスピードそのものが違うからかな?】
もしもの話だ。すでに、彼女は読み終わっていて。でも俺がまだ読んでいるのを見て。俺を焦らせないよう、以前のようにただ持っているだけではなく読んでいる”ふり”をしているんだとしたら。俺と同じことを、しているんだとしたら。
「…まさか。」
居てもたってもいられなくて、いつもの場所へ。俺は移動した。
「ちょ、おい!」
「すいません!」
人混みかき分けるのは申し訳ないと思う。でもごめんなさい。確認がしたいんです。だって考えた通りだとしたら、嬉しすぎるから。
「はぁっ…はぁっ…。」
なんとかして、毎朝の特等席にたどり着く。まだあんまり人のいない時間で良かった。そこまで苦労せず来ることができた。人の目は、集めたけど…。
でもこれで、君に…
「………。」
日の光の指す窓から、いつもあの子がいる、反対側の車両の窓を見た。
君はいなかった。
「…はぁ。」
朝から…無駄に疲れたな…。
事前に作ってたサインも、見せる相手がいなければ…意味がない。
何を期待してたんだ、俺は。
・・・
日が変わっても、君はいつもの場所に居なかった。彼女の事は全部夢だったんじゃないかと思うほどあの子がいない以外、この朝は何一つ変化がなかった。
そもそも今の俺に会う資格がない。あの子は弟を…障害者だとしても助けたんだ。
俺はどうだ。それ以前に、兄のくせに弟を助けなかった。
見せる面、あるのか。少し構ってもらってるだけで…能天気に喜んで。
最初から遊ばれてるだけで…
「…ん?」
ネガティブに本も読まず名残惜しく君がいた場所を見ていたら、人混みかき分けて誰かがその場所に現れた。
思わず、俺は挨拶のサインを作る。
来てくれたのだ、あの女の子が。今日も変わらずショートヘアだったけど、いつもと違う黒くてシックなワンピースだった。何着ても似合うとは思ってたけど、今日は大人びて思わず自分の服装を恥じるくらいには綺麗だった。
君は少し疲れてて、急いできてくれたのがわかった。落ち着いてからきょろきょろと、俺を見つけてにこっと笑いながらサインを見せてくれた。
初めての事だった。君の笑顔を見て、負い目を感じたのは。もうとっくにダメになっていたのかもしれない。あの子の顔を見ると、弟を思い出してしまう。
…最初見た時、まっさらで綺麗な、まさにエンジェルだった君の表情。
今じゃ…暗く曇って、良く見えない。自分自身で汚れたフィルターをかけてしまっている。
洗い流すことは…できないのだろう。
「…ふっ。」
君は鏡だ。俺が暗い顔をしてると、君も暗い顔を見せる。思わず笑うと、今度はよくわからない、と言った不思議そうな表情を君は浮かべた。
「…。」
『野球と芝生と柴犬』を取り出して、見せてみた。するとハッと、思い出したように君もバッグからその本を取り出して笑った。
そうだよな…。違うよな…。あの子は悪くないのに、あんな顔させちゃ。
今の顔を、しててもらいたい。俺なんかの鏡に、なって欲しくない。
悪いのは…俺だ。
「……よし。」
誰にも聞こえないように、もちろん君にもわからない。小さな小さな声で俺は決心した。もう何も、取り返しはつかない。俺は純粋に彼女を見ることができなくなってる。弟の事もだ。
なら、諦めてこの泥を纏いながら生きていくしかない。浸かりきっていない体に、泥を塗りたくってやろう。
君に会いに行って…全部、話そう。俺はこういう人間なんだって。実の弟を置いて逃げて、君に会うためならどんな代償でも構わず払っていたって。
普通じゃない人を特に理由もなく嫌う、ゴミみたいな人間だって。
迷惑になるかもしれない、だけどこのまま逃げるのはダメだ。あまりにも僕は身勝手に生きている。ほんの少し夢を見せてくれた、そのお礼を。
俺のような人間に、夢を見る価値なんてないと気づかせてくれた…感謝を。
伝えよう
・・・
次の日
明日は休日。彼女も学校に行ってるんだとしたら、休日に電車には乗らないだろう。確認したことはないけど…普通はそうだよな。だからチャンスは、平日の今日だけ。俺はいつも乗る電車とは反対側の電車に乗った。学校なんかしらん。一日くらい許してくれ。
早速、電車が発車する前にいつも君がいる場所へと行こうとして…今さら気づく。
あれこれって変質者では?名前も知らない同士だ。突然反対側にいた人が現れたら…
騒がれ…るよな。謝るレベルじゃすまなくなるかもしれない。
でももう……乗っちゃってるし…。
いや…うーん…。
駅、降りたらにするか。
それはそれでストーカーにならないかと、不安いっぱいの心をどうにでもなれ精神で押し込んだ。
普段乗っている電車が出発して、三分ほどでこっちの電車も発車した。案外すぐに出てるんだな。
…あ、いる。
目を凝らしつつも、チラチラ探していたらいつも通りの場所に君が立っているのが見えた。やっぱり、『野球と芝生と柴犬』は読んでいない。持ってはいるけど、表紙をじーっと眺めてる。読み終わってるんだ。いつからだろう。
…今同じ車両に乗っているって気づいたら、驚くかな。…そりゃ驚くか。なんなら通報案件だ。おとなしく立ち上がりたい気持ちを押さえつけながらも、視線はきっと君がいる方向へと向け続けた。いつ降りるかわからないし。
[まもなく~□□。□□に止まります。扉付近お気をつけください。]
乗った駅から、まだ一つ移動した場所。彼女は本をしまって体を出口へと向けた。降りるの結構すぐなんだな…。
俺も降りる準備をした。駅で…人が少なくなったら話しかけてみよう。
さっきから思考回路が完全に犯罪者すぎる…。もうこれで本当に警察のお世話になることになったら、普通に観念して自白しよう。言い逃れはできない。やってることは確かに犯罪…だよなぁこれ。
「…って、あれ?」
悶々とリアル罪悪感を蓄えていたら、いつの間にか君がいなくなっていた。未遂で終わるのか。いやそれが一番いいんだけども。
とにかく探さなきゃと、駅をうろちょろ五分間。結局、見失ってしまった。
「はぁ…何してんだ。」
学校勝手に休んで…女の子探して。しかも顔以外何も知らない女の子。ほぼ他人だよ。もうこのまま帰るか…。なんだかんだ、おかしかったな、頭。会いに行くなんてばかばかしい話だったんだ。気持ちの清算くらい、一人で勝手にしとけよって話だし。
「…帰ろう。」
次の電車は三十分後。売店でお茶を買い、駅の外のベンチに座り休憩していると…道の奥、曲がり角を曲がっていく君の姿が見えた。ような気がした。遠すぎてはっきりとはしない。
「っ!」
諦めたような事言ってたくせに、やっぱりすぐに立ち上がって君を追った。言葉にも無責任…自分でも嫌になってきた。最初からか。
「はぁ…はぁ…。」
走って走って、走って。角を曲がると…
「…嘘じゃん。」
また、めちゃくちゃ遠い曲がり角を曲がる君の姿が。どんな道だよ。
もはやここまで来るとヤケクソ。絶対会ってやる。
最初から気づいてた。フィルターだの感謝だの、自分への戒めや罪の償い。泥をかぶる覚悟だとか、そんなの全部建前で
俺は、君に会いたくて。声を聞きたくて。本について話してみたくて。
そのために理由をつけただけなんだ。
「はぁっ…はぁっ…けほっ…はぁっ…。」
もう息切れた状態でもいい。通報されてもいい…。君に…会いたい!!
「待って!!」
曲がった先、確認もせず大きな声を出した。
息を整えてから、顔を上げると…
「…!!」
驚いた顔をした、君がいた。夢じゃなかった…いたんだ。本当に。
…急に足に力が入らなくなり顔がまた下がる。でもすぐに力を入れた。
せっかく会えたんだ。
こんなところでへこたれんな。
そんな俺を心配して、君は近づいてきてくれた。
「ご、ごめん。大丈夫。」
話すときってのは、目を合わせるのが普通だ。昔から言われてきた。お互い目を合わせて話すんですよ、って。もういないお母さんによく言われた。学校でもいつもやってるおかげで、ある程度良い人間関係が築けてるんだろう。
だからちゃんと、顔を上げて、目を合わせて話そうとして…
なのに、俺の体はいつもしている、『意思疎通』の癖が出た。
綺麗な君の手に、目が吸い寄せられたんだ。
『こ』『ん』『に』『ち』『は』
君が、手を動かしたから――。




