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第二話 プレイボール!!

 

 俺の青春のピークはどこかって言われたら間違いなくこの鉄の箱の中だ。

 気になっていた子と持ってきた本が被った。運命という言葉は少々うさん臭くて使いたくないが、今なら信じれる。ディスティニーはある。正に試合開始って感じ。

 すでに俺の乗った電車は出発してしまって、姿は見えないけど脳裏には同じ本を持つ君がいた。『野球と芝生と柴犬』。表紙は犬が野球のボールを咥えている、という物だった。あの子は読まなさそうなジャンルだと思ったのに…。意外だ。


「…読むか。」


 揺れる電車内。君も読んでるだろうから読むことにした。今場所は違えど、同じ時間、同じ文章を感じていると思うと、胸の高鳴りを自覚できた。

  物語は野球少年の主人公がペットの柴犬と共に成長していくものだった。言葉の交わせない存在同士であるにも関わらず心を寄せ合う関係に、容易に感動してしまう俺は案外チョロいのかもしれない。そんな中、読み進めると興味深い事柄があった。

 それはサイン、というもの。コサインの反対ではない。キャッチャーとピッチャーの秘密の合言葉みたいなものらしい。野球なんて一切知らなかったから、とても興味が沸いた。なんでかって言われたら…そりゃ…もしかしたらあの子と、そういうサインができるかもなんて。くだらない方向にばかり頭は働く。


 数日後、案外考えてみるものだなと過去の自分を褒める事になる。


 ある朝、まず君と視線を交わしてから本を読み始める。幸せか。


「…ん?」


 栞を頼りにどこまで読んだか確認していると、君が変な形をさせた右手を見せて来ているのに気がついた。小指、薬指、中指は折り畳んで、人差し指はまっすぐ下方向に。親指はピンと俺から見て右、君から見たら左に伸びていた。横に見れば銃の形に見えなくもない。不思議に思って自分も同じ手の形を作ってみた。…待てよ。

 すぐにペラペラと物語を遡る。

 あった、これだ。

 主人公が相棒であるバッテリーと決めていたサイン。『進塁打』のサインだ。

 同じ本を読んでるからこその、共通のサイン。二人だけが知っているサイン。

 俺は嬉しくなって、サインの手のまま手の甲で本を叩いた。すると君は何度か頷いてから、手を元に戻してまた読み始めた。結局何が伝えたかったのかはわからなかった。ただ丁度その部分を読んだから、やってみたくなっただけなのかもしれない。

 その後、学校でも暇さえあればそのサインを作った。すでに君にぞっこん過ぎて、友達との会話も上の空が多くなる一方だった。


 ・・・


 家に帰り、自分の部屋の、自分のベットの上で転がりながらまたあのサインを作る。君とは違ってなんだか不格好なサイン。あっちの手が綺麗すぎるだけかもしれない。細身の白い、握ったら折れてしまいそうな手。触れる事が出来たらな…なんて。

 ガチャリ、バタン。

 玄関の扉が開き、閉まった音がした。そのまま少し経てばトタン、トタンと階段を小さな足が登ってくる音が聞こえる。丁度そんな時間か。

 自室にコンコン、と二回のノックが響いた。


「いるよ。」


 おずおずと開かれた扉。入ってきたのは想像通り、弟だった。俺たちは五歳離れた兄弟。弟は小学五年生という事になる。

 俺はちゃんと起き上がって、弟に集中する。目を見るのではなく、弟の手に。

 出なければ会話ができないからだ。


『た』『だ』『い』『ま』


「…おう、おかえり。」


 俺の弟は、心因性失声症だった。


 体に何か問題があるわけではなく、心理的な要因によって声が出せなくなる病気。簡単に言ってしまえば、過去のトラウマやストレスからくる、一種の障害…らしい、俺に詳しいことはわからない。そう医者に教えてもらっただけだ。弟は小学校に入学してから、原因も不明に、数か月後突然声が上手く出せなくなってしまった。かなり落ち込んでいたが…今では立ち直って、毎週手話教室に通いだしたおかげでこうして意思疎通も問題なくできるようになった。


『な』『に』


「ん?あぁこの手か?これは…元気の出る手の形だよ」


『こ』『う』


「…そうそう。お前も何か嫌なことがあったらその形を作ればいい。…じゃあ俺はちょっと勉強するよ」


『が』『ん』『ば


「おう。」


 手話が終わる前に俺は目を離し、机へと向き直した。弟はまだそこに立っていたが、すぐに部屋を出ていった。


「…はぁ。」


 はっきり言えば、俺は弟が嫌いだった。生まれた瞬間から嫌いなわけじゃない。なんならブラコンかと思うほどいつも一緒にいた。弟が、小学生に入るまでは。

 嫌悪感を抱いているのは、『障害』の方。

 わかってはいるんだ。当事者の苦しみを、辛さを。

 とんでもない事を考えているのは自分でも認知している。

 だが…俺が小学校の頃。五歳差だから、同じ学校に通う時期もあった。

 弟が心因性失声症になって。同じクラスのヤツに、冗談交じりに言われた一言。


【お前の弟障害者なの!?】


 …事実だし、なんでもない言葉。悪口なんかでは決してないはずなのに。何故かその瞬間だけ俺の心はどうしようもなく惨めに捉えてしまって、煽られたような気分に陥った。自分の家族が障害だと馬鹿にされたのなら、怒りが沸くのが普通のはずなのに、俺は何故か恥ずかしくなった。

 中学三年の俺ですら言葉にできない感情、心に留めて置けるわけもなく。小学生の俺は拳が飛び出た。あの事はもう過去だけど、今の俺に十分影響している。

 それから、俺は障害者という人に対し嫌悪感を抱き始めてしまった。『普通』じゃないという異質感。当たり前ができない情けなさ。

 なりたくてなったわけじゃない、わかっているのに…どうしても、拭えない感情が俺の心にはあった。


 そんな障害者が、家族にいるという事実が嫌だった。

 弟は悪くないのに、俺は強く当たってしまう。

 朝早く起きて、できる限り顔を合わせないようにしたり。

 一時、何の贖罪のつもりか隠れて手話を学んで…喜んでくれた弟を見て俺は後悔を覚えた。無駄なことに時間を使った、と。本気で感じたんだ。


「…馬鹿みてぇ。」


 わかってるんだ。

 誰よりもその障害が嫌なのは、お前なのにな…。


 ・・・


 電車の中、また君と目を合わせる。あの日から何故だか挨拶のように、君は『進塁打』の手のサインを送ってくるようになった。俺も同じように、サインを作って君に返す。そうしてお互い、本を読み始める。半月前の俺には信じられないほど幸せな光景だろう。見せてやりたい。


「…ん?」


 ふと、君の服装に目が向かった。いつもはオシャレな服装なのに、今日はジャージだったから。それでも似合う、罪な奴だよ君は。

 あんまりにも見てたから、君は本から顔を上げて、疑問を浮かべたような表情を向けて来た。すぐに目を逸らしたけど、君が自分のジャージを小さく指さすのが見えたから、俺も小さくうなずいた。すると彼女は読んでいた本、『野球と芝生と柴犬』の野球の部分を指差した。どうやら学校で野球をやるらしい。

 いいな、俺もやりたい。

 羨ましそうな顔を見せたら、君はいつものニマニマしたり顔をしてきた。

「いいでしょ」とでも言いたげだな…。

 初めて君に対して不満顔を見せつけてやると、丁度電車が出発してしまった。

 不満な顔をしたものの、心は完全に満たされていた。言葉が無くても、会話ができる。普通とは違った特別な意思疎通を、二人だけでしている。なんだか嬉しくなった。満たされないはずがない。


 脳裏に一瞬、弟がちらついた。

 俺は気にせず、すぐにまた本に目と頭を向けた。




 ・・・


 俺の学校生活は順風満帆だろう。自慢じゃない。

 学校に着けばおはようやら昨日のテレビ見ただとか、話しかけてくるやつが数人はいる。隣の席の女子とも仲良くできてる気はするし、委員会活動も結構活発的な方だ。後輩ともよくやれてる。

 けれども最近、俺は根暗側に傾いている気がする。

 原因は本。これがこんなに面白過ぎるのがいけない。実を言うと、『野球と芝生と柴犬』はすでに完読していた。面白過ぎて通学中の電車以外で読み進めてしまったからだ。けれど、あの子はまだ読み終わってないようだから俺も電車の中では『野球と芝生と柴犬』を読む。もし俺が別の本を広げれば、あの子は急いで読んでしまうだろう。いや自意識過剰じゃない…と信じたい。

 まぁ要するに、あの子が読み終わるまでは電車の中では同じ本を読むことにしたのだ。一冊目、君がそうしてくれたように。

 しかし…新しい体験を早く味わいたい。なので俺は、絶対立ち寄らないであろうあの空間へと足を運ぶことになる。


「ここが…図書室。」


 まさかゲーム好きの俺が来ることになるとは…感慨深い。

 立ち寄ってみれば正に天国だった。面白い本がどれも無料で借りれるのだ。

 最高か。

 さてどの本にしようか。スポーツ系と恋愛系、ミステリー系は体験済みだから新しいジャンルの本を読んでみたい。…いや待てよ。そういう新鮮さはあの子と感じた方が……あの子は関係ないから!

 心の中で葛藤していると、隣に近づいてきていた男子生徒に一切気が付かなかった。


「ねぇ、もしかして…。」

「…おわっ!?…あ、本屋の。」


『野球と芝生と柴犬』を勧めてくれたあの時の男がいた。同じ学校ならそりゃここにいるか。頭の中が本でできていてもおかしくないようなやつだったしな。


「やっぱりあの時の。図書室に来たんですね。嬉しいです。」

「…言葉と違って落ち着いてるけど。」

「図書室ですから、静かにしなければいけません。誰もいない野原でしたら大声で感情を叫んでいますよ。」


 それはオーバーすぎる気がする。


「『野球と芝生と柴犬』。どうでした?」

「面白かったよ。野球がやりたくなった。」

「そうでしたか。柴犬は飼いたくなりませんでしたか。」

「どちらかと言えばまぁ…。」


 現実味のある犬の愛嬌さ、言葉にして伝えられるなんて書いた人すげぇと思いはしたが、野球の熱血さの方が心揺さぶられた。それに多分、あの子の影響もあるんだろう。あのしたり顔を思い出すと…一気にやりたくなった。


「『野球と芝生と柴犬』は読んだ方、どちらかに分かれるんですよね。野球やりたくなる派と柴犬を飼いたくなる派。」

「へぇ…そうなのか。」

「少数ですが芝生を育てたくなる派の方もいます。」

「マニアックすぎるだろ。」

「そうですよねぇ。中々僕もその心境には至れません…。そういえば、貴方にその本を進めた日、同じ本を買っていく女性がいたんですよ。」

「…!ど、どんな人だった?」

「そうですねぇ…ショートヘアで、可憐で美しい方だったのを覚えています。」


 …その情報だけで十分に絞ることができた。向かい側の電車の、あの子だ。本屋にいたのか、その時間。くっそぉ…なんたる不運。また行こう、本屋さん。今度は話せるかもしれない。


「良い情報ありがとう。」

「何の為になったかはわかりませんが…。どういたしまして。それで、今日は本を借りに来たんですよね」

「そうだった。おすすめはないか?」

「もちろんありますよ。僕のおすすめランキングベストハンドレットを紹介しましょう。」

「そういうのって普通10じゃないのかよ。」


 昼休み、図書室から俺が出てくる頃には三冊のかなり厚い本を抱えることになったとさ。


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