第六話 追憶の恋と幻影の果て
登場人物
アーデン・グレゴリー・晴明:バー「クロノス」のマスター。孫を溺愛。
クロノス・アビサル:時を司る神。気まぐれで人間の本性を試すことを楽しむ。
一途 誠:大学生。純粋だが思い込みが激しい一面も。
前書き
異世界から現代(?)にやってきた時の神と賢者の二人、果たして何が起きるのか。原作の王道ファンタジーからのスピンオフ小説、バー「クロノス」を舞台に、神の遊びの目的は・・・。
秋の長雨が続く、ある日のバー「クロノス」。窓の外は、絶え間なく降り注ぐ雨音が世界を包み込み、店内にまでそのしめやかな気配を漂わせていた。古時計の秒針が刻む音だけが、磨き上げられたカウンターに静かに反射している。マスターのアーデン・グレゴリー・晴明は、いつものように丁寧にグラスを磨きながら、物思いに耽っていた。
(恋とは、かくも人の心をかき乱し、時にその理性をさえも奪い去るものか。喜びも束の間、やがては嫉妬や執着といった苦悩の種を蒔き、人を迷わせる。だが、その苦しみを知るからこそ、人は他者の痛みに寄り添う優しさを学ぶのかもしれんな。遠い世界で、若き指導者として歩み始めた孫の翔も、いずれは誰かに心を寄せ、そして悩む日が来るのだろう。その時、わしは…)
晴明の思索を遮るように、カウンターの隅の指定席から、いつものようにアビサルの声が響いた。今日の彼は、黒いシルクのシャツを身に纏い、まるで夜そのものが凝って人の形を成したかのような妖しい美貌の青年といった風情だ。その手には、古今東西の恋愛悲劇を集めた分厚い書物が開かれている。
「晴明よ、この書によれば、人間という生き物は、愛だの恋だのと騒ぎ立てては、結局のところ己の欲望を満たしたいだけか、さもなくば孤独を恐れる臆病風に吹かれているに過ぎんらしい。甘美な言葉で飾り立てたところで、その根底にあるのは、剥き出しの自己愛か、見捨てられることへの恐怖。実に滑稽で、そして哀れなものよな。まあ、だからこそ、観察対象としては飽きないのだが」
その声は、冷徹な響きを帯びながらも、どこか楽しげな色を含んでいた。晴明は、アビサルの言葉に静かに頷き、磨き上げたグラスに視線を落とした。
その時だった。店の扉が、まるで雨音に吸い込まれるかのように、静かに、そして力なく開かれた。
第一幕:傷心と出会い
「……こんばんは」
掠れた声と共に現れたのは、一途 誠。年の頃は二十代前半だろうか。どこか幼さの残る整った顔立ちだが、数日前よりもさらに憔悴し、その瞳は虚ろで、まるで魂が抜け落ちたかのようだった。雨に濡れたコートを引きずるようにしてカウンター席に辿り着くと、彼は崩れるように椅子に身を沈めた。マスターの晴明は、黙って彼を迎え、言葉をかける前に、そっと温かいタオルを差し出した。
誠は、その小さな心遣いにさえ気づかぬかのように、焦点の定まらない目で虚空を見つめている。その脳裏には、数日前にアビサルから与えられた力で見た、残酷な真実と、それ以上に醜悪な自分自身の姿が、悪夢のように繰り返し再生されていた。
誠がこのバーを初めて訪れたのは、ちょうど一週間前のことだった。その時も雨が降っていた。失恋の痛みを酒で紛らわせようと、行きつけのない店を探し歩いた末に、偶然見つけたのがバー「クロノス」だった。
「いらっしゃいませ」
静かな、しかし温かみのある晴明の声に迎えられ、誠は当時の自分の状況を、少し遠慮がちに、しかし饒舌に語り始めていた。
「彼女に…振られたんです。何度も関係を修復しようと試みたんですが、彼女の心は離れていってしまって…。どうして別れになったのか、本当の理由が知りたいんです。俺のどこがダメだったのか、どうすればやり直せるのか…それがわからなくて、眠れなくて…」
晴明はその時、ただ静かに頷きながら、彼の青くささえ愛おしい青年の言葉を聞いていた。そして、「心の傷は、時が癒やしてくれるもの」「自分を責めすぎないことです」といった、誰もがかける慰めの言葉を、しかしどこか真実味を帯びた温かさで語りかけていた。
それが一週間前。あの日も、アビサルはカウンターの隅で、その日は年配の詩人といった装いで、静かに二人の会話を聞き入っていた。
「マスター、俺、彼女の本当の気持ちがどうしても知りたいんです。何がいけなかったのか、どこで間違えたのか…本当の理由を知りたいんです…」
誠が幾度も繰り返す言葉に、アビサルの目に、一瞬、好奇の色が浮かんだことに、晴明だけが気づいていた。
第二幕:アビサルの誘惑と陶酔
―― あの日、バーからの帰り道、雨に打たれながら失意の底にいた誠の前に、アビサルは現れた。その時のアビサルは、どこか誠が焦がれた元恋人に似た雰囲気を纏い、慈悲深くも見える、しかしどこか底知れない微笑みを浮かべていた。
「困った顔をしているな、若者よ」
見知らぬ女性の声に、誠は雨に濡れた顔を上げた。そこに立っていたのは、彼女——かつての恋人によく似た雰囲気を持つ、しかし明らかに別人の女性だった。年齢は少し上に見えるが、どこか懐かしさを感じさせる容姿と声に、誠は思わず足を止めていた。
「君は今、知りたがっているようだね。彼女の気持ちを。本当に知りたいのか? 知ったところで、過去は変わらぬ。むしろ、新たな苦しみがお前を苛むやもしれんぞ?」
それでも誠は、「知りたい、どうしても知りたいんです」と、雨に濡れた顔で懇願した。アビサルは「その愚かなる一途さに免じて」と、過去の特定の場面を、相手の本心と共に追体験できる力を与えた。ただし、「その力は諸刃の剣。使い方を誤れば、お前自身を滅ぼすだろう」という不吉な警告と共に。
最初に見たのは、彼女が別れを告げた雨の公園。誠が「何故だ、理由を教えてくれ!」とヒステリックに問い詰めても、彼女は俯き「ごめん…」と繰り返すだけだった。だが、アビサルの力で見えた彼女の本心は――「あなたのそういう、人の話を聞かず、自分の感情ばかり押し付けてくるところが、もう限界なのよ。お願いだから、気づいて…」。
愕然とした。良かれと思って伝えていた熱意が、彼女にとってはただの暴力でしかなかったのだ。さらに別の日のデート。楽しそうに振る舞っていた彼女の本心は「早く帰りたい。この映画の話、もう何回目? 私の好きなものは、あなたは少しも聞いてくれないのね…」。
打ちのめされた。自分は何も見えていなかった。彼女の優しさに胡坐をかき、自分の価値観ばかりを押し付けていたのだと、骨身に染みて理解した。
だが、絶望と共に、醜い希望もまた芽生えてしまった。字幕には、彼女が誠の不器用な優しさを認める言葉や、別れを迷う言葉も散見されたからだ。「もしかしたら、俺がちゃんと変われば、彼女は許してくれるかもしれない…」。
その日から、誠の行動は坂道を転がり落ちるように常軌を逸し始めた。寝食を忘れ、彼女のSNSをストーキングし、行動を把握しようと躍起になった。偶然を装って接触しようと、彼女の通勤路や行きつけのカフェをうろつき始めた。
夜になれば、与えられた力を使って、かつての彼女との思い出を何度も追体験した。最初は特別なデートの日や記念日から始まったが、やがて些細な日常の一場面までも執拗に覗くようになっていった。
「この時の彼女は、俺のことをどう思っていたんだろう?」「ここで違う言葉をかけていれば、別れなかったかもしれない…」
そのたびに見えるのは、彼女のちょっとした不満や退屈さ、そして時折垣間見える優しい気持ち。誠はそれらを断片的につなぎ合わせ、自分の都合のいい希望的観測へと導いていった。
「彼女も、本当は俺のことを嫌いじゃなかったんだ」「もう少し工夫すれば、きっとやり直せる」「俺が変われば、彼女は戻ってくるはずだ」
冷静な判断力は鈍り、誠の思考は歪んだ妄想へと変貌していった。そして、そんな醜態を晒す誠の前に、アビサルは再び現れ、今度は嘲るでもなく、ただ静かに、しかし冷徹に現実を突きつけた。まるで鏡のように、誠自身の姿を、その歪んだ情動を、ありのままに映し出して。
「どうだ? 愛に狂い、彼女の幻影を追いかけるお前の姿は。実に滑稽で、そして醜悪だろう? それが、お前の望んだ『真実』の一端だ」
そこに映っていたのは、焦燥と執着に目を血走らせ、獲物を追う飢えた獣のような形相の自分だった。紛れもない、ストーカーそのものの姿だった。
「うわあああああっ!」
誠はその場に崩れ落ち、胃の腑からこみ上げるものを抑えきれず、激しく嘔吐した。自己嫌悪と絶望が、彼の心を完膚なきまでに打ち砕いたのだった。
第三幕:袋小路と救いの光
バー「クロノス」のカウンターで、誠は震える声で、途切れ途切れに晴明に全てを打ち明けた。
「俺は…最低です。彼女を、自分の独りよがりで傷つけただけじゃなく…ストーカーみたいな真似まで…。もう、どうしたらいいのか…本当に、分からないんです…」
晴明は、誠の言葉を最後まで静かに聞いていた。その間、一度も口を挟むことなく、ただ深く、静かに。そして、誠が言葉を切った後も、しばし沈黙が続いた。
そっと差し出されたのは、琥珀色の液体の入ったグラス。晴明は「少し、心を落ち着かせる助けになるかもしれませんよ」と静かに勧めた。誠はその香りを嗅ぎ、口に含む。喉を焼く感覚と、その後に広がる温かさが、凍りついた心を少しだけ溶かしていくようだった。
やがて、晴明はおもむろに口を開く。
「誠さん。お辛い経験でしたな。ですが、知ってしまった真実と、ご自身の犯した過ちから目を背けず、こうして私に話してくださったことは、紛れもなく、大きな、そして勇気ある一歩です」
穏やかながらも、その声には確かな力があった。それは、ただ慰めるだけの優しさではなく、崖っぷちに立つ者の背中をそっと、しかし力強く支えるような厳しさをも含んでいた。
「確かに、他人様の心を変えることは、我々にはできません。一度離れてしまった彼女の心が、今の誠さんのお気持ちに応えてくれることは、もうないのかもしれない。ですが…」
晴明は、虚ろな誠の目を、射抜くように真っ直ぐに見つめた。
「ご自身を変えることは、誠さん、あなたにならできます。過去の過ちを深く心に刻み、それを未来への糧として、新たな自分として再び立ち上がることは、誰にも、何ものにも止められません。そして、そうして変わった誠さんの姿を、いつか誰かが見てくれる日が来るやもしれません。あるいは、かつての彼女が、何かの拍子にその姿を目にすることがあるかもしれない。その時、誠さんは、胸を張って、今の自分を誇らしく思うことができますかな?」
晴明の言葉は、激しい雨音にかき消されそうなほど静かだったが、誠の荒みきった心の奥底に、まるで確かな楔を打ち込むかのように深く、重く響いた。
「自分を…変える…?」
そうだ、と誠は雷に打たれたように思った。あのストーカーのような醜い自分には絶対になりたくない。彼女を傷つけた過去は、決して消せない。だが、未来の自分まで、あの醜い過去に引きずられ、縛られる必要はないはずだ。
「俺…俺は、変わりたいです。あんな自分は、もう二度と嫌だ! 彼女に…いや、誰に対しても、あんな醜い執着を向けるような人間には、絶対になりたくないんです!」
それは、心の底からの叫びだった。絞り出すような、しかし、そこには紛れもない力強い決意が宿っていた。
雨の激しさは少し和らぎ、店内の空気も、かすかに軽くなったような気がした。カウンターの隅で、いつものように分厚い書物を読んでいたアビサルが、ふっと顔を上げた。その妖しい美貌には、面白がるでもなく、馬鹿にするでもない、ただ静観者のような冷めた表情が浮かんでいる。
「やれやれ、ようやく悪夢からお目覚めか。随分と見苦しい寝言を繰り返していたようだが…まあ、少しはマシな顔つきになったではないか。月並みな結論ではあるが、今回はその涙に免じて、お遊びの時間は終わりにしてやろう。だが、勘違いするなよ、小僧。お前が本当に変われるかどうか、この私が、じっくりと見届けてやるからな」
その言葉と共に、アビサルの姿はまるで陽炎のように掻き消え、誠の意識は一瞬、深い闇に引きずり込まれるように遠のいた。
第四幕:再生と未来への一歩
気がつくと、誠はバー「クロノス」のカウンターで、晴明が差し出してくれた温かいハーブティーを手にしていた。失恋の痛みも、おぞましい自己嫌悪の苦しみも、まだ生々しく胸の内に疼いている。しかし、それら全てを抱きしめた上で、確かに前を向き、立ち上がろうとしている自分がいた。
懐から取り出した小さな髪留め——彼女がかつて使っていて、彼が大切に持っていたもの——を見つめる。もう彼女のものではない。返そう。そして、これ以上の執着は捨てよう。過去に囚われているうちは、新しい自分になれない。
「マスター…ありがとうございました。俺、頑張ってみます。本当に、ありがとうございました」
晴明は、いつものように穏やかに微笑んで頷いた。「いつでもお待ちしておりますよ、誠さん」
店を出る誠の足取りは、まだ少し重く、おぼつかない。だが、その顔には、降り続いていた雨が上がり、雲の切れ間から差し込んできた一筋の光のような、微かな、しかし確かな希望の色が差していた。
どうしたら未来へ歩み出せるのか。まず、彼女を追うような恥ずかしい行動は即刻やめること。そして、晴明の言葉を思い出しながら、自分の欠点と向き合うこと。人の話に耳を傾けることの大切さ、自己中心的な想いを押し付けないこと、相手のことを本当に考えるとはどういうことなのか…。
誠は小さな決意を胸に、雨上がりの街の匂いを深く吸い込んだ。何もかもが今までと違って見えるような気がした。失恋は確かに痛かった。でも、その痛みを通じて見えるものがある。晴明の「その痛みもまた、成長させてくれる糧になる」という言葉を、はじめて実感として理解したような気がした。
彼は、雨粒が輝く街路樹の下を歩きながら、初めて、自分ではない誰かのことを、真剣に考えようとしていた。
エピローグ:賢者の眼差しと神の戯れ
誠が去った後、晴明は一人、静かにグラスを磨いていた。その目は、窓の外の、いつしか雨の上がった夜空の彼方を見つめている。
(翔も、いつかこのような、あるいはもっと複雑な心の痛みを経験するのかもしれんな。その時、わしは…ただ、こうして見守ることしかできぬのだろうか)
「フン、孫への執着心とやらでは、お前もあやつと大差あるまい。元賢者殿も、存外人間臭いものだな」
いつの間にか戻っていたアビサルが、カウンターに肘をつきながら、いつもの皮肉な笑みを浮かべて声をかける。
「今日の目覚めた若者は、どうなるかな? 本当に変われるのか、それとも再び同じ轍を踏むのか。いずれにせよ、人間の内に潜む業とは実に興味深いものよな。あの小僧もまた、時が経てば別の苦悩に囚われるに違いない。その際には、また面白い実験台になってもらおうかな」
アビサルの言葉には悪意と好奇心が混在していたが、どこか達観したような諦観も含まれていた。
晴明は苦笑し、磨き上げたグラスを静かに置いた。バー「クロノス」の夜は、まだ始まったばかりだ。
「そうですな。人は弱さゆえに過ちを犯し、また弱さゆえに立ち上がる。その繰り返しの中で、少しずつ成長していくものでしょう。私もまた、翔を思う気持ちを捨てることはできませぬが、それも含めて『人』なのかもしれませんな」
窓の外では、雨上がりの夜空に、星々が少しずつ顔を覗かせ始めていた。それは、暗闇の中にも必ず存在する希望の光のように、静かに、そして確かに輝いていた。
(第六話 完)
お読みいただき、ありがとうございます!
第6話、いかがでしたでしょうか?
サイドストーリーと外伝を挟んでの通常回になりましたが、ついてこれましたでしょうか。
どっちが好きかなど教えていただけるとありがたいです。
今後の展開にもぜひご期待ください。
原作が気になった方はウェブサイトを覗いてみていただければと思います。