バー・クロノス外伝一話 雷神と時の神の雷鳴決戦
登場人物
クロノス・アビサル:時を司る神。気まぐれで人間の本性を試すことを楽しむ。
舞台設定
舞台は山間の小さな村「雷鳴村」。
村は豊かな自然に囲まれ、名産は「雷豆」という雷の多い土地で育つ特別な大豆。雷豆を使った味噌や豆腐が有名。
村の中心には古くから雷電大明神を祀る雷神社があり、毎年「雷祭り」が盛大に行われる。
前書き
異世界から現代(?)にやってきた時の神と賢者の二人、果たして何が起きるのか。原作の王道ファンタジーからのスピンオフ小説、バー「クロノス」を飛び出てアビサルは何を巻き起こすのか?
かつて、アビサルは万物を統べる神々の頂に座し、その力は星々を動かし、運命を紡ぐとまで謳われた。だが、その強大過ぎる力を欲した人間たちの浅慮と裏切りによって、彼は力を奪われ、永きに渡り封じられた。解放された時には、かつての慈悲深き神の面影はなく、ただ人間という存在の本質を冷ややかに見つめる「悪神」としての貌だけが残っていた。
今は、元賢者・晴明のバー「クロノス」に身を寄せ、時折、こうして人気のない地方へふらりと足を延ばしては、移ろう季節や人々の営みを、まるで遠い昔の記憶を辿るかのように眺めるのが常となっていた。それは、退屈しのぎのゲームであり、同時に何かを探し続ける旅でもあった。
雨も風もない、清々しい秋の初日。アビサルは、蒼穹を抱く峰々が連なる山脈の麓に広がる「雷鳴村」に降り立った。その姿は、見るからに場違いな、都会的な洗練を纏った中年の紳士といった風情。黒の生地に金糸で雷文様が施された高級スーツは、この素朴な田舎町では異彩を放っていた。
村のあちこちでは、人々が忙しそうに往来している。夏の終わりの陽光が、間近に迫る収穫を待つ稲穂を黄金色に染め上げ、あたりには穀物の甘い香りが漂う。村は、名産の「雷豆」の収穫祭と、村の氏神である雷電大明神を祀る「雷祭り」の準備で、穏やかな活気に満ちていた。
(何とも牧歌的な光景だ。これが人間どもの言う「平和」か...)
アビサルは村の中心部へと足を進めた。土の香りが心地よく、子供たちの笑い声が遠くから聞こえてくる。太い梁と藁葺き屋根、時代を感じさせる造りの民家が整然と並ぶ景観は、どこか懐かしさを誘うものだった。彼の記憶の彼方には、かつて人々が神々に捧げる純粋な祈りと、その応えとして恵みを与えていた、遠い遠い時代の光景がある。
第一幕:土地の記憶と村の祝祭
アビサルは、古びた茶屋の縁台に腰を下ろし、甘味と地酒を注文した。運ばれてきた雷豆の煮物は、素朴ながらも滋味深い。口に含むと、ほんのりとした甘みと、豊かな大地の恵みを感じさせる味わいが広がる。
「人間どもは、こうして自然の気まぐれに一喜一憂し、ささやかな恵みに感謝する。滑稽なほど健気なものよ」
口ではそう言いながらも、その眼差しには、かつて自らが司った豊穣の記憶と、それを享受する者たちへの複雑な感情が揺らめいていた。彼にとって、人々の祈りや祭りは、かつて信じ、そして裏切られた温かい記憶の残滓であり、同時に、その愚かさを再確認させる儀式でもあった。
アビサルが雷豆煮を静かに味わっていると、茶屋の主人が嬉しそうに茶碗を差し出してきた。
「お客さん、こちらの地酒も一緒にどうぞ。雷豆と一緒に飲むと格別ですよ」
盃に注がれた酒は透明感のある琥珀色。口に含むと、芳醇な香りと共に、ふわりとした甘みが広がり、後から心地よい辛みが追いかけてくる。
「ほう、悪くない。まあ、千年前に飲んだイズモの神酒には及ばぬが...」
主人は首を傾げたが、一瞬後には笑顔で「お気に召したようで何よりです」と答え、次の客へと足を運んだ。
しばらくすると、祭りの準備をしていた村人たちの間で何やら騒がしさが生じ始めた。見上げると、先ほどまで澄み渡っていた空には、次第に暗雲が立ち込め、遠くで雷鳴が轟き始めていた。
しかし奇妙なことに、祭りの準備をしていた村人たちは、慌てることもなく、むしろ慣れた様子で空を見上げ、その顔には安堵の色さえ浮かんでいる。子供たちは歓声を上げ、年配者たちは頷き合う。まるで、雷雲が歓迎すべき賓客であるかのような光景だった。
「おお、今年も良い雷様が来てくださったようだ」
村の長老らしき男が、アビサルの隣に腰を下ろし、にこやかに話しかけてきた。白い髭を蓄えたその老人は、古風な着物に杖を持ち、その目は穏やかながらも洞察力に満ちていた。
「よそから来られた方ですか? まあ、良い日に訪れましたな。あれなる雷こそが、この村に豊作をもたらす吉兆なのですよ。雷が大地を震わせ、雷豆に力を与えてくれるのです。一年で最も大切な祝祭の日です」
老人は誇らしげに語った。アビサルは、老人の純朴な語りと目の前の人々の無邪気な姿に、かつての記憶の重みで胸が締め付けられるような感覚を覚えながらも、表情を変えずに応じた。
「ほう、ただの自然現象を、都合よく神の恵みとやらと結びつけるか。人間とは、実にめでたい生き物だな」
その皮肉な言葉に、老人は少し驚いたような表情を浮かべたが、すぐに穏やかな笑みを取り戻した。
「そう言われる方も多いですが、わしらはね、目には見えぬものの存在を、この長い歴史の中で肌で感じてきたのです。雷神様の恵みが、この村の作物を育て、民を守ってきた。それは、この地に生きる者の揺るぎない真実なのですよ」
老人の言葉は、何の飾りもない純粋さを持っていた。アビサルはふと、自分が忘れていた何かを思い出したような感覚を覚えたが、すぐにそれを振り払った。代わりに、胸の内に湧き上がってきたのは、どこか悪戯心に似た衝動。あるいは、老人の語る素朴な信仰と、それに対する自身の冷めた視線の間で、何かを試したくなったのかもしれない。
「ならば、そのありがたい雷様とやらが来なければ、お前たちはどうするのだ?」
アビサルがそう呟くと同時、時の流れに僅かな干渉を加えた。指先から漆黒の霧のような力が溢れ、それはまるで夜空に紛れるように、誰にも気づかれることなく天空へと伸びていった。すると、空を覆っていた雷雲は急速に薄れ、先ほどまでの喧騒が嘘のように、不自然な静寂が村を包んだ。最後に鳴った遠雷の音が、どこか不吉な余韻を残して消えていった。
第二幕:神々の相剋
例年通りの雷鳴が途絶え、村人たちの間に動揺が広がる。「どうしたことだ…」「雷様が…お怒りになったのか?」「もしかして、今年の不作を告げる兆しか?」
子供たちの笑い声は消え、老若男女の顔に不安の色が浮かぶ。かつては収穫を約束する雷の訪れを、心から喜んでいたはずの村人たちの素朴な表情が、一変した様子をアビサルは冷ややかに観察していた。
老人もまた、困惑の色を隠せない。「こんなことは、わしの生きてきた八十余年でも初めてだ…」
その時、地面がわずかに揺れ始めた。それは最初、かすかな震動だったが、次第にその強さを増していく。村の中心に立つ雷神社の奥から、地を揺るがすほどの凄まじい神気が立ち昇った。それは、豪雨の前の圧し潰されそうな空気のような、しかし荘厳で厳かな威圧感だった。
「何奴ぞ! この地の理を弄び、民の祈りを踏みにじる不届き者は!」
雷鳴と共に現れたのは、雷電大明神――その姿は、怒りに燃える雷雲を纏い、手には雷光を放つ太刀を握っていた。威風堂々として、厳しくも、どこか民を慈しむような深い眼差しで、アビサルを射抜いている。
雷神の出現に、村人たちは一様に畏怖の念を抱き、ひれ伏した。それは恐怖というよりも、畏敬と信仰心からくる自然な礼拝の形だった。老人も、かぼそい手を胸の前で合わせ、深々と頭を垂れていた。
「ほう、威勢のいい土地神様だな」
アビサルは、茶屋の縁台からゆっくりと立ち上がり、その瞳はかつての神時代の凄みを取り戻していた。彼の周囲だけ時間が遅くなったかのように、風が止み、木々の葉の揺れも凍りついたようだった。
「だが、お前の独占市場に少し風穴を開けてやっただけのこと。何をそう目くじらを立てる?」
アビサルの言葉には、かつて数多の神々を従えた絶対者の傲岸さと、人間への不信感が滲んでいた。その瞳の奥には、信頼と裏切りが幾重にも交錯する記憶が眠っているようだった。
「無礼な! 汝、何者なりや? ただの旅人にあらず、人にあらず、それでいて神にも似た気配…」
雷神の眼差しが、アビサルの本質を探るように鋭く光った。村人たちは息を潜め、二柱の神々のような存在の対峙に見入っていた。空気が張り詰め、時が止まったような静けさが訪れる。
「私の名を知りたいか? ならば力でそれを知るがいい、土地神よ。おお、雷電よ! その昔、わたしこそがすべての時を司る者であり、運命を紡ぐ者であった。今も、時の一部はわが掌中にあり、お前の雷など、それを止めることも、巻き戻すことも我の意のままよ!」
アビサルの全身からは、濃密な闇のような、しかしそれでいて星々の煌めきを内包するような神気が漏れ出していた。それは、悠久の歴史と宇宙の広大さを思わせる、人智を超えた存在の気配だった。
雷神は一瞬、その圧倒的な威圧に怯んだようにも見えたが、すぐに太刀を構え直し、その瞳に毅然とした光を宿した。
「異界よりの神よ、その名を名乗れ! 我が名は雷電大明神、この地を司り、風雨を治め、民を守護する神なり。いかに力あろうとも、よそ者が我が地で悪戯を働けば、容赦なく裁ちゆくのみ!」
雷神が太刀を振り下ろすと、天を裂く稲妻がアビサルに襲いかかる。その光は村全体を白日のもとのように照らし出し、轟音が地響きのように村中に響き渡った。
アビサルは、時の流れを歪ませてそれを軽々とかわし、時には稲妻そのものの時間を巻き戻し、雷神へと跳ね返す。彼の周囲には、時の歪みを表す奇妙な幻影や、逆行する光のしずくのような現象が見られた。
「小賢しい真似を! 我が雷は、ただの力ではない! この土地と民を守る誓いの顕現ぞ!」
雷神の言葉と共に、大地から無数の雷が湧き上がり、アビサルを包囲する。それは、単なる自然現象ではなく、土地に根差した神の意志そのものであった。雷光は白や青だけでなく、赤や紫、金色など様々な色彩を放ち、それぞれがまるで命を持つかのように、アビサルを追い詰めていく。
村人たちは、二柱の神々の戦いに息を飲み、安全な場所へと避難しながらも、固唾を飲んでその様子を見守っていた。子供たちは母親の胸に顔を埋め、青年たちは村の長老を囲んで守るように立ち、老人たちは杖を突きながらも、雷神社の方向へと静かに祈りを捧げ始めていた。
アビサルは、雷神の繰り出す攻撃に対し、時の力で応戦しつつも、かつて自らが振るった神威の片鱗を垣間見る思いだった。そして同時に、その力を信じ、裏切られた苦い記憶が蘇る。時の狭間から見た人間どもの欺瞞と裏切りは、一瞬の輝きのような命を持つ彼らから、最後の望みまで奪い去ってしまったのだ。
「誓い、か…随分と懐かしい言葉を聞いたものだ。だが、その誓いとやらが、どれほど脆いものか、お前はまだ知らぬようだな」
アビサルの声は、痛烈な皮肉と、どこか深い悲しみを湛えていた。その肩には、数千年の孤独と怒りの重みが乗っているかのようだった。
激しい攻防が続く中、雷神は一瞬、アビサルの言葉の裏に潜む深い傷を察したのか、わずかに動きを緩めた。しかし、自らの民を守る使命を思い出すように、再び闘志を燃やした。
「わが民を守る誓い、この地を守る誓い――それは千年を越えても変わらぬ。人は移ろい、時は流れても、神の誓いは永遠なり!」
雷神の言葉に、村人たちの祈りが呼応するかのように、一層強くなっていく。たとえ言葉にはできなくとも、彼らの心の叫びはひとつだった。
「雷様、お鎮まりください!」
「今年もどうか、我らに恵みをお与えください!」
「どうか、この村をお守りください…」
恐怖に震えながらも、彼らは祈りを捧げ続けていた。その姿は、アビサルにとって、理解し難いものであり、同時に、心の奥底に仕舞い込んだはずの何かを揺さぶるものであった。
「何故…何故、お前たちは祈るのだ? あれほど裏切られても、踏みにじられても、なぜ、神を信じられる?」
アビサルの疑問は、自らへの問いかけでもあった。彼の力が一瞬揺らいだその隙を狙い、雷神の巨大な稲妻が彼を直撃した。激しい光の中で、アビサルの姿が一瞬、見えなくなる。
第三幕:神の眼差しと村人の祈り
雷鳴が過ぎ去り、闇の中に浮かび上がったアビサルの姿。衣は焦げ、肌は煤けながらも、なお厳然と立ち尽くしていた。しかし、その表情には明らかな変化が現れていた。
かつての傲岸さは影を潜め、代わりに浮かんでいたのは、深い思索に沈んだような表情。彼は、ふと動きを止めた。雷神の攻撃を避けることも、反撃することもなく、ただ村人たちの祈りの声に耳を傾けている。
老人や子供、若者、母親たち——彼らの祈りは、純粋で、ひたむきで、そして心からのものだった。傷つけられても、失望を味わっても、なお何かを信じる力。自分にはもう持ち得ないその感情に、アビサルは複雑な思いを抱いたのだろうか。
「……くだらぬ。実に、くだらぬ」
その呟きは、誰に向けたものだったのか。雷神か、村人たちか、あるいは、かつての自分自身にか。言葉の裏には、複雑な感情が交錯していた。怒りや嘲笑だけでは片付けられない、懐かしさや羨望、そして諦めさえ感じさせるトーンだった。
「興が醒めた。お前の勝ちでよい、土地神。そのちっぽけな楽園で、せいぜい人間たちの気まぐれな信仰とやらに応えてやるがいい」
アビサルはそう言い放つと、一方的に戦いを放棄し、背を向けた。その姿は、神というには人間的すぎる、しかし人間というには超然としすぎる、複雑な存在を思わせた。
雷神は、アビサルの真意を測りかねたように、しばし沈黙していたが、やがて村人たちに向き直り、最後の雷を天へと放った。それは、破壊ではなく、祝福の雷光だった。
「民の祈りに応え、大地に力を。穂に実りを、心に希望を」
雷神の厳かな言葉と共に、空は急速に晴れ渡り、太陽の光が雲間から差し込んだ。そして、空には大きな虹がかかり、雷豆の畑は、例年以上の輝きを放っていた。神々しい光景に、村人たちは静かな感動と共に、雷神に深々と頭を垂れた。
アビサルは、村の入り口で一度だけ振り返り、虹と村人たちの歓声、そして静かに佇む雷神の姿をその目に焼き付けた。
「フン、人間も神も、所詮は時の流れの中で踊る操り人形か…」
その皮肉な言葉とは裏腹に、彼の胸の内には、ほんの僅かながら、忘れかけていた温かいものが灯ったような気がした。それは、かつて自らが抱いていた、世界への誠実な眼差しの面影だったのかもしれない。
エピローグ:伝承と神々の足跡
この雷鳴村での出来事は、やがて「虹を呼んだ異邦神」の伝説として、村人たちの間で語り継がれていくことになる。祭りの晩、炉端で老人たちが子供たちに語り聞かせる物語の一編として、時に誇張され、時に美化され、しかし本質は変わらず伝えられていく。
―― その日、黒衣の旅人は実は異世界の神であった。雷神様とのあまりの激しい戦いに、空が割れ、大地が震えたという。しかし、旅人は雷神様の誠実さと民の祈りの強さに心打たれ、争いを諦めたのだ。そして、旅立ちの時、虹を贈り物として残していったという――
とりわけ、老人が語る話には、アビサルとの実際の対話や、その目に宿っていた悲しみのようなものまでが、驚くほど正確に含まれていた。あたかも、アビサルの本質の一端を見抜いていたかのように。
一方、アビサルは、また新たな気まぐれな旅を続ける。人間の本性とは何か、神とは何か、その答えを見つけられぬまま、あるいは、見つけることを望まぬままに。ただ、これからの彼の旅には、かつてなかった何かが加わっているのかもしれない。
バー「クロノス」に戻った時、晴明は静かにグラスを磨きながら、アビサルの旅の様子をそれとなく尋ねるだろう。そして、アビサルはいつものように皮肉めいた言葉で返しながらも、おそらくは雷鳴村での出来事を、ほんの少しだけ、懐かしむような口調で語るだろう。
世界には、アビサルのような「時を司る神」が介入すべき場所も、雷神のような「土地を守る神」に任せるべき場所もある。それは、神々の棲み分けであり、また、時として交わることで生まれる新たな物語でもあった。
彼らが去った後の雷鳴村の空には、いつまでも鮮やかな虹がかかっていたという。そして、その年の雷豆は、かつてないほどの豊作だったという――。
(外伝一話 完)
お読みいただき、ありがとうございます!
第7話、いかがでしたでしょうか?
土地神とのバトルから、アビサルの本心が見え隠れするようです。
今後の展開にもぜひご期待ください。
原作が気になった方はウェブサイトを覗いてみていただければと思います。