第17話 決戦の序曲
登場人物
クロノス・アビサル:時を司る悪神。冷徹だが、知的好奇心は旺盛。
アーデン・グレゴリー・晴明: バー「クロノス」のマスター。元賢者。
白狐稲荷:商売繁盛と豊穣をもたらす狐の姿をした土地神。
雷電大明神:雷を司る山間の小さな村「雷鳴村」の土地神。
瀬織津姫:大河の守護神。水流・浄化・災厄払いの力を持つ。自然の秩序を重んじる誇り
バー「クロノス」の静寂は、もはや停滞の色を失っていた。二つの世界を繋ぐという壮大な儀式の道筋が立ち、残る課題はただ一つ。暴走する忠義の亡霊、セバスチャンをいかにして儀式の間、捕らえておくか。
「…力ずくで押さえ込むのは、おそらく不可能ですな」
晴明は、カウンターに置かれた古びた杯を静かに見つめながら言った。翔との交信で、その力の一部を垣間見た今、祖父としての情とは別に、一人の術師として孫の成長を頼もしく感じていた。
「彼の亡霊は、もはや単なる霊体ではない。アビサル様の呪いによって歪められたとはいえ、時を操る力をその身に宿している。物理的な攻撃や、ありきたりの封印術では、時間をずらして逃れられてしまうでしょう」
「フン。我輩の術の厄介さを、ようやく理解したか」
アビサルは、グラスに残った琥珀色の液体を揺らしながら、不機嫌そうに言った。だがその声には、以前のような傲岸不遜さは薄れていた。自らの過ちが生んだ悲劇を前に、彼の内面にも変化が訪れているのは明らかだった。
「奴を完全に捉えるには、奴の時の権能そのものを上回る、強大な力による『領域』で包み込み、身動きを封じる必要がある。…それも、複数の性質の異なる力を、寸分の狂いなく連携させて、だ」
その言葉は、事実上の敗北宣言にも似ていた。アビサル一人の力では、成し遂げられない。晴明の力だけでも足りない。そして、異世界にいる翔の力は、儀式の「門」を開くために温存しなければならない。
「…ならば、道は一つしかありませぬ」
晴明は、顔を上げた。その瞳には、覚悟の光が宿っていた。
「この日本の地に坐す、神々の御力をお借りするのです」
アビサルの金の瞳が、わずかに見開かれた。雷神、水神、狐神…これまで、自らの力を誇示し、時には見下しさえした相手に、頭を下げて助力を乞う。それは、時の神クロノス・アビサルにとって、最大の屈辱を意味した。
だが、彼は、ゆっくりと頷いた。
「…よかろう。我輩の蒔いた種だ。その始末をつけるためならば、安いものよ」
異世界の神が、初めてこの世界の理に頭を垂れた瞬間だった。
第一幕:雷神の快諾
最初に訪れたのは、関東平野を見下ろす霊峰の頂。かつて、激しい神威の応酬を繰り広げた、雷電大明神の領域だった。
空には、彼らの来訪を歓迎するかのように、穏やかな雷鳴が遠くで鳴り響いている。
「…何の用だ、異界の神よ。また我と力比べにでも来たと申すか」
岩座に腰掛けた雷神は、相変わらず豪放な態度で二人を迎えた。だがその目には、試すような色が浮かんでいる。
晴明が一歩前に出て、事情を説明しようとした、その時だった。
アビサルが、それを手で制した。そして、ゆっくりと、雷神の前に進み出た。彼は、何のためらいもなく、その場で膝をつき、深く頭を垂れたのだ。
「雷電大明神よ。我が非礼を詫びる。そして、お主の力を貸してほしい」
その光景に、雷神は言葉を失った。あの傲岸不遜で、神としての誇りの塊であったはずのアビサルが、いとも容易く頭を下げている。それは、雷を地に落とすよりもあり得ない光景だった。
「…頭を上げよ、時の神。お主ほどの神が、そう易々と頭を下げるものではない」
雷神の声には、困惑と、そして意外なほどの敬意が込められていた。
アビサルは顔を上げ、自らが犯した過ちの全てを語った。自らの呪いが、忠義の騎士を狂わせ、亡霊としてこの世界に縛り付けていること。その魂を救済するためには、日本の神々の力が必要不可欠であることを。
「…元凶は、我輩だ。この世界の秩序を乱しているのは、この我輩に他ならん。故に、頼む。お主のその雷で、かの騎士を打ち、その動きを封じてほしい」
話を聞き終えた雷神は、しばし沈黙した後、天を仰いで豪快に笑った。
「クハハハ! まこと、面白い神よ、お主は! 自らの過ちを認め、こうして頭を下げに来るとはな! よかろう!」
雷神は立ち上がり、その巨躯から発せられる圧が、周囲の空気を震わせた。
「世界の秩序を乱す者、それがたとえ神の仕業であれ、見過ごすわけにはいかぬ。そして何より、お主のような神が頭を下げて頼むとあらば、この雷電大明神、一肌脱がぬわけにはいくまい! 我が雷、お主らのために存分に振るってやろうぞ!」
その言葉は、力強く、そして何よりも頼もしかった。
第二幕:水神の慈悲
次に二人が向かったのは、雄大な大河の流れを治める、水神・瀬織津姫の領域だった。
清らかな水が絶え間なく流れ、あらゆる穢れを洗い流す聖域。姫は、変わらぬ穏やかな表情で二人を迎えた。
「お待ちしておりました、時の神、そして賢者殿」
その言葉から、彼女が全てを見通していることは明らかだった。
アビサルは、ここでもまた、ためらうことなく膝をつき、頭を垂れた。
「瀬織津姫よ。お主には、かの亡霊を封じ込めるための、『水の牢獄』を創っていただきたい。かの者が時を歪める前に、お主のその浄化の力で、彼の魂を包み込んでほしいのだ」
瀬織津姫は、哀しげに目を伏せた。
「…哀れな魂。忠義の果てに道を踏み外し、異界で苦しみ続けているのですね。彼の魂が流す涙が、この川の流れを少しずつ濁らせているのを、わたくしは感じておりました」
彼女は、セバスチャンの苦しみをも、自らの領域の一部として感じ取っていたのだ。
「あなたの過ちを責めはしませぬ、時の神。神とて、過ちを犯すもの。大切なのは、その過ちとどう向き合うかです」
姫は、そっとアビサルの前に手を差し伸べた。その手から、清らかな水の雫が生まれ、アビサルの足元に落ちて、小さく波紋を広げた。
「わたくしの力、お貸ししましょう。彼の魂が、これ以上穢れることのないように。そして、安らかなる場所へと還れるように。この瀬織津姫、全力でお手伝いさせていただきます」
その声は、全てを包み込む母のような慈愛に満ちていた。
第三幕:狐神の愉悦
最後に訪れたのは、白狐稲荷の社。赤い鳥居が続く、妖しくも美しい森の中だった。
「おやおや、これはこれは。負け戦の後のような顔をして、一体どうなさいましたか、時の神様?」
社の縁側から、白狐稲荷が面白そうに顔を覗かせた。
アビサルは、もはや三度目となった土下座を、完璧な所作で披露した。
「白狐稲荷よ。お主のその幻術の力、貸してほしい」
アビサルは、作戦の全容を語った。セバスチャンが最も執着しているであろう、狂王ヴォルフガングの幻を見せ、彼を誘き出す。それが、この作戦の肝だった。
「…なるほど。忠義の心を逆手に取り、罠に嵌めようと。あなた様も、なかなか悪趣味でいらっしゃる」
狐神は、クスクスと喉を鳴らして笑った。
「だが、面白そうだ。実に、実に面白い! あの高慢ちきな神様が、妾に頭を下げて、悪だくみの片棒を担いでくれと頼んでおられる。こんな面白い見世物、千年ぶりかもしれませぬな!」
彼女は、扇子で口元を隠しながら、愉悦に瞳を細めた。
「よろしいでしょう。その頼み、引き受けました。あの哀れな騎士殿に、それはそれは見事な王様の幻を、夢を見せて差し上げましょうぞ。妾の幻術の全てをかけてね」
その瞳の奥には、神としての矜持と、そして目の前の異界の神に対する、確かな好意が浮かんでいた。
エピローグ:神々の盟約
こうして、異世界の神アビサルは、日本の地に坐す三柱の強力な神々の協力を取り付けることに成功した。
決戦の地と定められたのは、霊峰の麓に広がる、広大な野原。かつて、神話の時代に、神々が戦ったと伝えられる場所だった。
そこに、四柱の神と一人の賢者が集う。
天には雷鳴を轟かせる雷電大明神。
地には清流を巡らせる瀬織津姫。
空間には幻惑の霧を漂わせる白狐稲荷。
そして、その中心に立つ、時を司る神クロノス・アビサル。
「…これだけの神威が一堂に会するとは。壮観ですな」
晴明は、感慨深げに呟いた。
「フン。我輩の威光に比べれば、まだまだよ」
アビサルは憎まれ口を叩くが、その表情はどこか晴れやかだった。
ここに、世界の危機を救うため、異世界の神と日本の神々による、前代未聞の同盟が結ばれた。
彼らの視線の先、空間がぐにゃりと歪み、黒い影が現れる。狂王への忠義に囚われた亡霊、セバスチャンが、幻の主君の気配を追って、姿を現したのだ。
決戦の幕が、今、静かに上がろうとしていた。
(第17話 完)
お読みいただき、ありがとうございます!
アビサルと晴明の性格が固まってきた感じがしますが、
漫才のようになってきました。
これまで登場した土地神が大集合となりました、
物語は一気にクライマックスを迎えようとしています。
今後の展開にもぜひご期待ください。
原作が気になった方はウェブサイトを覗いてみていただければと思います。




