第二話 氷上の残像と未来への助走
登場人物
アーデン・グレゴリー・晴明:バー「クロノス」のマスター。孫の翔を溺愛。
クロノス・アビサル:時を司る神。気まぐれで人間の本性を試すことを楽しむ。
高峰 翔子:元有名フィギュアスケーター。
前書き
異世界から現代(?)にやってきた時の神と賢者の二人、果たして何が起きるのか。原作の王道ファンタジーからのスピンオフ小説、バー「クロノス」を舞台に、神の遊びの目的は・・・。
静謐な空気が満ちるバー「クロノス」。磨き上げられたカウンターの向こうで、マスターのアーデン・グレゴリー・晴明は、グラスを一つひとつ丁寧に拭き上げていた。その目はどこか遠くを見ているようでもあり、過去の情景を映しているようでもあった。
(翔も、あちらの世界ではなかなかの運動神経を見せていたな。もし、あのまま鍛錬を積んでいれば、あるいは騎士として大成していたやもしれぬ。もっとも、あやつには剣よりも書物の方が性に合っていたようだが…)
元の世界に残してきた孫の翔。その姿を思うたび、晴明の胸には温かいものと、一抹の寂しさが同時に去来する。それは、この異世界での平穏な日々と引き換えにした、賢者としての過去、そして家族との絆だった。
カウンターの隅、深い影に溶け込むようにして一人の客が座っている。今日の姿は、どこか掴みどころのない、中性的な魅力を持つ若者だ。手にしたスポーツ雑誌のページを、まるで価値のない紙切れでもめくるかのように扱っている。
「アビサル様、本日はまた随分と…若々しいというか、性別を超越したようなお姿ですな」
晴明が、いつものように抑揚のない声で尋ねる。
アビサルと呼ばれた若者は、雑誌から目を上げることなく、唇の端を歪めた。
「ほう? 人間の陳腐なカテゴリーに当てはめようとは、賢者の末裔も形無しだな。私はただ、最も興味深い魂の輝きを観察するのに適した器を選んでいるに過ぎん。今日の魂は、過去という甘美な毒に随分と深く冒されているようだ。だが、その毒が新たな花を咲かせるかもしれん。面白い見世物になりそうだよ」
その声は、若者のものとも老人のものともつかない、不思議な響きを持っていた。
第一幕:奇妙な体験とバーへの訪問
「カラン…」
重厚な扉が開く音と共に、一人の女性が力ない足取りで入ってきた。年の頃は三十代後半だろうか。かつては華やかだったであろう面影を残しながらも、その瞳には深い疲労と、諦観にも似た影が落ちている。元有名フィギュアスケーター、高峰翔子だった。
最近、彼女は奇妙なデジャヴュに悩まされていた。ふとした瞬間に、過去の試合の光景や、氷を蹴る感覚、耳に残る大歓声が、まるで今体験しているかのように鮮明に蘇るのだ。今日も、指導していた若い選手のジャンプを見ていた時、自分が国際大会で喝采を浴びた瞬間の高揚感がフラッシュバックし、思わず指導の言葉が途切れてしまった。
原因は分からない。ただ、言いようのない不安と焦燥感に駆られ、まるで何かに導かれるように、このバー「クロノス」の扉を開けていた。
「…何か、落ち着けるものを。少し、混乱していて…」
か細い声でオーダーすると、翔子はカウンター席に深く沈み込んだ。
晴明は黙って頷き、手際よく温かいハーブティーを淹れ始めた。その所作には、客の心を解きほぐすような静かなリズムがある。
「ようこそお越しくださいました。マスターの晴明と申します。何かお悩みでも?」
ハーブの優しい香りに包まれ、翔子はぽつり、ぽつりと語り始めた。奇妙なデジャヴュのこと。それが過去の栄光と強く結びついていること。そして、引退しコーチとなった今も、心のどこかで氷上への未練を断ち切れず、指導にも身が入らないこと…それは、誰にも打ち明けられなかった、彼女自身の弱さの告白でもあった。
不意に、隣の席から声がかかった。いつの間にか、そこには飄々とした雰囲気の男が座り、翔子の話に耳を傾けていた。アビサルが姿を変えた、スポーツジャーナリスト風の男だった。
「それは素晴らしい体験じゃないですか、高峰さん。過去の最高の瞬間を、まるで今起こっているかのように感じられるなんて。それは、あなたがまだ輝ける証拠かもしれませんよ。その感覚、もっと研ぎ澄ませてみてはいかがです? もしかしたら、今の指導にも何か新しい発見があるかもしれません」
男は、あくまでコーチとしての彼女の成長を示唆するような、穏やかな口調で言った。
翔子は、その言葉にハッとした。ただのデジャヴュではない。この男は、何かを知っている。自分の心の奥底、誰にも見せたことのない部分まで見透かされているような…。なぜ、初対面のはずのこの男が、私のこの奇妙な現象をここまで詳しく知っているのだろう? 翔子は言いようのない不気味さを感じ、男の顔をまじまじと見つめた。
アビサルは、翔子の心の揺らぎを見透かしたように、挑戦的な笑みを浮かべた。
「過去の栄光を追体験できる力、とでも名付けましょうか。ただし、その力に溺れるか、未来への糧とするかはあなた次第ですよ」
そう言い残し、アビサルは代金をカウンターに置くと、音もなく店を出て行った。
第二幕:力の行使と苦悩
翌日から、翔子はコーチとしてリンクに立つ傍ら、アビサルに与えられた力を積極的に使い始めた。目を閉じれば、いつでも過去の自分の完璧な演技や、限界まで追い込んだ練習の感覚を、鮮明に追体験できるのだ。
その感覚は、驚くほど具体的だった。筋肉の動き、エッジの角度、音楽との一体感。翔子は、その研ぎ澄まされた感覚を元に、教え子たちの指導にあたった。以前よりも指導の言葉は熱を帯び、具体的なアドバイスも的確になった。一時的にではあるが、教え子たちの技術は目に見えて向上し、翔子自身も指導に確かな手応えを感じ始めていた。
「これだわ…この感覚よ!」。翔子は、久しぶりに高揚感を覚えていた。
しかし、その効果は長くは続かなかった。副作用が、じわじわと彼女を蝕み始めたのだ。
追体験する過去の栄光があまりにも鮮烈なため、現実と過去の区別が曖昧になっていく。そして翔子は、無意識のうちに、目の前の教え子たちに、過去の自分と同じレベル、あるいはそれ以上のものを求めるようになっていた。
「なぜできないの!私があの頃は、これくらいのジャンプは朝飯前だったわよ!」
「もっとハングリーにならないと!今のあなたたちには、それが足りないの!」
教え子たちの個性や年齢、そして現在の実力といったものを無視した、一方的で厳しい言葉が次々と飛び出す。かつての自分がそうであったように、あるいはそれ以上に。リンクにはいつしか、選手たちの笑顔が消え、重苦しい空気が漂うようになっていた。
当然、選手たちとの関係は急速に悪化していく。練習を休む者、あからさまに反抗的な態度を取る者も現れた。保護者たちからのクレームも、日増しに増えていった。
そんな翔子の前に、アビサルは時折姿を変えて現れた。ある時は、彼女の現役時代の厳格なコーチの姿で。
「それでいい、高峰。過去のお前はもっと厳しかったはずだ。甘っちょろい今の若者には、それくらいのプレッシャーが必要だ。もっと過去に浸ればいい。現実の面倒な人間関係など忘れられるほどにな」
アビサルの甘言は、翔子の心の隙間に巧みに入り込み、彼女をさらに過去の栄光へと引きずり込もうとしていた。
第三幕:挫折とバーへの再
力の副作用と、コーチとしての信頼失墜。翔子の心身は、確実に疲弊していった。そしてついに、決定的な出来事が起こる。
将来を嘱望されていた一人の教え子が、翔子の厳しい指導による無理な練習がたたり、練習中に大きな怪我をしてしまったのだ。医師からは、選手生命に関わるかもしれない、と。
「私のせいだ…私が、あの子の未来を…」
自己嫌悪と絶望感が、津波のように翔子を襲った。指導者としての自信は完全に打ち砕かれ、彼女は再び、吸い寄せられるようにバー「クロノス」の扉を叩いていた。
晴明は、何も言わずに彼女を迎え入れた。そして、以前彼女がふと「好きだ」と漏らした、ベリーニを静かに作り始めた。その優しい色合いのカクテルは、今の翔子にはあまりにも眩しすぎた。
「もう…ダメよ。コーチとしても、人間としても…。私、過去の栄光にばかり囚われて、一番大切なものを見失っていた…」
涙ながらに、翔子は途切れ途切れに言葉を紡いだ。それは、魂からの叫びにも似ていた。
晴明は、翔子の言葉を静かに受け止めていた。そして、グラスを磨く手を止め、ゆっくりと口を開いた。
「高峰様、過去のあなたは確かに輝かしかった。しかし、それは今のあなたを縛る鎖ではなく、未来へ踏み出すための灯火となるべきものです。過去の栄光を再現しようとするのではなく、今のあなただからこそできることがあるはずです。過去の経験と、今のあなたが積み重ねてきた時間、その両方が合わさってこそ、誰も真似できない何かが生まれるのではないでしょうか」
晴明の声は、変わらず淡々としていたが、その言葉には不思議な重みがあった。
「私の孫も…翔も、いつか過去の成功や失敗に囚われる時が来るかもしれません。その時、ただ慰めるのではなく、そこから何を学び取り、新しい自分としてどう歩むべきかを一緒に考えられる祖父でありたいものです」
その時、カウンターの隅で静かにグラスを傾けていた老紳士 ――アビサルが今日の姿―― が、ふっと息を漏らした。
「ほう、過去の幻影を追いかけるのをやめ、新たな自分を創造しようというのか。人間とは、時に面白い進化を見せるものだな。さて、賢者の言葉でどう変わるか、見届けてやろう」
その声には、いつもの皮肉に加えて、ほんの少しの好奇心が滲んでいるように聞こえた。
晴明の言葉、そしてアビサルのどこか挑戦的な言葉は、翔子の心に雷に打たれたような衝撃を与えた。
「今の私だからこそできること…」
それは、過去の栄光を今の指導に活かす、というような小さな次元の話ではなかった。もっと根源的な、魂の渇望。もう一度、自分自身が氷の上に立ちたい。自分自身のスケートで、何かを表現したい――!
その思いは、あまりにも突飛で、無謀に思えた。しかし、一度芽生えた炎は、もはや誰にも消し止めることはできなかった。
翔子は、コーチを辞めることを決意した。そして、プロスケーターとして現役復帰するという、周囲の誰もが耳を疑うような道を選んだのだ。
練習を再開した当初は、まだアビサルの力に頼り、過去の感覚を追体験しようとしていた。しかし、晴明の言葉が胸の奥で静かに響き続ける。「今のあなただからこそできること…」。
徐々に、彼女は過去の自分と現在の自分を比較することをやめた。そうではなく、今の自分にしかできない表現とは何かを、必死に模索し始めたのだ。
その過程で、翔子は気づいた。過去の栄光の「残像」は、もはや超えるべき壁ではない。それは自分自身の一部であり、今の自分を形作る上で欠かせない、豊かな源泉なのだと。いつしか彼女は、アビサルの力に頼ることをやめ、自身の力で、自身の心で、氷と向き合うようになっていた。
リンクサイドでその様子を眺めていたアビサルは、翔子がもはや力を使わなくなったことに気づいていた。そして、予想もしなかったプロ復帰という道を選んだことに、内心では少なからず驚いていた。しかし、それを表情に出すことなく、ただ面白そうに彼女の挑戦を見守っていた。
「フン、賢者の入れ知恵か何か知らんが、まさか再び氷上に戻るとはな。ただ過去に浸るだけでは飽き足らず、自ら新たな舞台に立つか。人間というものは、時として神の想像すら超えることをする。実に愉快だ。その悪あがき、とくと見させてもらうとしよう」
アビサルの独り言には、いつになく期待の色が濃く滲んでいた。
そして、復帰のエキシビションの日がやってきた。
満員の観客が見守る中、リンクに現れた翔子の姿は、以前のような鋭さや若々しさはないかもしれない。しかし、その滑りには、人生の深みと、過去を受け入れ未来へ踏み出す意志の強さ、そして何よりも、再び氷の上に立てる純粋な喜びが満ち溢れていた。
プログラムがクライマックスを迎える。それは、かつての彼女の代名詞だった高難度のジャンプではなく、見る者の心を揺さぶる、魂のこもったステップとスピンだった。観客は、息をのんでその姿に見入り、そして演技が終わると同時に、割れんばかりの拍手と歓声が会場を包み込んだ。それは、過去の栄光の再現を求めるものではなく、新たな高峰翔子の誕生を心から称賛する温かい声だった。
客席の一角で、晴明はその光景を静かに見守っていた。ふと、彼の視線が観客席の別の場所で止まる。そこには、以前翔子の指導中に怪我を負った、あの教え子の姿があった。松葉杖も使わず、仲間たちと笑顔で拍手を送っている。大事には至らなかったのだと、晴明は安堵の息を小さく漏らした。
晴明が隣のアビサルに視線を移すと、アビサルはステージ上の翔子から目を離さぬまま、口の端をわずかに上げてみせた。まるで、「ちょっとしたおまけだ。この方が見世物としては面白いだろう?」とでも言いたげな、いつもの食えない態度だった。アビサルが教え子の「時」にほんの少し干渉し、最悪の事態を回避させたのかもしれない。その真意は定かではないが、彼の気まぐれが、結果として一つの未来を救った可能性を晴明は感じていた。
アビサルは、予想以上の展開に満足げな、あるいは少しだけしてやられたような複雑な表情で、ステージ上の翔子から目を離せずにいた。
氷上の残像は消えない。だがそれはもはや、彼女を過去に縛り付けるものではなく、未来へと踏み出すための確かな助走となっていた。
(第二話 完)
お読みいただき、ありがとうございます!
第2話、いかがでしたでしょうか?
過去の栄光や成功体験にどうしても縛られるものですよね。
物語はまだ淡々と進みますが、アビサルは意外といいやつなのでしょうか。
今後の展開にもぜひご期待ください。
原作が気になった方はウェブサイトを覗いてみていただければと思います。