第12話 氷上の幻影と賢者への疑惑
登場人物
クロノス・アビサル:時を司る悪神。冷徹だが、知的好奇心は旺盛。
アーデン・グレゴリー・晴明: バー「クロノス」のマスター。元賢者。
高峰 翔子:元有名フィギュアスケーター。
雷鳴村を後にしてから数時間。バー「クロノス」に戻った晴明とアビサルは、重い沈黙の中にいた。いつもの軽口も、皮肉さえも、今はアビサルの口から発せられることはない。彼の金の瞳は、カウンターの一点を見つめたまま、その奥に渦巻く感情を読み取らせようとはしなかった。
雷神がもたらした情報は、あまりにも衝撃的だった。
『あれは神ではない。少なくとも、この地の理に連なる存在ではない』
『ひどく悲しんでおった。何かを…あるいは誰かを探し求め、ただ彷徨っているようだった』
この世界に土着する、未知の時の神。その仮説は、脆くも崩れ去った。アビサルのプライドを刺激し、彼を調査へと駆り立てた根拠そのものが、消えてなくなったのだ。
晴明は、磨いていたグラスを静かに置いた。
「神ではないとすれば、一体何者なのでしょうな。人の身で、これほどの時を操る術を持つ者がいるとでも…?」
それは、独り言のようでもあり、目の前の不機身な神への問いかけのようでもあった。
長い沈黙を破り、アビサルがゆっくりと口を開いた。その声は、静かだが、刃のような鋭さを秘めていた。
「…決まっておろう」
アビサルはゆっくりと顔を上げ、その視線でまっすぐに晴明を射抜いた。
「お前だ、晴明」
第一幕:賢者への疑惑
「…わし、ですと?」
晴明は、一瞬、言葉の意味を測りかねたように、わずかに目を見開いた。
「そうだ。この期に及んでとぼけるなよ、元賢者」
アビサルの声には、確信にも似た響きがあった。
「神でないとすれば、残る可能性は一つ。かつて神々にも匹敵する力を持ち、この世界にやってきた異邦人。…お前以外に誰がいる?」
アビサルはカウンターから立ち上がると、ゆっくりと晴明の周りを歩き始めた。まるで獲物を品定めするように。
「雷神の言葉は、お前のことを指しているとしか思えん。『ひどく悲しんでいる』…元の世界に孫や家族を残してきたお前は、常に悲しみをその魂に纏っているではないか。『何かを探している』…この世界から故郷へ帰る術を探しているのだろう? そして何より、その力の『未熟さ』だ」
アビサルは晴明の目の前で止まると、嘲るように唇を歪めた。
「この世界に来て、お前の力も錆びついたと見える。あるいは、世界の理が違うせいか、かつてのようには術を制御できんのだろう。だから、意図せずして力を暴発させ、慌ててそれを修復する。我輩の目から見れば、滑稽なことこの上ない」
それは、あまりにも突飛な、しかしアビサルにとっては極めて論理的な推理だった。神という可能性が消えた今、彼が知る唯一の「人間でありながら神に比肩する術の使い手」は、目の前にいる男だけなのだから。
晴明は、アビサルの視線を真っ直ぐに受け止めていた。その表情に動揺はない。ただ、深い静けさがあった。
「…アビサル様。わしが使う秘術は、世界の理を読み解き、その流れに沿って最小限の力で事象を書き換えるもの。いわば調和の術です。今起きているような、力任せに現実を破壊し、無理やり修復するような無粋な真似は、わしの美学に反します」
「美学だと? そのようなもの、とうの昔に捨てたのではないのか?」
「いいえ」と晴明はきっぱりと首を振った。「わしが力を振るうのは、守るべきものがある時だけ。そして、もしこのわしが故郷への道を本気で探すならば、このような回りくどい手は使いません。もっと静かに、世界の深奥にアクセスし、誰にも気づかれずに道をこじ開けるでしょう。…お忘れかな? わしは、かつてあなたと渡り合った賢者なのですよ」
その言葉には、絶対的な自負があった。二人の間に、見えない火花が散る。張り詰めた緊張が、店の空気を支配した。
その時だった。
「カラン…」
ドアベルが鳴り、一人の女性が店に入ってきた。
第二幕:氷上の幻影
「こんばんは、マスター。お久しぶりです」
そこに立っていたのは、晴れやかな笑顔を浮かべた高峰翔子だった。プロスケーターとして新たな道を歩み始めた彼女は、以前の翳りは完全に消え、内側から発光するような輝きを放っている。
「これは、翔子さん。ようこそ」
晴明は、一瞬でバーのマスターの顔に戻り、彼女を優しく迎え入れた。アビサルの放っていた刺々しいオーラも、客人の前ではすっと内側へ隠される。
「ご活躍は、ニュースで拝見しておりますよ。素晴らしい演技でした」
「ありがとうございます。それもこれも、マスターと…あちらのお客様のおかげです」
翔子は、カウンターの隅に座るアビサル(今日は仕立ての良いスーツを着た実業家風の男だ)に、ぺこりと頭を下げた。アビサルは興味なさそうに、ふいと顔をそむける。
「今日は、近くまで来たものですから、そのお礼を言いに。それと…少し、不思議なことがあったので、ご報告までに」
翔子は、晴明が出したクランベリージュースを一口飲むと、楽しそうに語り始めた。
「先日、深夜のリンクで一人で練習していたんです。そしたら、ほんの一瞬でしたけど、リンクの向こう側に、誰か立っているのが見えたんです」
「ほう。それは、ストーカーか何かですかな?」
アビサルが、初めて会話に加わった。
「いえ、それが違うんです」と翔子は首を振る。
「人、というより…幻、みたいな。それに、格好がとても古風で。何と言ったらいいのか…そう、ヨーロッパの、中世の騎士が着るような、全身を覆う重々しい鎧を着ていたんです」
「…西洋の鎧?」
晴明の声が、わずかに低くなった。
「ええ。銀色に鈍く光る、とても美しい鎧でした。でも、本当に一瞬で。目をこすったら、もうそこには誰もいませんでした。ただ…」
翔子は、何かを思い出すように、自分の腕をさすった。
「その人がいた場所だけ、空気が凍るように冷たかったんです。リンクの上よりも、もっとずっと冷たくて。まるで、氷の彫刻でも置かれていたみたいに」
見間違いかな、とも思ったんですけど、と翔子は笑う。しかし、晴明とアビサルは、もはや笑うことはできなかった。
二人は、無言で顔を見合わせる。
そこには、先ほどまでの疑心や敵意とは全く別の、共通の驚愕があった。
第三幕:繋がる点と線
翔子が「それでは」と晴れやかに帰って行った後、店には再び静寂が戻った。だが、その静寂の質は、先ほどとは全く異なっていた。
「…西洋の鎧、か」
アビサルが、呟いた。その声には、もはや晴明への疑いの色は欠片もなかった。
「フン、どうやら我輩の推理は外れだったようだな。賢者よ、お前が西洋かぶれだったとは初耳だ」
「ご冗談を」と晴明は苦笑する。「わしの一族は、古来よりこの日の本によく似た霧隠の流れを汲む者。西洋の騎士道とは、とんと縁がございません」
疑いが晴れたことで、アビサルの思考は水を得た魚のように活発に動き出す。
「神ではなく、賢者でもない。だが、時を操る力を持つ。その姿は、西洋の甲冑を纏った騎士。そして、深い悲しみを抱え、何かを探している…。ククク、面白い。実に面白いことになってきたではないか」
晴明は、カウンターの上で指を組み、思考を整理していた。
「事故現場に残された、制御不能な時の力の痕跡」
「雷神が感じ取った、神ならざる者の深い悲しみと探索行」
「そして、翔子さんが目撃した、氷のように冷たい西洋甲冑の幻影」
点と点が、繋がり始めている。それは、まだ朧げな一つの像しか結ばない。しかし、確かな方向性を示していた。
「この現象を引き起こしているのは、神でも、この世界の住人でもないのかもしれません」と晴明は言った。「もっと別の…例えば、強い無念や目的を持ってこの世を去った、異国の魂。それが何らかの形でこちらの世界に迷い込み、その強すぎる想いが、周囲の時間を歪ませている…」
「亡霊、か」
アビサルは、その言葉を面白そうに繰り返した。「なるほど。神でもなく、賢者でもないのなら、残るはそれくらいか。己の死すら受け入れられず、時を超えて現世を彷徨う哀れな魂。そして、その未練の強さが、我輩の領域にすら干渉するほどの力を生み出していると? フン、馬鹿馬鹿しい。だが、愉快だ」
エピローグ:新たな仮説
アビサルの金の瞳が、爛々と輝き始めた。彼の興味は、もはや犯人捜しという次元にはなかった。それは、自らの領域を侵す「未知の法則」への、神としての純粋な知的好奇心だった。
「良いだろう。その亡霊騎士とやらが、一体何をそんなに探し回っているのか、この我輩が見届けてやろうではないか」
晴明は、アビサルのその変化を静かに見守っていた。
「ええ。まずは、この『西洋の鎧の騎士』についての情報を集めるのが先決ですな。日本で、そのような目撃談が他にもないか。あるいは、過去の歴史の中に、何かヒントが隠されているやもしれません」
疑惑は氷解し、二人の間には、再び奇妙な共犯関係が結ばれた。
バー「クロノス」の静かな夜。止まっていた時計の針が、また新たな謎へと向かって、ゆっくりと動き始める。
その先で待つのが、哀れな亡霊の魂の救済か、あるいは神をも巻き込む世界の危機なのか、まだ誰も知る由もなかった。
(第12話 完)
お読みいただき、ありがとうございます!
1話完結から新たな展開を迎え、
以前登場したキャラクターが出てきましたね。
次は誰が出るのでしょうか。
今後の展開にもぜひご期待ください。
原作が気になった方はウェブサイトを覗いてみていただければと思います。




